第99話 魔物の国に、最初の旗を
王国軍との戦いから一夜が明けた。洞窟の外には、戦闘で砕かれた盾や折れた槍、魔法兵器の残骸が散らばっていた。昨日まで四百を超える兵士たちが陣取っていた場所には、今では魔物たちの姿がある。ゴブリンたちは使えそうな金属を集め、小型の魔獣たちは散らばった道具を運び、力のある魔物たちは崩れかけた岩壁を支えていた。誰かが細かく命令したわけではない。それぞれが自分にできることを見つけ、戦いで傷ついた住処を整え始めていた。
ノアはその様子を見渡しながら、腕を組んだ。
「戦いには勝ったけど、片付けは大変だね」
「戦闘によって損傷した通路が複数あります。魔法兵器の残骸も危険です。魔力が残留している部品は、適切に処理する必要があります」
ミレアの報告に、ノアは頷いた。勝利したからといって、何もかもが元通りになるわけではない。むしろ、これだけ大きな戦いの後だからこそ、やるべきことは山ほどあった。
「セラには残留魔力の調査をお願いしよう。レグルは崩れそうな場所の補強。ガルドは……」
ノアが言いかけると、少し離れた場所でガルドが大きな岩を持ち上げていた。岩を運ぶというより、邪魔なものを力任せにどかしている。近くの小型魔物たちは、ガルドが岩を動かすたびに慌てて道を空けていた。
「……ガルドには、周りをよく見て作業するように言っておこう」
「適切な判断です」
「今の、聞こえてるからな!」
ガルドが不満そうに振り返る。ノアは笑いをこらえながら、手を振った。
「聞こえてるなら、もう少し丁寧にお願いね!」
ガルドは何か言い返そうとしたが、近くの小型魔物が運んでいた石を落としそうになったため、慌てて片手で受け止めた。結局、文句を言う暇もなく作業に戻っていく。その様子を見て、ノアは肩の力を抜いた。こういう日常が続くなら、ここは本当に暮らしていける場所になりそうだった。
だが、今朝のノアには、もう一つ気がかりがあった。昨日の戦いで捕らえた王国軍の兵士たちだ。武器を捨てた者たちは拘束したうえで治療を受けさせている。抵抗を続けた指揮官ヴァルガスも、現在は傷の手当てを受け、監視下に置かれていた。
「捕虜の様子は?」
「負傷者の大半は治療を受けています。重傷者もいますが、現時点で生命に関わる状態の者は確認されていません。ヴァルガスも意識を取り戻しています」
「そう。なら、話を聞きに行こう」
ノアはミレアを連れて、捕虜たちを収容している区画へ向かった。そこは本来、物資を保管するための広間だったが、今は簡易的な仕切りを設けている。武器や魔法具はすべて取り上げられ、入口にはレグルの配下が見張りとして立っていた。
ヴァルガスは壁に背を預けて座っていた。鎧は外され、腕には治療の跡が残っている。ノアが近づくと、彼は鋭い目を向けた。
「魔物の主か」
「そう。私はノア。この洞窟を管理している者だよ」
「王国軍を倒したからといって、王国が貴様を認めると思うな」
「別に認めてもらうために戦ったわけじゃないよ。そっちが攻めてきたから、守っただけ」
ノアは淡々と答えた。ヴァルガスは鼻を鳴らしたが、すぐに口を閉じた。昨日の戦いを思い出したのだろう。彼は、魔物たちの力を軽く見ていた。その結果が、今の自分の立場だった。
「一つ聞かせて。今回の遠征は、誰の命令?」
「王国の決定だ。異常な魔力反応が確認され、魔石の採掘量も増えていた。危険を調査し、必要ならば討伐する。それが我々の任務だった」
「調査だけなら、最初から話し合うこともできたはずだよね。どうして、いきなり大勢で攻め込んできたの?」
ヴァルガスは答えなかった。しばらく沈黙が続いたあと、彼は低い声で言った。
「魔石は王国に必要だ。魔法兵器を維持するにも、都市を守るにも、魔石がいる。あの量の魔石が採れる場所を、野放しにしておくわけにはいかなかった」
「つまり、ここを自分たちのものにしたかったんだ」
「王国を守るためだ」
「そのためなら、ここで暮らしている魔物たちを追い出してもいいの?」
ヴァルガスは再び黙り込んだ。彼にとって魔物は討伐対象だった。そこに住み、食べ、仲間を作り、生活している存在だという認識は薄かったのだろう。だが、昨日の戦場では、その魔物たちが互いに助け合い、負傷した仲間を運び、倒れた兵士にまで手当てを施していた。
「私は、ここを渡すつもりはないよ。これからも攻めてくるなら、同じように戦う」
「王国が、今回の敗北だけで引き下がると思うか?」
「思ってない。だから、次にどうするつもりなのかを考えてる」
ノアはそれ以上、ヴァルガスを責め立てなかった。聞きたいことは聞けた。王国が欲しているのは魔石であり、洞窟を支配下に置くことだ。話し合いの余地があるかどうかは、王国側の判断にもよるだろう。
ノアが立ち上がろうとしたとき、ヴァルガスが声をかけた。
「一つ忠告しておく。王国は、お前たちをただの魔物の群れとは見なくなる。これほどの軍を破った以上、次はもっと大きな力を投入するだろう。貴様らが何を望んでいようと、王国にとっては危険な存在だ」
「忠告、ありがとう」
ノアは短く答えた。
「でも、危険だと思われたからって、何もせずに従うつもりはないよ」
収容区画を出ると、通路の向こうからルナが歩いてきた。黒い毛並みは朝の光を受けて艶やかに見えたが、その表情はいつもより真剣だった。
「ノア、みんなが広場に集まっているよ」
「何かあったの?」
「ううん。みんな、これからどうするのか知りたいみたい」
ノアはルナの言葉に、少し考え込んだ。戦いが終わったばかりで、魔物たちはそれぞれの作業を始めている。けれど、彼らにとっては昨日の戦いが大きな転機になったのだろう。自分たちが力を合わせて人間の軍隊を退けた。その事実は、魔物たちの意識を変え始めているのかもしれない。
「分かった。行こう」
中央広間には、多くの魔物たちが集まっていた。ゴブリンやスライム、小型の魔獣、洞窟の奥からやってきた大きな魔物までいる。皆がルナを見ると、自然と道を開けた。以前なら、ルナはただの小さな黒猫のような存在だった。しかし今は違う。彼女の前に立つ魔物たちは、彼女が何を言うのかを待っていた。
ルナは広場の中央へ進み、ゆっくりと周囲を見渡した。
「昨日、みんなは一緒に戦ってくれた。私たちが暮らす場所を守るために」
小さな声だったが、不思議と広場の隅まで届いた。
「私は、これからもみんなを守りたい。でも、私一人ではできないことがたくさんある。だから、みんなにも力を貸してほしい」
魔物たちは静かに耳を傾けている。ルナは少しだけ言葉を探すように間を置き、それから続けた。
「ここを、みんなが安心して暮らせる場所にしたい。強い魔物だけじゃなくて、小さな魔物も、弱い魔物も、ここで暮らしていける場所に」
その言葉に、広場のあちこちで小さな鳴き声が上がった。ゴブリンたちは互いに顔を見合わせ、スライムたちは身体を揺らす。大きな地底岩亀は、ゆっくりと頭を下げた。
ノアはその様子を見ながら、ルナの隣へ進み出た。
「私からも一つ。ここを守るために、これからは少しずつ役割を決めていこうと思う。採掘が得意な魔物は魔石を集める。力のある魔物は通路や住処を整える。周囲を調べるのが得意な魔物は、外から何かが近づいていないか見てきてほしい。もちろん、無理はしなくていいよ」
命令ではなく、相談に近い言い方だった。だが、魔物たちはそれぞれ自分にできることを考え始めたようだった。すぐにゴブリンたちが採掘場へ戻り、小型の魔獣たちは物資を運ぶ手伝いを始めた。クロウも遠くから様子を確認すると、ルゥを伴って洞窟の外へ向かっていった。
その光景を見て、ルナはノアを見上げた。
「これが、国を作るってこと?」
「まだ最初の一歩だけどね。国っていうのは、王が命令するだけじゃできないよ。みんなが暮らせる場所を作って、困ったときに助け合えるようにして、外から守る仕組みも必要になる」
「じゃあ、私も覚えていく」
「うん。一緒にやろう」
そのとき、広場の端でポヨンが跳ねた。灰色の丸い身体が、短い手足を動かしながら、倒れていた布のそばへ移動する。ポヨンが布の端を踏んだ拍子に、近くのゴブリンが運んでいた木の棒が転がり、布の下へ滑り込んだ。棒が支えになり、布は地面から少しだけ持ち上がった。
それを見たゴブリンが、面白そうに棒を立て直した。別の魔物が布の端を結び、さらに別の魔物が支柱を運んでくる。やがて布は広場の中央で広げられ、簡素な旗のように掲げられた。
まだ紋章も、国の名前もない。ただ、昨日の戦いのあとに残っていた布を、魔物たちが自分たちの手で立てただけだった。
「旗、だね」
ノアが呟くと、ルナは少し考えてから頷いた。
「うん。みんなが集まる場所の目印にしよう」
旗は風を受け、ゆっくりとはためいた。魔物たちはそれを見上げながら、思い思いの声を上げている。誰かが命令したわけではない。ポヨンの小さな偶然をきっかけに、皆が自分から動いて形にしたのだ。
その光景を見て、ノアはようやく、この場所が変わり始めていることを実感した。
ただの洞窟ではない。強い魔物が集まるだけの場所でもない。ここに住む者たちが、自分たちの意思で守り、育てようとしている場所になりつつある。
その日の夕方、クロウが戻ってきた。ルゥとともに洞窟の外を調べてきたらしい。クロウはノアの前で低く唸り、前足で地面に小さな線を描いた。ミレアがその動きを読み取る。
「人間の足跡を確認したようです。数は少数。王国軍の本隊とは別の集団と思われます」
「王国軍の偵察かな?」
「その可能性があります。ただし、武装の痕跡は薄く、軍人と断定できる証拠はありません」
ノアは表情を引き締めた。王国が敗北を受けて動き始めるのは予想していたが、こんなに早く別の人間が現れるとは思っていなかった。
ルナも旗を見上げたまま、静かに言った。
「次に来る人たちが、話をしに来るなら、ちゃんと話したい」
「うん。でも、攻撃してくるなら守る。そこは変えないよ」
「分かってる」
ルナは小さく頷いた。新しい旗が風にはためく。その下に集まった魔物たちは、まだ国の名前も、法律も、これからの仕組みも知らない。それでも、自分たちが守るべき場所を持ったことだけは、はっきりと理解し始めていた。
そして、王国の敗北を知らせる報告は、まだ人間の都へ届いたばかりだった。魔物の国が形を持ち始めたことを、彼らはまだ知らない。
ノアは旗を見上げ、ルナの隣に立った。
「まずは、この旗の下に、みんなが帰ってこられる場所を作ろう」
ルナは、今度は迷わず答えた。
「うん。ここを、私たちの国にする」
風が吹き抜け、最初の旗が大きくはためいた。




