第25話 婚約を元に戻してやる
手紙は、短かった。
『ティアへ。
婚約を、元に戻してやる。
王都は今、雨が足りず、民が困っている。お前の力が要る。ただちに戻り、大聖堂で務めを果たせ。
戻れば、王太子妃の座を約束する。セレスティーナは側に置くが、正妃はお前でよい。
辺境での暮らしは、さぞつらかっただろう。もう凍える土地で、顔の怖い男の世話になる必要はない。
お前は、私に言い返したことが一度もない。だから、今回も、黙って戻ってくると信じている。
アルベルト』
読み終えて、私は手紙をたたんだ。
広場が、静かだった。
みんなが、私を見ていた。
「……ティア様」
アンネさんが、そっと声をかけてきた。
「何と、書いてあったのです」
私は、少し考えてから、手紙をアンネさんに渡した。
隠すことでもない、と思った。
アンネさんが、手紙を読む。
一行目で、眉が上がった。
二行目で、口がへの字になった。
最後まで読んだとき、アンネさんの手は、ぶるぶる震えていた。
「――まあ」
声が、低かった。
聞いたことがないくらい、低かった。
「まあ。まあまあまあ」
「ア、アンネさん」
「婚約を、元に戻して、やる」
アンネさんは、一語ずつ区切って読んだ。
「正妃は、お前で、よい」
「アンネさん、あの」
「凍える土地で、顔の怖い男の世話に」
アンネさんは、手紙をぐしゃりと握った。
「――旦那様! これを、ご覧くださいまし!」
アンネさんは、手紙をユリウス様に突きつけた。
ユリウス様は、それを受け取って、黙って読んだ。
読み終えても、何も言わなかった。
ただ、手紙を持つ指が、白くなっていた。
「なんだ、なんだ。何が書いてあるんだ」
ゲルトさんが、のぞきこんできた。
それから、手紙をユリウス様から受け取って、声に出して読み始めた。
「婚約を、元に戻してやる――なんだ、こりゃあ」
ゲルトさんの声が、広場じゅうに響いた。
読み進めるたびに、村の人たちの顔が、どんどん険しくなっていった。
「戻れば、王太子妃の座を約束する――セレスティーナは側に置くが、正妃はお前でよい――」
「よい、だと?」
「なんだ、その言い草は」
「辺境での暮らしは、さぞつらかっただろう――凍える土地で――」
「誰の土地が凍えてるって?」
「今年は豊作だぞ!」
「お前は、私に言い返したことが一度もない。だから、今回も、黙って戻ってくると信じている」
ゲルトさんが、読み終えた。
広場が、ざわざわと揺れた。
「お天気さまを追い出したのは、そいつだろう!」
「困ったから戻れってか!」
「五年も婚約者だったのに、そんな言い方をするやつがあるか!」
ロイくんが、私の服のすそを引っぱった。
「お天気さま、行っちゃうの?」
泣きそうな顔だった。
私は、ロイくんの頭をなでた。
それから、自分の胸に手を当てた。
不思議だった。
五年前。
婚約者に選ばれたとき、私は少しだけ期待していた。
いつか、殿下が私を見てくれるかもしれないと。
建国祭の日を晴れにして、「いい天気だった」と言われたとき、うれしかった。
ひと月前の私なら、この手紙を読んで、泣いたかもしれない。
うれしくて、か。悲しくて、か。どちらかはわからないけれど。
でも、今。
手紙を読んで、私が思ったことは、一つだけだった。
――この人は、最後まで、私の名前の横に「天気」しか見ていないんだ。
王都の雨が足りないから。
力が要るから。
正妃は、お前で「よい」。
私が、どうしたいかは、一行も聞いていない。
「……ふふっ」
笑いが、こぼれた。
「お天気さま?」
ロイくんが、目を丸くした。
「ごめんなさい。なんだか、おかしくて」
私は、目元をぬぐった。
涙が少しだけ出ていた。
悲しい涙ではなかった。
「殿下の字、五年たっても、ぜんぜん変わってないなって」
私は、広場のみんなを見回した。
心配そうな顔。
怒った顔。
泣きそうな顔。
みんな、私のために、怒ったり泣いたりしてくれている。
「大丈夫です」
私は、はっきり言った。
「婚約を元に戻すお話は、お断りします」
広場が、一瞬、静まり返った。
それから。
「そうだ!」
「よく言った!」
「お天気さまは、うちの領地の人だ!」
わあっと、歓声が上がった。
ロイくんが、私の腰に抱きついてきた。
「行かないの!?」
「行きません。殿下のところには」
アンネさんが、エプロンで目を押さえていた。
ゲルトさんが、手紙を握りつぶして、空に突き上げていた。
私は、ユリウス様を見た。
ユリウス様は、広場の真ん中で、黙って私を見ていた。
怖い顔だった。
でも、その肩から、ゆっくりと力が抜けていくのが見えた。
「……ただ」
私は、使者の騎士のほうを向いた。
騎士は、気まずそうに広場の隅に立っていた。
「王都の人たちのことは、見捨てたくありません」
騎士の顔が、はっと上がった。
「井戸が涸れて困っている人たち。麦が枯れて困っている農夫さんたち。あの人たちは、何も悪くないので」
「……聖女殿」
「殿下のところには、戻りません。でも、王都の雨のことは、考えます」
私は、ユリウス様を見た。
「一緒に、考えてくださるんですよね」
ユリウス様は、少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと、うなずいた。
「ああ。一緒に考える」
楽団が、そろそろと楽器を構え直した。
ゲルトさんが、両手を打ち鳴らした。
「さあさあ、祭りの続きだ! 王都の話は明日だ明日! 今夜は、お天気さまの晴れの夜だぞ!」
広場に、また音楽が流れ始めた。
ユリウス様が、私の前に来た。
もう一度、手を差し出す。
「……続きを、踊ってくれるか」
「最後まで、ですよね」
私が言うと、ユリウス様は、ほんの少しだけ笑った。
「ああ。最後までだ」
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