第15話 天気係ですから
朝が来た。
空は、どんよりと暗かった。
南から押し寄せた黒い雲が、空の半分を覆っている。
でも、雨はまだ降っていない。
止めている。
私が、まだ止めている。
塔の窓辺で、私は手を組んだまま、ひざをついていた。
膝の感覚は、とっくになかった。
指先も、腕も、肩も、自分のものではないみたいだった。
――少しだけ、待って。
祈りの言葉だけが、頭の中で回り続けていた。
窓の外。
東の谷へ続く道を、荷馬車が上ってくる。
残りの、谷の村の人たち。
先頭には、やっぱりユリウス様がいた。
昨日の夜から、一度も休んでいないはずだ。
「お天気さま」
塔の入り口から、小さな声がした。
ロイくんだった。
手に、湯気の立つカップを持っている。
「アンネさんが、持ってけって。飲めって」
「……ありがとう」
返事をしたけれど、手がほどけなかった。
ほどいたら、雲が来る。
ロイくんは、私の隣にしゃがんで、カップを私の口元に持ってきてくれた。
「ほら」
温かいスープだった。
一口飲むと、体の奥に少しだけ力が戻った。
「谷のやつら、あと何台?」
ロイくんが、窓の外をのぞいた。
「たぶん、あと三台か、四台」
「お天気さまが、雨、止めてんの?」
「止めてるんじゃないの。遅らせてるだけ」
「同じじゃん」
ロイくんは、口をとがらせた。
「すげえじゃん、それ」
私は、少しだけ笑った。
すごい、と言われるのは、これで何回目だろう。
王都では、一度も言われなかったのに。
お昼。
最後の荷馬車が、丘の上に着いた。
塔の窓から、館の前の広場が見えた。
荷馬車から、人が降りてくる。
お年寄り。赤ちゃんを抱いたお母さん。
アンネさんが、毛布を持って駆け寄っていく。
ユリウス様が、馬を降りた。
塔を見上げた。
私と、目が合った。
ユリウス様は、右手を高く上げた。
指を、一本立てる。
一人も、置いていかない。
約束どおりだった。
その瞬間。
体から、ふっと力が抜けた。
手が、ほどけた。
ごう、と。
窓の外で、風が鳴った。
止めていた雲が、一気に押し寄せてきた。
空が、真っ黒になる。
ばらばらばら、と。
大粒の雨が、窓ガラスを叩き始めた。
ざあああああ。
滝のような雨だった。
窓の外が、白くかすんで、何も見えなくなった。
間に合った。
谷の人たちは、みんな丘の上にいる。
私は、窓枠につかまって、立ち上がろうとした。
足に、力が入らなかった。
視界が、ぐらりと傾いた。
床が、近づいてくる。
あ、ぶつかる。
そう思ったとき。
強い腕が、私の体を受け止めた。
「ティア!」
ユリウス様だった。
いつ、塔を上ってきたのだろう。
百段の階段を。
泥と雨にまみれた腕が、私をしっかりと抱きとめていた。
「……ユリウス様」
「しゃべるな」
「谷の人たち、みんな」
「全員だ。一人も欠けていない」
ユリウス様は、私を抱えたまま、床に座りこんだ。
息が、荒かった。
階段を、駆け上がってきたのだ。
「よかった……」
私は、ユリウス様の胸に頭を預けたまま、つぶやいた。
窓の外では、雨が叩きつけている。
雷が鳴っている。
でも、この腕の中は、温かかった。
「よくない」
ユリウス様の声が、すぐ上からした。
「お昼から祈りどおしだと言った。それから、朝まで。そのうえ、また昼まで」
「まる一日、ですね」
「笑いごとではない」
ユリウス様の腕に、ぎゅっと力がこもった。
「倒れたら、どうするつもりだった」
「倒れましたね」
「ティア」
低い声だった。
怒っている声。
でも、震えていた。
私は、黙った。
ユリウス様の胸の音が、聞こえた。
すごく速かった。
「……無理をするな、と言った」
「はい」
「あなたがいなくなるほうが、困る」
ユリウス様は、私の頭に、そっと手を置いた。
「谷の畑が流されるより。館の蔵が空になるより。あなたが倒れるほうが、ずっと困る」
私は、ぎゅっと目をつぶった。
うれしかった。
うれしくて、どう返していいかわからなかった。
だから、いつもの言葉で答えた。
「大丈夫です」
ユリウス様の胸の中で、私は小さく笑った。
「私、天気係ですから。雨の日は、働くのが仕事です」
ユリウス様の手が、止まった。
「……違う」
「え?」
「あなたは、天気係ではない」
ユリウス様は、私の顔を上に向かせた。
怖い顔だった。
いつもより、ずっと怖い顔だった。
でも、その目は、まっすぐに私だけを見ていた。
「あなたは、私の――」
ゴロゴロゴロ、ドォン!!
すぐ近くに、雷が落ちた。
塔が揺れた。
窓ガラスが、びりびりと鳴った。
私は、思わずユリウス様の服にしがみついた。
雷の音が、遠ざかっていく。
おそるおそる顔を上げると、ユリウス様は、口を開けたまま固まっていた。
「……ユリウス様?」
「……」
「今、なんて」
ユリウス様は、ゆっくりと口を閉じた。
それから、ものすごく苦い顔をして、窓の外の空をにらんだ。
雷雲を、にらんでいた。
「あの、続きは」
「……あとで言う」
「あとで?」
「この雨が止んだら」
ユリウス様は、私を抱え直して、立ち上がった。
軽々と。
「わっ、ユ、ユリウス様、歩けます!」
「歩けていない」
「で、でも、これは」
「黙って運ばれろ」
ユリウス様は、私を抱えたまま、階段を下り始めた。
百段の、螺旋階段を。
私は、ユリウス様の首に腕を回して、しがみついた。
顔が、熱い。
あなたは、私の――
その続きが、頭の中でぐるぐる回っていた。
私の、何だろう。
窓の外では、まだ雨が降り続いていた。
この雨が止むのは、明日のお昼。
私の予報は、だいたい当たる。
だから、明日のお昼まで。
私は、続きを待たなければいけないのだった。
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