第29話 王都のためで、殿下のためではなく
次の日の朝。
まだ暗いうちから、私は塔に上った。
北の山の上に、雲が育っていた。
この五日間、毎晩祈って、少しずつ育ててきた雲。
北の山の湿った空気を集めて、ふくらませた雲。
それが、今、山の頂に、どっしりと座っていた。
「行けます」
塔の部屋には、四人いた。
私。
ユリウス様。
若い神官さん。
それから、殿下。
殿下は、腕を組んで、窓の外をにらんでいた。
「本当に、こんな北から、王都まで雨が届くのか」
「全部は、届きません」
私は、正直に言った。
「途中の村に、少しずつ落ちていきます。王都に着くのは、十日後。そのころには、小さな雲がいくつか残るだけです」
「それでは、足りないではないか」
「足りません。だから、毎年、冬の初めと、春の初めに送ります。それから」
私は、若い神官さんを見た。
若い神官さんは、緊張した顔で、ノートを胸に抱えていた。
この五日間、私が教えたことを、全部書きこんだノート。
「王都に着いた雲を、どこに降らせるかは、この方が決めます」
「神官が?」
「毎朝、王都の空を見て、記録をつけて。貯水池の水が少ない日は、貯水池の上に。麦畑が乾いた日は、麦畑の上に。雲が来る日を、手紙で私に知らせてくれれば、私がここから、少しだけ向きを変えます」
殿下は、若い神官さんを見た。
信じられない、という顔だった。
「お前に、そんなことができるのか」
「……わかりません」
若い神官さんは、震える声で言った。
「でも、十年分の記録があります。聖女様が、一日も休まずに書いた記録です。それを読めば、王都の空がどう動くか、少しずつ、わかるようになります」
「十年分の、記録」
殿下は、つぶやいた。
それから、若い神官さんの抱えたノートを、じっと見た。
「……誰も読まない記録だと、言ったな。私は」
塔の部屋が、静かになった。
「殿下」
私は、窓に向き直った。
「始めます」
ひざをつく。
手を組む。
目を閉じる。
北の山の上の、大きな雲。
その背中に、そっと手を当てるように祈る。
――行って。南へ。
冬の初めの北風。
その風に、雲を乗せる。
ふわり、と。
雲が、動いた。
北の山の頂から、ゆっくりと。
南へ。
「動いた」
ユリウス様の声がした。
目を開けると、窓の外で、大きな雲が、山を越えて南へ流れ始めていた。
朝日を浴びて、雲の端が金色に光っていた。
殿下が、窓に駆け寄った。
ガラスに両手をついて、雲を見上げていた。
「本当に、動いている」
「十日かかります」
私は、手を組んだまま言った。
「途中の村に、少しずつ雨を落としながら。王都に着くころには、小さくなっています。でも、一晩分の小雨にはなります」
「一晩分」
「はい。それから、十日後に、また次の雲を送ります。春になるまで、何度でも」
殿下は、窓の外を見つめたまま、黙っていた。
長い間、黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……お前は、五年間、毎朝こんなことをしていたのか」
「王都にいたころは、もっと近かったので、もっと楽でした」
「毎朝」
「毎朝です」
殿下は、両手で顔をこすった。
「建国祭の日が、毎年晴れていたのも」
「三日前から、雲をどけていました」
「夜の小雨も」
「三日に一度、足していました」
「……私は」
殿下の声が、かすれた。
「私は、それを、待っていれば来るものだと言ったのか」
私は、何も言わなかった。
言わなくても、殿下はもうわかっていた。
雲が、山の向こうに見えなくなった。
私は、手をほどいて、立ち上がった。
膝が、少しふらついた。
ユリウス様が、すぐに肩を支えてくれた。
殿下は、それを見ていた。
ユリウス様の手を。
私が、それに自然にもたれたのを。
「ティア」
殿下が、こちらを向いた。
初めて見る顔だった。
いつもの、うんざりした顔でも、怒った顔でもなかった。
「王都に、戻る気はないのだな」
「ありません」
「婚約も」
「戻しません」
「……この雨は、王都のためか。それとも」
殿下は、少しだけ言いよどんだ。
「私のためか」
私は、首を横に振った。
「王都の人たちのためです」
はっきりと言った。
「井戸が涸れて困っている人と、麦が枯れて困っている人のためです。殿下のためでは、ありません」
殿下は、目を閉じた。
それから、ゆっくりと、うなずいた。
「……そうか」
それだけ言って、殿下は塔の階段を下りていった。
一度も、振り返らなかった。
その日の昼、殿下の馬車は、王都へ向けて出発した。
見送りに出たのは、私とユリウス様と、若い神官さんだけだった。
馬車に乗る前、セレスティーナ様が、私の前に来た。
「……あなた、変わったわね」
「そうでしょうか」
「王都にいたころは、いつもうつむいてたわ。空ばっかり見て」
セレスティーナ様は、少しだけ笑った。
「今は、ちゃんと人の顔を見て、しゃべってる」
それから、小さな声で言った。
「光で、雲は動かないの。……最初から、知ってたわ。ごめんなさい」
セレスティーナ様は、私の返事を待たずに、馬車に乗りこんだ。
馬車が、坂道を下っていく。
若い神官さんは、私に深く頭を下げてから、騎士の馬の後ろに乗った。
「ノート、毎朝つけます。手紙も、毎週書きます」
「待っています」
私は、手を振った。
馬車と騎士たちが、見えなくなるまで。
それから、隣に立つユリウス様を見上げた。
ユリウス様は、ずっと黙って、私の隣に立っていた。
「終わりましたね」
「ああ」
「疲れました」
「知っている」
ユリウス様は、私の頭に、ぽんと手を置いた。
「明日の朝の報告は、休むか」
「休みません」
私は、笑った。
「毎朝、空のことを教えるって、約束しましたから」
ユリウス様は、少しの間、私を見ていた。
それから、小さく言った。
「……明日の朝、話がある」
「話?」
「空の報告のあとに」
ユリウス様は、それだけ言って、館の中へ入っていった。
耳当てを、つけていた。
今日は、本当に寒かった。
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