第100話 魔物の国の名と、人間からの使者
新しい旗が洞窟の入口に掲げられてから、二日が経った。旗そのものは、布と木の棒を組み合わせただけの簡素なものだった。紋章もなければ、国名すら書かれていない。それでも、洞窟で暮らす魔物たちにとっては、自分たちの意思で掲げた初めての旗だった。
以前は強い魔物が弱い魔物を追い払い、食料や寝床を奪い合うことも珍しくなかった。しかし今は、採掘を得意とする魔物が鉱石を集め、力のある魔物が通路の補修を手伝い、動きの速い魔物が洞窟の周囲を見回っている。ノアが一匹ずつ指示を出さなくても、少しずつ役割分担が生まれ始めていた。
中央広間を歩きながら、ノアは積み上げられた魔石の山を眺めた。採掘担当のゴブリンたちが、種類や大きさごとに魔石を仕分けている。少し離れた場所では、数匹の小型魔獣が壊れた柵を運び、別の魔物たちがそれを組み直していた。以前の洞窟なら、こうした作業をすべてノアが考え、指示しなければならなかっただろう。今は違う。王となったルナが中心に立ち、四軍団長がそれぞれの役割を担い始めたことで、魔物たち自身が考えて動くようになっていた。
「ただ、まだ決めることは山ほどあるよね。食料の管理に、採掘した魔石の使い道。それに、外から来た相手への対応も」
ノアが指を折りながら挙げると、隣を歩いていたミレアが静かに頷いた。
「国として継続的に運営するのであれば、資源の分配基準と防衛方針は必要です。王の命令だけで全てを処理し続けるのは、規模が大きくなるほど困難になります」
「だよね。ルナが何でも決めるんじゃなくて、みんなが自分で判断できる仕組みを作らないと」
「その考え方は適切です。ただし、現時点では魔物たちの間で共通の規則が十分に共有されていません。まずは最低限の決まりから整備するのがよいでしょう」
そのとき、広間の向こうからガルドがやってきた。肩には大きな岩を担いでいる。攻撃軍団の訓練を終えたばかりらしく、全身から熱気が立ち上っていた。
「ノア、入口の防壁を補強しておいたぞ。これなら人間が大勢で押し寄せても、前回より簡単には突破できないはずだ」
「ありがとう。でも、岩を積み上げただけじゃないよね?」
「当然だ。レグルに確認してもらい、衝撃が一点に集中しないように配置した。セラには防御術式を組み込んでもらっている」
ガルドの後ろから、レグルがゆっくりと姿を現した。黒銀の巨体には、配合によって生まれた細かな銀色の線が浮かんでいる。
「防壁の強度は十分です。ただし、長時間の砲撃を受け続けた場合は損傷する可能性があります。補修用の資材は近くに確保しておくべきでしょう」
「ほら、ちゃんと考えてるじゃない」
ノアが笑うと、ガルドは満足そうに胸を張った。
「当然だ。俺たちは軍団長だからな」
「軍団長になった途端、ずいぶん頼もしくなったね」
「前から頼もしかっただろう」
「それはそうだけど」
そんなやり取りをしていると、広間の奥からセラが歩いてきた。彼女の周囲には淡い光の粒が漂っており、魔力の流れを確かめているようだった。
「ノア様。各軍団が使用する魔力の配分について、暫定案をまとめました。防壁の維持に必要な量を優先して確保し、余剰分を訓練と施設の稼働に回します。ただし、緊急時には王権を通じて配分を変更できるようにしています」
「いいね。普段は無理なく暮らせて、戦いになったらすぐ切り替えられるんだ」
「はい。もっとも、魔力を使い切れば回復に時間がかかります。軍団ごとの判断だけで大量に消費しないよう、共通の基準を設ける必要があります」
最後に現れたポヨンは、いつもどおり短い手足で広間を歩いていた。ときどき床の小石を避けながら、周囲をきょろきょろと見回している。ノアが視線を向けると、ポヨンは嬉しそうに身体を揺らした。
「ポヨンは……うん。みんなが困ったときに、何か起きることを期待してるよ」
「ぷる?」
「褒めてるんだよ。たぶんね」
ポヨンは意味が分かっているのかいないのか、満足そうに跳ねた。
四軍団の準備は進んでいる。だが、国を作るために必要なのは戦う力だけではない。ノアはそのことを改めて実感していた。強い軍団があっても、食料や資源を巡って争いが起きれば国は長続きしない。王が命令を出せば動くとしても、王がいない場所で問題が起きたとき、誰も判断できなければ意味がない。だからこそ、今のうちに小さな決まりを作っておく必要があった。
「まずは、採掘した魔石を全部軍事用に回すのはやめよう。施設を動かす分と、暮らしに必要な分を先に確保する。それから、食料や寝床を強い魔物が独占するのも禁止。困ったことがあったら、各軍団長に相談できるようにしよう」
「合理的な方針です」
ミレアが答えた。
「ただし、各軍団長が全ての問題を抱え込まないよう、軍団の中にも担当者を置く必要があります」
「なるほど。軍団長の下にも、まとめ役を作るんだね」
「はい。まずは小規模な仕組みから始め、魔物の数が増えるにつれて調整するのが適切でしょう」
ノアは頷いた。国作りというと大げさに聞こえるが、結局は暮らしを整えることから始まるのだ。戦いに勝つことはできても、勝った後に何をするかを決めておかなければ、同じ問題を何度も繰り返すことになる。
そのときだった。
入口の見張りをしていたクロウが、鋭い鳴き声を上げて広間へ駆け込んできた。黒い毛並みを逆立て、額の角をわずかに傾けている。普段のクロウは、危険が迫っていても必要以上に騒ぐことはない。そのクロウが急いで戻ってきたということは、何かあったのだ。
「人間が来たの?」
ノアが尋ねると、クロウは低く唸り、入口の方向を振り返った。
「数は?」
クロウは前足を二度床に打ちつけたあと、少し間を置いて三度目を打った。正確な人数を数えたわけではないだろうが、少なくとも大軍ではないらしい。
ミレアが補足した。
「周辺の魔力反応から推定すると、三名程度です。武装はしていますが、先日の王国軍のような大規模な魔力兵器は確認できません」
「三人か……。偵察かな」
「その可能性が高いです。ただし、先日の戦闘後に接近してきた以上、警戒は必要です」
ノアはルナのもとへ向かった。王となったルナは、中央広間の奥で魔物たちの様子を見ていた。小さな黒い身体は以前と変わらないが、その瞳には、目覚める前にはなかった落ち着きが宿っている。ノアが事情を説明すると、ルナはしばらく考えたあと、静かに口を開いた。
「こちらから攻撃はしない。でも、武器を構えて襲ってくるなら止める」
「うん。相手が何をしに来たのか、まずは確認しよう」
「私たちの国を守ることと、誰彼かまわず敵にすることは違うものね」
その言葉に、ノアは少し驚いた。ルナはまだ小さな魔物だ。それでも、王権に目覚めてからは、力を振るうことと、力をどう使うべきかを分けて考え始めている。
「じゃあ、入口で話を聞こう。ガルドとレグルは護衛。セラは魔力反応を確認して。ポヨンは……」
ノアが言葉を止めた。
ポヨンはすでにルナの後ろへ回り込み、何かを探すように床を見回していた。
「ポヨン、今日は余計なものを踏まないでね」
「ぷる!」
返事は元気だった。信用できるかどうかは別として。
ノアたちは入口へ向かった。補強された防壁の外には、三人の人間が立っていた。先頭にいるのは、旅装の上から革鎧を身につけた中年の男だった。腰には剣があるものの、手は柄にかかっていない。後ろの二人も武器を携えていたが、攻撃態勢には入っていなかった。
男はノアたちの姿を確認すると、ゆっくりと両手を見える位置へ上げた。
「突然の訪問を許してほしい。俺たちは王国軍ではない。少なくとも、今日は戦いに来たわけじゃない」
「それを信じろって?」
ノアは警戒を崩さずに尋ねた。
「すぐに信じろとは言わない。こちらも、ここで何が起きたのかを確かめる必要があるんだ」
「何を確かめたいの?」
男は一度、洞窟の入口に掲げられた旗を見上げた。即席の布は風に揺れている。まだ紋章も国名もない旗だったが、そこに込められた意思は伝わっているようだった。
「王国軍が大敗した。その報告は、すでに周辺の町にまで届いている。だが、報告の内容が食い違っているんだ。魔物が無差別に人間を襲ったという話もあれば、人間の軍が先に侵攻したという話もある。俺たちは、何が本当なのかを知りたい」
ノアは男の目を見た。少なくとも、最初から戦いを仕掛けるつもりで来たようには見えない。しかし、話を聞くだけで信用するわけにもいかなかった。
「王国の命令で来たの?」
「違う。俺たちは独立した調査員だ。王国に雇われているわけでもないし、軍に所属しているわけでもない」
「じゃあ、どうしてわざわざ危険な場所に来たの?」
男は少しだけ苦笑した。
「このまま放っておけば、次はもっと大きな軍が来るかもしれないからだ。王国が何を考えているのか、ここにいる魔物たちが何を望んでいるのか。それを知らないまま戦いが続けば、周辺の町まで巻き込まれる」
その言葉に、ノアは考え込んだ。男の言うことが全て本当だとは限らない。だが、少なくとも彼らは、先日の軍勢とは違う目的で来た可能性がある。
ルナが一歩前へ出た。
「あなたたちは、私たちの国をどうしたいの?」
小さな黒猫のような魔物が人間の言葉を話した瞬間、三人の表情が変わった。後ろの一人は思わず剣の柄に手を伸ばしかけたが、先頭の男が片手で制した。
「……君が、王位継承者なのか」
「質問に答えて」
ルナの声は小さい。それでも、広場の空気が引き締まった。
男はゆっくりと息を吐いた。
「俺たちの目的は、この国を攻めることじゃない。少なくとも、俺個人はそう考えている。だが、王国が同じ考えだとは限らない」
「なら、王国に伝えて。私たちはここを捨てない。攻撃してくる相手には抵抗する。でも、話をするために来た相手まで敵にするつもりはない」
ルナの言葉を聞き、男は深く頷いた。
「分かった。そのまま伝えよう」
「それと、もう一つ」
ルナは入口の旗を見上げた。
「私たちの国には、まだ名前がない。だから、名前を決める。ここは、魔物たちが自分の意思で暮らす国だから」
ノアはルナを見つめた。国名を決める。それは、ただ旗に文字を書き込むだけのことではない。自分たちが何者で、何を守り、どこへ向かうのかを定めることでもある。
男たちは、その場で静かに待っていた。ルナはノア、ミレア、そして四軍団長を順番に見たあと、再び入口の旗へ視線を向けた。
「この国の名前は――」
その言葉を聞くために、周囲の魔物たちが少しずつ集まり始めた。
戦いに勝ったから国ができたわけではない。旗を掲げたから国になったわけでもない。ここで暮らす者たちが、自分たちの居場所を守り、共に生きると決めたからこそ、国は形を持ち始めていた。
そして今、その国に初めての名前が与えられようとしていた。




