第73話 運命が変えた一匹の魔物
地下室に残された古代文字は、しばらく淡い光を放っていた。
『転換対象を選択してください』
その言葉を前にして、ノアは動かなかった。運命転換炉が何をする施設なのか、まだ分かっていない。『運』を供給する必要があり、対象を選ぶことで何かを変えられるらしい。それだけは分かったが、肝心の「何を」「どの程度」変えられるのかが不明なのだ。
「今の段階で触るのはやめておこう」
ノアがそう言うと、ミレアも頷いた。
「賢明だと思います。古代施設は、便利そうだからという理由だけで使うには危険すぎます」
エドたちも異論はなかった。そもそも彼らにとっては、ここが何なのかすら分からない。リナなどは魔法陣を見つめながら、何度も首を傾げている。
「でも、あれだけの魔力を使ってるのに、まだ本格的に動いてないんですよね?」
「そうみたい」
「だったら、完全に起動したら……どうなるんでしょう」
リナの疑問に、ノアは答えられなかった。
その時、地下室の奥から小さな音がした。
カチッ。
全員が振り向く。
しかし、そこには何もない。
「……今の音、何?」
ノアが尋ねると、クロウがすぐに反応した。耳を立て、地下室のさらに奥へ視線を向ける。
「グルル……」
クロウが歩き出す。
ノアたちも後を追った。
そこには古い壁があるだけだった。だがクロウは壁の前で立ち止まり、鼻を近づける。そして前脚で床を軽く引っ掻いた。
すると、床の隙間から小さな光が漏れた。
「また何かあるの?」
ノアがしゃがみ込む。
だが、壁も床も簡単には動かない。
その横からポヨンが近づいてきた。
「ぽよ?」
「ポヨン、今度は触らないでね」
「ぽよ……」
明らかに不満そうな顔をしたポヨンを抱き上げ、ノアは床を調べた。
結局、その場所から何かを取り出すことはできなかった。
「今日はここまでにしよう」
そう判断して、ノアたちは地下室を後にした。
だが、その頃。
洞窟の別の場所で、一匹の小さな魔物が奇妙な行動を始めていた。
普段なら、洞窟の浅い場所をうろつきながら落ちている食べ物を探しているだけの、ごく普通の魔物だった。
名前すら付けられていない。
強さもない。
戦えば、冒険者に簡単に倒されてしまう程度の個体だ。
ところが、その魔物が突然立ち止まった。
目の前には三つの道がある。
左へ行けば水場。
中央へ行けば餌場。
右へ行けば、普段は誰も近づかない古い通路。
魔物はしばらく迷った。
そして――なぜか右へ進んだ。
「……?」
しばらく歩いたところで、小さな魔物は足を滑らせた。
ころん、と転がる。
そのまま斜面を転がり落ち、壁へぶつかった。
カンッ。
壁の一部が揺れる。
魔物は何も気にせず起き上がった。
しかし、ぶつかった場所には小さな亀裂が生まれていた。
さらに、その亀裂から魔力が漏れ出している。
「グル……?」
魔物が鼻を近づける。
そして舐めた。
次の瞬間、身体が淡く光った。
一瞬だった。
光はすぐに消えた。
魔物自身も何が起きたのか分からない。
ただ、いつもなら気にも留めない小さな石が目に入った。
石の下から、古い魔力結晶の欠片が覗いている。
魔物はそれを拾い上げ、口に入れた。
ぱくっ。
その瞬間。
洞窟全体を流れていた魔力が、ほんの少しだけ揺らいだ。
地下深く。
運命転換炉が反応した。
『転換対象――確定』
『対象――洞窟内生命体』
『変換量――微小』
『結果――適応』
古代文字が静かに消える。
炉そのものが何かを生み出したわけではない。
魔物を別の存在に変えたわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ。
本来なら起きなかった可能性を、起こりやすい方向へ押した。
魔物は自分の身体に起きた変化に気づかないまま、洞窟の奥へ進んでいく。
その足取りは、以前よりほんの少しだけ安定していた。
そして翌朝。
ノアはいつものように洞窟の状態を確認していた。
「魔力循環は安定。設備も問題なし。ポヨンは……」
「ぽよ」
「そこにいたのね」
ポヨンが元気よく返事をする。
ガルドは訓練場で炎を纏いながら、巨大な訓練用ゴーレムを殴り続けている。以前とは比べものにならないほど強くなったガルドの一撃に、ゴーレムの腕がまた吹き飛んだ。
レグルは少し離れた場所で防御訓練。
セラは魔法制御の訓練。
そしてクロウは洞窟内の巡回を続けている。
「昨日の地下施設のことを考えると、しばらくは様子見かな」
ノアがそう言った時だった。
クロウが突然、顔を上げた。
「グルル……」
「どうしたの?」
クロウが走り出す。
ノアとミレアも後を追った。
辿り着いたのは、洞窟の浅い場所だった。
そこには数匹の普通の魔物が集まっている。
だが、その中央にいる一匹だけが違った。
小さな身体。
薄い毛。
目立った特徴もない。
それなのに、クロウはその魔物をじっと見つめていた。
「何か変なの?」
ミレアが解析する。
「……魔力反応は弱いですね。ですが、昨日までの記録と比べると……」
「比べると?」
「ほんの少しだけ、適応能力が上がっています」
ノアは魔物を見る。
本人は何も分かっていない。
周囲の仲間たちと一緒に餌を探しているだけだ。
「昨日、何か食べたのかな?」
「その可能性はあります。ただ……」
ミレアが言葉を止める。
「この魔物が昨日いた場所は、運命転換炉から最も遠い位置です」
ノアの表情が変わった。
「……じゃあ」
二人の脳裏に、昨夜の古代文字が浮かぶ。
『転換対象――洞窟内生命体』
ノアは小さな魔物を見つめた。
「まさか、もう動いてる?」
ミレアは慎重に答えた。
「可能性はあります」
ノアはしばらく考えた。
そして、少しだけ笑った。
「じゃあ、しばらく観察しよう」
まだ何が起きたのか分からない。
強くなったわけでもない。
特殊な能力を得たわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ。
その魔物の「可能性」が変わった。
ノアはその変化を見逃さないことにした。
一方、その小さな魔物は何も知らずに歩いていた。
そして、また三つの道の前で立ち止まる。
左。
中央。
右。
少し迷ったあと――。
今度は、昨日まで存在すら知らなかった細い通路へ入っていった。
その先には、古い魔力結晶が一つ。
さらにその奥には、誰にも使われていない小さな部屋があった。
運命転換炉が変えたのは、たった一匹の魔物の選択。
けれど、その小さな選択が、洞窟の未来を少しずつ動かし始めていた。




