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婚約破棄された聖女ですが、私の祈りは「天気」に効くだけです。……え、辺境では大事なんですか?  作者: 雫 くずし


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第32話 五十年前の帳面

館の書庫は、北の塔の一階にあった。


天井まで届く棚に、革の背表紙がずらりと並んでいる。


ユリウス様は、いちばん奥の棚の前で止まった。


いちばん下の段。

ほこりをかぶった、茶色い帳面。


「祖父の代のものだ」


ユリウス様は、それを机の上に置いた。


表紙には、かすれた字でこう書いてあった。


『グレイフォード領 冬の帳面』


「領主は、毎年、冬の終わりに帳面をつける。薪の量、家畜の数、亡くなった者の数」


ユリウス様は、ページをめくった。


古い紙の、乾いた音がした。


「三年前、あなたの記録を読んだあと、うちの帳面も全部読み直した。空のことが書いてあるところだけ」


「全部、ですか」


「全部だ。百年分ある」


私は、ユリウス様の横顔を見た。


この人は、三年前から、ずっと空のことを調べていたのだ。


私の記録を読んで。

自分の家の古い帳面まで、全部。


「ここだ」


ユリウス様の指が、あるページで止まった。


私は、身を乗り出して読んだ。


『秋の終わり。北の山の帽子、例年より四十日早し。古老ども、不吉と言う』


その次の行。


『冬の初め。井戸の水、指を刺すごとし』


今朝のゲルトさんの言葉と、ほとんど同じだった。


ページをめくる。


『十日の後、北より白き風来たる。七日七晩、止まず』


『一日目。昼は晴れ。雲ひとつなし。夜、ひどく冷える』


『二日目。牛、立ったまま凍える』


『三日目。東の谷のハーゼ村より、煙上がらず』


私は、息を止めた。


『四日目。救いに出した者、峠の雪に阻まれ、戻る』


『七日目。白き風、止む』


『谷の村、三つ失う。ハーゼ、モルン、リーデ。百十二人』


最後の行は、字が震えていた。


『わしは、何もできなんだ』


書庫が、しんと静かになった。


私は、帳面から目を離せなかった。


百十二人。


谷の村が、三つ。


「祖父は、この冬のあと、毎年この帳面を読み返していたそうだ」


ユリウス様は、静かに言った。


「私が子どものころ、一度だけ聞いたことがある。あの冬は、昼間の空がいちばんきれいだった、と」


「昼の空が」


「雲ひとつない青空だったそうだ。だから、誰も逃げなかった」


私は、目を閉じた。


わかる。


晴れた夜は、冷える。


雲がない夜は、地面の温かさが、全部、空へ逃げていく。


王都でも、冬の晴れた朝ほど、霜がひどかった。


「ティア」


ユリウス様の声がした。


「同じものが、来るのか」


私は、目を開けた。


帳面の字を、もう一度読んだ。


それから、青い革のノートを開いて、今朝の空を書きこんだ。


山の帽子。

井戸の水。

北から来る、知らない冷たさ。


全部、五十年前と同じだった。


「来ます」


私は言った。


声が、少しかすれた。


「帳面のとおりなら、十日後です。七日間、続きます」


ユリウス様は、うなずいた。


驚いた顔はしなかった。


たぶん、さっき玄関で私の話を聞いたときから、わかっていたのだ。


「わかった」


それだけ言って、ユリウス様は書庫の扉を開けた。


「アンネ」


廊下の角から、アンネさんがすぐに顔を出した。


やっぱり、いた。


「はい、旦那様」


「騎士団長と、各村の村長を、明日の朝までに館に集めてくれ。それから、薪の数を全部数えさせろ。領地中の分だ」


「かしこまりました」


アンネさんは、いつもの笑顔を引っこめて、走っていった。


ユリウス様は、書庫に戻ってきた。


机の上の帳面を、そっと閉じた。


「祖父は、何もできなかったと書いた」


「はい」


「私は、そう書きたくない」


ユリウス様の手が、帳面の表紙の上で、ぎゅっと握られた。


私は、その手を見ていた。


それから、自分の手を見た。


私の力は、小さい。


嵐を消すことはできない。

寒さを消すことも、たぶんできない。


北の山の向こうから来る、あんなに大きな冷たさを、追い返すことなんて。


でも。


「ユリウス様」


「なんだ」


「帳面に、昼の空がきれいだったって、書いてありましたよね」


「ああ」


「雲ひとつない、って」


私は、ノートのページをめくった。


王都の冬の記録。


霜がひどかった朝と、霜が降りなかった朝。


その前の晩の空を、全部書いてある。


「霜が降りなかった朝の前の晩は、どれも、曇っていました」


ユリウス様が、顔を上げた。


「雲は、ふたになるんです。地面の温かさが空へ逃げないように、上から押さえてくれる。毛布みたいに」


「毛布」


「寒さは、消せません」


私は、まっすぐユリウス様を見た。


「でも、ふたなら、できます」


ユリウス様は、何も言わなかった。


ただ、私をじっと見ていた。


それから、ゆっくりと、私の頭に手を置いた。


大きな手だった。


「どのくらいの広さを、覆える」


「わかりません。やったことがないので」


「十日ある」


「はい」


「十日で、やれるようにしよう。二人で」


二人で、と言った。


私は、うなずいた。


ユリウス様の手は、ずっと私の頭の上に乗ったままだった。


離すのを、忘れているみたいだった。


その夜、部屋に戻ってから、私は祖父様の帳面の最後の一行を、何度も思い出した。


わしは、何もできなんだ。


ノートを開いて、新しいページに書いた。


『寒波まで、あと十日』


その下に、もう一行。


『グレイフォード家の帳面に、二度と、あの一行を書かせない』


窓の外では、北の山が、月明かりの中で白く光っていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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