第14話 消せない大雨
「大雨が来ます」
朝の空の報告で、私は言った。
声が、少しだけ震えていた。
ユリウス様のペンが止まった。
「どれくらいだ」
「この夏で、いちばん大きいです」
私は、青いノートを開いた。
昨日の夕方から、南の海のほうに、見たことのない形の雲が育っていた。
背が高くて、黒くて、ぐるぐると渦を巻いている。
「南から、大きな雨雲が上がってきます。北の山にぶつかって、東の谷の上で止まります。明日の夜から、まる一日、ものすごい雨が降ります」
「東の谷か」
ユリウス様の顔が、険しくなった。
東の谷。
三年間、長雨で川があふれ続けた場所。
この夏、私は毎朝少しずつ雲を西へ押して、谷の雨を減らしてきた。
やっと、谷の畑にも芽が出始めたところだった。
「消せるか」
ユリウス様が聞いた。
私は、ノートを握りしめた。
「……消せません」
正直に言うしかなかった。
「私の力では、あの大きさの雲は消せません。少し押すことはできます。でも、全部は無理です」
天気を、少しだけ動かす。
それが、私の力のすべてだ。
嵐を消すほどの力は、ない。
王都で、セレスティーナ様に笑われたときのことを思い出した。
地味な力。役に立たない力。
本当に大事なときに、何もできない力。
「すみません」
私は、うつむいた。
「消せたら、よかったのに」
「謝るな」
ユリウス様の声がした。
顔を上げる。
ユリウス様は、いつもの怖い顔で、私を見ていた。
「あなたは、明日の夜に大雨が来ると、今日の朝に教えてくれた」
「……」
「三年前の秋、東の谷の川があふれた。夜中に、何の前ぶれもなく。家が三軒流されて、二人が死んだ」
私は、息をのんだ。
「あのとき、一日前にわかっていれば、誰も死ななかった」
ユリウス様は、紙を胸のポケットにしまった。
「一日ある。それで十分だ」
その日の館は、戦場のようだった。
ユリウス様は、すぐに馬で東の谷へ向かった。
館の男たちが、荷馬車を出して後に続いた。
谷の村の人たちを、丘の上の館へ避難させるのだ。
アンネさんは、館の大広間に毛布と寝床を並べ始めた。
台地の村からも、ゲルトさんたちが手伝いに駆けつけてくれた。
「お天気さま、谷の雨は、何時からだ」
ゲルトさんが、荷物を運びながら聞いた。
「明日の夕方からです。本降りは、夜中から」
「なら、明日の昼までに全員運べる。年寄りと子どもから先だ」
ゲルトさんは、若い男たちに指示を飛ばした。
私は、塔に上った。
南の空を見る。
黒い雲は、さっきよりも大きくなっていた。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
消せない。
でも。
「……遅らせることなら」
私は、ひざをついた。
手を組む。
消せなくても、押すことはできる。
雲の頭を、ほんの少しだけ、後ろへ押し戻す。
そうすれば、雨が来る時間を、少しだけ遅らせられる。
一時間でも。
三十分でも。
その分だけ、避難に使える時間が増える。
――少しだけ、待って。
祈る。
重い。
北の雲より、ずっと重い。
濡れた毛布どころではない。
水を吸った、大きな岩を押しているみたいだった。
びくともしない。
――お願い。少しだけ。
額に、汗がにじんだ。
夕方になった。
塔の窓から、東の谷へ続く道が見えた。
荷馬車が、何台も丘を上ってくる。
お年寄りを乗せて。子どもを乗せて。
鍋や布団を積んで。
先頭の馬に乗っているのは、ユリウス様だった。
谷と館を、もう何往復もしている。
夜になっても、荷馬車は止まらなかった。
たいまつの火が、点々と、谷と丘の間を行き来していた。
私は、祈り続けた。
真夜中。
塔の扉が開いた。
「ティア」
ユリウス様だった。
服が、泥だらけだった。
髪が、汗で額に張りついていた。
「谷の村は、半分運んだ。残りは、明日の朝から昼までに運ぶ」
「間に合いますか」
「雨が、予定どおりに来ればな」
ユリウス様は、窓の外の南の空を見た。
黒い雲が、もうすぐそこまで来ていた。
「……早いな」
「はい。思ったより、ずっと速いです。このままだと、夜明け前に降り出します」
ユリウス様の顔色が変わった。
夜明け前。
谷には、まだ半分の人が残っている。
「だから、遅らせます」
「何?」
「今、押し戻しています。消せないけど、遅らせることはできます。せめて、明日のお昼まで。半日、稼ぎます」
ユリウス様は、私の顔をじっと見た。
それから、私の手を見た。
組んだままの指先が、白くなっていた。
震えが、止まらなかった。
「いつから祈っている」
「……お昼から」
ユリウス様の顔が、ゆがんだ。
怒っているのではなかった。
痛そうな顔だった。
「休め」
「休んだら、雲が戻ります」
「ティア」
「半日あれば、全員運べますよね」
私は、ユリウス様を見上げた。
「三年前みたいなことには、させません」
ユリウス様は、何も言わなかった。
長い間、私を見ていた。
それから、外套を脱いだ。
いつものように、私の肩にかける。
「……朝の報告は、いらない」
低い声だった。
「明日は、私が、あなたの代わりに空を見る」
ユリウス様は、私の背中に手を置いた。
大きくて、温かい手だった。
「谷の者は、全員運ぶ。一人も、置いていかない。だから」
その手に、少しだけ力がこもった。
「あなたも、無理をしすぎるな」
ユリウス様は、塔を下りていった。
私は、外套のえりをつかんで、窓の外を見た。
南の空で、黒い雲が、雷を光らせていた。
――少しだけ、待って。
もう一度、手を組んだ。
あと、半日。
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