第17話 消せないなら、備えればいい
谷の畑は、ひどい有様だった。
川沿いの下のほうの畑が、ごっそりえぐられていた。
芽を出したばかりの麦が、泥に埋まっている。
石と流木が、あちこちに転がっていた。
「下の畑は、全部やり直しだな」
谷の村長さんが、腰に手を当てて言った。
「なに、家が残っただけで十分さ。三年前は、家ごと流されたんだから」
村長さんは笑った。
私は、笑えなかった。
泥に埋まった芽の前に、しゃがみこむ。
指で、泥をそっとどける。
小さな緑が、くしゃりと折れていた。
「……私の力が、もっと強ければ」
つぶやいた声は、自分でも驚くくらい小さかった。
嵐を消せれば。
大きな雲を、丸ごと遠くへ押しやれれば。
この芽は、折れなかった。
天気を少しだけ動かす力。
王都で、セレスティーナ様に笑われた力。
「地味な力」と言われたとき、私は悔しかった。
でも、どこかで納得もしていた。
本当に大事なときには、何もできない。
それが、私の力なのだと。
「ティア」
後ろから、声がした。
ユリウス様だった。
「何を考えている」
「……私の力が、足りなかったなって」
正直に言った。
「嵐を消せる聖女だったら、この畑は無事でした」
ユリウス様は、私の隣にしゃがんだ。
泥に埋まった芽を、じっと見る。
「嵐を消せる聖女は、この国にいるか」
「……いません」
「いたことは」
「記録の上では、いません」
「なら、それは、あなたが足りないのではない」
ユリウス様は、泥の中から小石を一つ拾った。
「誰にもできないことだ」
「でも」
「ティア」
ユリウス様は、小石を手のひらで転がした。
「消せないなら、備えればいい」
「備える……?」
「大雨が来ることは、あなたが一日前に教えてくれる。なら、その一日で、川があふれないようにすればいい」
ユリウス様は、谷の上流を見上げた。
「川の水を、どこかに逃がす場所があれば」
私は、はっと顔を上げた。
逃がす場所。
「ため池……」
「ため池?」
「谷の上のほうに、大きな池を掘るんです。大雨のときは、川の水をそこに流しこむ。あふれる分を、池で受け止めるんです」
頭の中で、何かがぱちんとはまった。
「それで、池にたまった水は、晴れが続いたときに、少しずつ流す。そうすれば、谷の畑は雨が多すぎても少なすぎても大丈夫になるし、水路を引けば、西の台地にも水を回せるかもしれなくて――」
止まらなかった。
「――でも、池を掘る場所が大事です。雨の水がいちばん集まるところ。それから、地面が水を吸いすぎないところ。それは、この三年分の雨の記録を見ればわかるはずで」
「三年分の記録」
ユリウス様の目が、少しだけ大きくなった。
「館の書庫に、ある。私が毎日、空を見上げて、降ったか降らなかったかだけ書いた記録だ」
「ユリウス様が?」
「何もわからなかったから、せめて書いた」
ユリウス様は、少しだけ目をそらした。
「見るか」
「見ます!」
私は、勢いよく立ち上がった。
泥で、膝が真っ黒だった。
館の書庫は、地下にあった。
ユリウス様が、棚の奥から、分厚い帳面を三冊出してきた。
開く。
角ばった、大きな字。
『晴れ』
『雨』
『雨。谷の川、増水』
『晴れ。台地、乾く』
毎日、一行ずつ。
三年分、一日も欠けずに。
私は、ページをめくる手を止めた。
「……一日も、休まずに」
「あなたも、十年休まなかっただろう」
ユリウス様は、ぶっきらぼうに言った。
私は、何も言えなかった。
空がわからないまま、毎朝空を見上げて。
それでも、毎日書いた人。
この記録を書きながら、ユリウス様はどんな気持ちだったのだろう。
「……使わせていただきます」
私は、帳面を胸に抱えた。
「この記録と、私の記録を合わせれば、雨がどこに集まるか、わかります」
それから、三日間。
私は、書庫にこもった。
ユリウス様の三年分の記録と、私が辺境に来てからの記録。
王都の十年分の風の記録。
谷の地図。
全部を机に広げて、雨の通り道を一本ずつ書きこんでいく。
アンネさんが、お茶とサンドイッチを持ってきてくれた。
「ティア様、少しはお休みに」
「あと少しです」
「昨日も、そうおっしゃいました」
「昨日の、あと少しです」
アンネさんは、ため息をついて出ていった。
夜。
書庫の扉が開いて、ユリウス様が入ってきた。
手に、ランプを二つ持っている。
「暗いだろう」
机の両側に、ランプを置いてくれた。
明るくなった。
ユリウス様は、私の向かいの椅子に座った。
「手伝えることは」
「この数字を、読み上げていただけますか。私が地図に書きこむので」
「わかった」
ユリウス様の低い声が、数字を読み上げていく。
私は、地図に点を打っていく。
ランプの火が、ゆらゆら揺れていた。
二人きりの書庫は、静かだった。
ページをめくる音と、ペンの音と、ユリウス様の声だけ。
ふと、顔を上げた。
ユリウス様が、帳面ではなく、私を見ていた。
目が合った。
ユリウス様は、すぐに帳面に目を戻した。
「……次は、四月の十二日。雨」
声が、少しだけ早口になっていた。
三日目の夜。
地図の上に、点が集まって、一つの場所を指していた。
谷の上流の、ゆるやかな窪地。
「ここです」
私は、ペンで丸をつけた。
「ここに池を掘れば、谷の雨の半分を受け止められます」
ユリウス様が、地図をのぞきこんだ。
それから、私を見た。
「よくやった」
ランプの光の中で、ユリウス様が、ほんの少しだけ笑った。
今度は、見間違いではなかった。
「……ユリウス様の記録のおかげです」
私は、目をこすりながら笑った。
「消せないなら、備えればいい。ユリウス様が言ってくれたから、思いつけました」
天気を、少しだけ動かす力。
それだけでは、嵐は止められない。
でも、空を読む力と、地面を掘る人の手があれば。
次の嵐には、きっと負けない。
翌朝、ユリウス様は、谷の村と台地の村に知らせを出した。
秋の刈り入れが終わったら、ため池を掘る、と。
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