第13話 引き抜きの商人
「あなたが、噂のお天気さまですな」
その人は、館の応接間で、にこにこしながら頭を下げた。
太った、身なりのいいおじさんだった。
指に、大きな金の指輪が三つもはまっている。
「東のバルド領から参りました、商人のマルコと申します」
「は、はじめまして。ティアです」
私は、ソファに浅く座った。
隣には、ユリウス様。
今日はいつもより、さらに顔が怖い。
「いやあ、噂は東の領地まで届いておりますよ」
マルコさんは、両手をすり合わせた。
「三年凶作だったグレイフォード領で、霜が降りなかった。隣の領地の芽は全部やられたのに、ここだけ無事だった。天気の聖女様が、一晩中祈ったおかげだと」
「い、いえ、そんな」
「いやいや。ご謙遜を」
マルコさんは、身を乗り出した。
「単刀直入に申しましょう。お天気さま、我がバルド領に来ていただけませんか」
「……え?」
「バルド領は、大きな果樹園を持っております。りんご、ぶどう、桃。どれも天気次第の商売でしてな。一度の雹で、一年分の実が落ちる」
マルコさんは、指を一本立てた。
「お給金は、月に金貨十枚。お部屋は、領主様の館の、いちばん上等な客間。侍女を三人おつけします」
金貨十枚。
私は、目を丸くした。
王都の大聖堂で、私がもらっていた給金の、二十倍だ。
「それから、果樹園の収穫の一割を、お天気さまの取り分に」
「い、一割」
「悪い話では、ないでしょう?」
マルコさんは、にっこり笑った。
「失礼ですが、こちらの領地は、まだ凶作から立ち直っておられない。お天気さまに、十分なお給金を払えるとは思えませんでな」
隣で、空気がぴりっと張りつめた。
ユリウス様は、何も言わなかった。
腕を組んで、マルコさんをじっと見ていた。
眉間のしわが、三本になっていた。
本当のことだった。
私は、この館でお給金をもらっていない。
部屋と食事をいただいているだけだ。
ユリウス様が払えないのは、私も知っている。
館の物を売って、なんとかやってきたのだから。
「……お天気さま?」
マルコさんが、首をかしげた。
私は、膝の上で手を握った。
それから、顔を上げた。
「せっかくですが、お断りします」
「ほう」
マルコさんの眉が、少し上がった。
「理由を、お聞きしても?」
「私、ここにいます」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「台地の麦は、やっと芽が出たばかりです。これから夏が来て、秋が来て、刈り入れまで、何度も雨と晴れを調整しないといけません。今ここを離れたら、全部だめになります」
「刈り入れが終わったあとなら、どうです?」
「刈り入れのあとは、冬の雪の準備です。そのあとは、春の種まきです」
私は、まっすぐマルコさんを見た。
「この土地の空は、毎朝見ていないとわからないんです。ここの雲は、重くて、王都の雲とは全然違うので。やっと、少しずつわかってきたところなんです」
「……」
「だから、ここにいます」
応接間が、静かになった。
マルコさんは、しばらく私の顔を見ていた。
それから、ふっと笑った。
さっきまでの、商売の笑い方ではなかった。
「いやあ、参りました」
マルコさんは、ぽんと自分の膝を叩いた。
「金貨で動かない聖女様は、初めてお目にかかる」
「す、すみません」
「いえいえ。謝られることは何も」
マルコさんは立ち上がって、ユリウス様に向き直った。
「辺境伯様。いい方をお迎えになりましたな」
「……ああ」
ユリウス様の返事は、短かった。
「ですが、私は商人でしてな。諦めは悪いほうです」
マルコさんは、帽子をかぶりながら、にやりと笑った。
「秋の収穫のころに、また参ります。そのときまでに、気が変わっていなければ、ですが」
「変わりません」
私が言うと、マルコさんは、大きな声で笑った。
「では、せめて果樹園の雹の時期だけでも、ご相談に乗っていただけませんかな。手紙で、空の具合を教えていただくだけでも」
「それなら」
私は、ユリウス様を見た。
ユリウス様は、少し考えてから、うなずいた。
「領地の仕事に差し支えない範囲なら」
「ありがたい! お礼は、きちんとお支払いしますぞ」
マルコさんは、上機嫌で帰っていった。
応接間に、私とユリウス様が残された。
ユリウス様は、まだ腕を組んだまま、窓の外を見ていた。
「あの、ユリウス様」
「……」
「怒って、いらっしゃいますか」
「怒っていない」
「でも、しわが三本」
「三本ではない」
ユリウス様は、眉間を指でもんだ。
それから、ぼそりと言った。
「金貨十枚だぞ」
「はい」
「私は、あなたに一枚も払えていない」
「知っています」
「なぜ、断った」
ユリウス様が、こちらを向いた。
怖い顔だった。
でも、その目は、なんだか迷子の子どもみたいだった。
私は、少しだけ考えた。
なぜ、断ったのだろう。
麦のため。
台地の村のため。
この土地の空を、もっと知りたいから。
全部、本当だった。
でも、それだけではない気がした。
毎朝、五時半から廊下で待っている人がいる。
私の早口を、最後まで聞いてくれる人がいる。
寝ながら祈る私の枕に、朝までなってくれた人がいる。
「……ここの朝が、好きなので」
結局、それしか言えなかった。
ユリウス様は、少しの間、黙っていた。
それから、くるりと背を向けた。
「そうか」
声が、少しだけかすれていた。
「明日の天気は」
「晴れです」
「……そうか」
ユリウス様は、そのまま応接間を出ていった。
扉が閉まる直前、ちらりと見えた横顔。
耳が、真っ赤だった。
私は、ソファに一人で座ったまま、首をかしげた。
ユリウス様は、最近よく耳が赤くなる。
この土地は、寒いからだろうか。
あとで、アンネさんに、耳当てを用意してもらおう。
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