第31話 報告のあとに、もう一つ
朝の五時半。
私は、いつもの廊下に出た。
窓辺に、ユリウス様が立っていた。
いつもと同じ場所。
いつもと同じ、黒い耳当て。
でも、昨日までとは、少しだけ違って見えた。
「おはようございます」
「おはよう、ティア」
ユリウス様は、私を見て、すぐに目をそらした。
耳が、もう赤かった。
まだ耳当てをしているのに。
「本日の空を、お伝えします」
私は、窓の外に目を向けた。
「今日は、晴れです。風は北から、やや強め。昼すぎから、少し冷えます。洗濯物は、お昼までに取りこんでください」
ユリウス様は、紙にペンを走らせていた。
昨日は書かなかったのに、今日はちゃんと書いている。
「以上です」
「ああ」
「それから」
私は、そこで止まった。
昨日の夜、ノートに書いたのだ。
明日からは、空の報告のあとに、もう一つ言うことが増えた、と。
もう一つ。
何を言うつもりだったのか、自分でもちゃんと決めていなかった。
「それから?」
ユリウス様が、ペンを止めて、こちらを見た。
まっすぐな目だった。
「えっと」
顔が、熱くなった。
「それから、その、今日も、よろしくお願いします」
言ってから、頭を抱えたくなった。
仕事の挨拶みたいだ。
ユリウス様は、少しの間、黙っていた。
それから、小さく咳払いをした。
「こちらこそ」
紙に、何か書き足していた。
のぞきこむと、今日の空の下に、小さな字で一行。
『よろしくお願いします、と言われた』
「それは、書かなくていいです」
「記録だ」
「空の記録です」
「私の記録だ」
ユリウス様は、紙をたたんで、胸のポケットにしまった。
耳当ての下からはみ出た耳が、さっきより赤くなっていた。
朝ごはんのあと、私は西の台地の村へ下りた。
刈り入れのあとの畑に、霜よけのわらを敷く相談をするためだった。
村の入り口で、ロイが走ってきた。
「お天気さま!」
「おはよう、ロイ」
「お天気さま、領主さまのお嫁さんになるって、本当?」
私は、その場で固まった。
「誰に聞いたの」
「みんな言ってるよ。アンネさんが、朝からパン屋さんで言ってたって」
アンネさん。
五時から廊下にいた、アンネさん。
その足でパン屋さんに行ったらしい。
「本当、だけど」
「やったあ!」
ロイは、両手を上げて跳ねた。
それから村の奥へ向かって叫んだ。
「本当だってー!」
畑のあちこちから、人が顔を出した。
おかみさんたちが、手をたたいていた。
若い人たちが、口笛を吹いていた。
私は、顔を両手で覆った。
天気の話なら、いくらでもできるのに。
こういうときに、何を言えばいいのか、さっぱりわからない。
「おめでとうございます、お天気さま」
「旦那様を、よろしくお願いします」
「春には、式ですか」
次々に声をかけられて、私はぺこぺこ頭を下げるしかなかった。
そこへ、杖をついたゲルトさんがやってきた。
いつもの、むっつりした顔だった。
「聖女様」
「ゲルトさん。あの、霜よけのわらのことで」
「その前に、見てほしいもんがある」
ゲルトさんは、杖で北を指した。
村の向こう。
北の高い山。
その頂が、白くなっていた。
「山の帽子だ」
ゲルトさんは言った。
「この辺じゃ、北の山に雪がかぶるのを、帽子と言う。毎年、冬至のころにかぶる」
「冬至」
今は、冬の初めだった。
冬至まで、まだひと月以上ある。
「早すぎる」
ゲルトさんは、低い声で言った。
「わしが生まれてから七十年、こんなに早くかぶったのは、一度もねえ」
私は、北の山をじっと見た。
白い頂。
その上に、薄い雲が、横に長く伸びていた。
風の向きが、おかしい。
雲の形も、知らない形だった。
私は、ポケットから青い革のノートを出した。
十年分の記録の、王都の冬。
辺境に来てからの、毎朝の記録。
ページをめくる。
どこにも、この形の雲はなかった。
「ゲルトさん、今朝の井戸の水、触りましたか」
「触った。指が切れるかと思った」
「去年の今ごろと比べて」
「比べもんにならん」
私は、指をなめて、風に当てた。
冷たい。
ただの冷たさではなかった。
北の山の、もっと向こうから来ている冷たさだった。
「すみません、館に戻ります」
「聖女様?」
「調べないといけないことがあります」
私は、坂道を駆け上がった。
館の玄関で、ちょうど馬から下りたユリウス様と、ぶつかりそうになった。
「ティア。どうした」
「ユリウス様、北の山に、もう雪がかぶっています」
息が切れていた。
「雲の形が、記録にないんです。風も、北の山の向こうから、ずっと遠くから来ています。こんな冷たさ、王都の十年にも、ここの半年にもありません」
早口になっていた。
いつもの悪い癖だった。
でも、ユリウス様は止めなかった。
じっと、私の話を聞いていた。
聞いているうちに、ユリウス様の顔色が、変わっていった。
「山の帽子が、冬至より前に」
「はい。ゲルトさんが、七十年で初めてだと」
ユリウス様は、北の山を振り返った。
長い間、何も言わなかった。
「ユリウス様?」
「……祖父の帳面に」
ユリウス様の声は、いつもより、ずっと低かった。
「同じことが、書いてある」
「同じこと?」
「五十年前だ」
ユリウス様は、私の手を取った。
手袋越しでもわかるくらい、強い力だった。
「書庫へ来てくれ。見せたいものがある」
北の山の上で、薄い雲が、また一本、横に伸びた。
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