第30話 雨上がりの空の報告
夜のうちに、少しだけ雨が降った。
南へ送った雲の、いちばん最初のひとしずく。
それが、この土地に落ちていったのだ。
朝の五時半。
私は、いつもの廊下に出た。
窓辺に、ユリウス様が立っていた。
黒い耳当てをつけて。
髪を、きちんとなでつけて。
たぶん、三回。
「おはようございます」
「おはよう」
ユリウス様の声は、いつもより少しだけ固かった。
私は、窓の外を見た。
雨は、もう止んでいた。
東の空が、明るくなってきている。
西の空には、まだ薄く雲が残っていた。
「本日の空を、お伝えします」
私は、背すじを伸ばした。
ユリウス様は、いつものように紙とペンを――
出さなかった。
両手を、体の横に下ろしたまま、私を見ていた。
「ユリウス様? 書かないんですか」
「今日は、いい」
「でも」
「覚えておく」
ユリウス様は、まっすぐ私を見ていた。
「続けてくれ」
私は、少しだけ首をかしげてから、空に目を戻した。
「今日は、晴れです。夜の雨は、もう止みました。風は北から、弱めです。それから」
窓の外。
西の空の、薄い雲。
東から昇ってきた朝日が、その雲に、まっすぐ当たろうとしていた。
「あと少しで、西の空に、虹が出ます」
「虹」
「はい。朝の虹は、西に出るんです。雨上がりの朝に、東から日が差すと」
私は、窓ガラスにそっと手を当てた。
「今日の空は、それで全部です。以上です」
ユリウス様は、何も言わなかった。
窓の外を見て、それから、私を見た。
「ティア」
「はい」
「話がある、と言った」
「はい」
私は、ユリウス様のほうに向き直った。
ユリウス様は、耳当てを外した。
それを、窓枠の上に置いた。
耳が、真っ赤だった。
今朝は、とても寒いのに。
耳当てを、外してしまったのに。
「塔の上で、雷に邪魔された言葉の、続きを言う」
私の心臓が、どくんと鳴った。
「あれは」
「虹の日に言ってくださった、領地になくてはならない人、ですよね」
私が言うと、ユリウス様は、ゆっくりと首を横に振った。
「違う」
「え?」
「あれは、逃げた」
ユリウス様は、少しだけ目を伏せた。
「言えなかった。十一回邪魔されて、やっと二人きりになれたのに。あなたの顔を見たら、言えなくなって、領地の話にすり替えた」
「……」
「アンネに、意気地なしと言われた」
あの日の玄関で、アンネさんが壁に額をつけて言っていたのは、それだったのだ。
「だから、今日は、逃げない」
ユリウス様は、一歩、私に近づいた。
「ティア」
「はい」
「あなたは、私の――」
ユリウス様は、そこで一度、息を吸った。
窓の外は、静かだった。
雷は、鳴らなかった。
誰も、廊下を走ってこなかった。
「あなたは、私の、いちばん大事な人だ」
低い声だった。
まっすぐな声だった。
「領地のためではない。天気のためでもない。毎朝、五時半から廊下で待っているのは、空のことを早く知りたいからではない」
「……」
「あなたの声で、今日の空を聞きたいからだ」
私は、何も言えなかった。
喉の奥が、熱かった。
「三年前、あなたの記録を読んだ。十年分、一日も休まずに、空のことを書いている人がいると知った。会ってみたいと思った」
ユリウス様の声が、少しだけ震えていた。
「来てくれたあなたは、記録よりずっと、早口で、まっすぐで、自分のことを天気係だと言う人だった」
「……」
「私は、あなたを天気係だと思ったことは、一度もない」
ユリウス様は、私の手を取った。
大きくて、温かくて、少しだけ震えている手。
「ティア。私の妻になってほしい」
窓の外で、光が変わった。
私は、ユリウス様の肩ごしに、西の空を見た。
虹が、出ていた。
大きな虹だった。
西の台地の、刈り取ったあとの畑の上から、北の山のほうまで。
七色の橋が、くっきりとかかっていた。
予報どおりだった。
私の予報は、だいたい当たる。
でも。
こんなことは、予報できなかった。
「ユリウス様」
「ああ」
「私、王都では、天気のことしかわからない子だって、言われていました」
「知っている」
「人の気持ちは、ぜんぜんわからないんです。耳が赤いのも、寒いからだと思っていて」
「それも、知っている」
ユリウス様が、少しだけ苦い顔をした。
私は、笑ってしまった。
笑いながら、涙が出た。
「だから、今、ちゃんと言います。わかったことを」
私は、ユリウス様の手を、両手で握り返した。
「毎朝、空の報告をするのが、楽しみでした。五時半に廊下に出て、ユリウス様がいると、うれしかったです。外套が温かくて、ノートがうれしくて、髪留めがうれしくて」
「……」
「耳当てを選んでいるとき、ずっと、ユリウス様のことを考えていました」
声が、震えた。
「天気以外のことで、こんなに誰かのことを考えたのは、初めてです」
ユリウス様の目が、大きく見開かれた。
「だから」
私は、息を吸った。
「はい。お受けします」
ユリウス様は、少しの間、動かなかった。
それから。
ゆっくりと、私を抱きしめた。
黒い外套の匂い。
煙と、雨と、石けんの匂い。
いつも、肩にかけてもらっていた匂いだった。
「ありがとう」
耳元で、ユリウス様が言った。
声が、かすれていた。
私は、ユリウス様の胸に顔をうずめた。
心臓の音が、すごく速かった。
私のも、きっと同じくらい速かった。
廊下の角で、何かが、どさりと倒れる音がした。
振り向くと、アンネさんが床に座りこんでいた。
両手で顔を覆って、肩を震わせていた。
「やっと……やっと、旦那様が……」
泣いていた。
ものすごく、泣いていた。
ユリウス様は、私を抱きしめたまま、深いため息をついた。
「アンネ」
「はいっ……」
「いつから、いた」
「五時、からで、ございます……」
ユリウス様より、早かった。
私は、ユリウス様の腕の中で、声を出して笑った。
窓の外では、虹が、まだ消えずに残っていた。
その日、私は新しいノートに、こう書いた。
『グレイフォード領 天気の記録
晴れ。夜の雨は明け方に止む。風は北から弱め。
朝、西の空に虹。予報どおり。
それから、ユリウス様に、結婚を申しこまれた。
これは、予報できなかった。
明日の朝も、五時半に廊下に出る。
明日からは、空の報告のあとに、もう一つ、言うことが増えた』
ノートを閉じる。
表紙の雲の型押しを、指でなぞる。
明日の天気は、晴れ。
その次の日も。
たぶん、ずっと。
(第一部 完)
第一部、完結です。ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
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