第7話 傷ついた魔物と、新たな仲間
森から吹き抜ける風が、ノアの髪を揺らしていた。目の前には、一頭の大きな魔物がいる。黒い毛並みと、額から伸びた一本の角。狼に似た姿をしているものの、その身体は狼より一回りも二回りも大きく、四本の脚には鋭い爪が備わっていた。まともに戦えば、今のノアたちでは到底敵わないだろう。
しかし、その魔物は明らかに弱っていた。
脇腹には大きな裂傷があり、前脚からも血が流れている。毛並みは血と泥で汚れ、荒い呼吸を繰り返しながら、どうにか立っている状態だった。
「ミレア……本当に助けられる?」
ノアが尋ねる。
ミレアは魔物から視線を外さず、慎重に答えた。
「はい。傷そのものは治療できます。ただし、完全な回復にはかなりの魔力が必要です。現在のダンジョンにある魔力だけでは足りません」
「魔石なら?」
「使えます。ですが、以前お話しした通り、質の高い魔石は今後の召喚や設備拡張にも必要になります。ここで一つ消費すれば、しばらくは余裕がなくなるでしょう」
ノアは手元にある魔石を見る。
昨日、隠し部屋で偶然見つけたものだ。
これを使えば、召喚石を使うための余裕も減るかもしれない。
ダンジョンを強くするなら、資源は大切に使うべきだ。
頭ではわかっている。
それでも、ノアは目の前の魔物から視線を逸らせなかった。
「……使う」
「よろしいのですか?」
「うん」
ノアは魔石を握りしめた。
「この子を助けるためなら、使っていい」
ミレアは一瞬だけノアを見つめ、それから小さく頷いた。
「わかりました」
ノアは魔物へ近づいた。
一歩。
また一歩。
魔物は低く唸った。
「大丈夫だよ」
ノアは足を止めた。
「怖がらせたいわけじゃないから。私はノア。この洞窟のダンジョンマスターなの」
魔物はじっとノアを見る。
その瞳には強い警戒心があった。
「痛いよね」
魔物が唸る。
「助けてほしい?」
返事はない。
「……勝手に助けるね」
ノアはしゃがみ込み、ゆっくり手を伸ばした。
魔物の身体が強張る。
だが、攻撃はしてこない。
ノアの指先が、黒い毛に触れた。
「いい子」
魔物の唸り声が少しだけ弱くなった。
「ミレア、お願い」
「はい」
ミレアが魔力を解放する。
淡い光が魔物の身体を包み込んだ。
裂けた傷が少しずつ塞がっていく。流れていた血が止まり、傷口の周囲に残っていた炎症も消えていく。魔石から吸い上げられた魔力が治癒へと変換され、傷だらけだった身体がゆっくりと元の状態へ戻っていった。
やがて光が消える。
魔物は自分の身体を見下ろした。
それからノアを見る。
「……治った?」
魔物は立ち上がった。
先ほどまでふらついていた脚に、今度はしっかりと力が入っている。
そして――。
魔物はノアの前まで歩いてきた。
大きな頭を、ノアの胸元へそっと押しつける。
「……え?」
ノアは驚いた。
魔物の尻尾が、ゆっくりと左右へ動いている。
「ミレア、これって……」
「敵意はありません。むしろ、かなり高い好意を示しているようです」
「じゃあ……」
ノアは魔物の頭を撫でた。
「ありがとうって言ってるのかな」
「その可能性はあります」
「よかった……」
ノアは心から安堵した。
助けたかった。
ただそれだけだった。
仲間になってくれれば嬉しい。
でも、そうならなくても構わなかった。
この魔物が元気になって森へ帰れるなら、それで十分だと思っていた。
しかし、ミレアが突然ダンジョンコアを確認する。
「ノア様」
「どうしたの?」
「特殊な反応が出ています」
「特殊?」
「この魔物が、ダンジョンへの所属意思を示しています」
ノアは目を丸くした。
「所属って……仲間になるってこと?」
「はい。ただし、こちらから強制することはできません。野生の魔物が自らダンジョンへの所属を選択した場合に限り、登録が可能です」
ノアは魔物を見る。
「あなた、本当にここにいたいの?」
魔物はノアを見る。
そして、迷うことなく一歩前へ出た。
ノアの隣に立つ。
そのまま動かない。
「……そっか」
ノアは笑った。
「じゃあ、一緒に暮らそう」
ダンジョンコアが淡い光を放つ。
【野生魔物からの所属意思を確認】
【登録条件を満たしました】
【魔物の登録が可能です】
「登録して」
ノアが答える。
【登録完了】
【種族:ホーンウルフ】
【個体名:未設定】
【特殊技能:魔力感知】
【特殊技能:危機察知】
ノアは表示を見つめた。
「ホーンウルフ……」
「希少な魔物です」
ミレアが説明する。
「額の角に魔力を蓄える性質を持つ狼系魔物です。通常のホーンウルフでも戦闘能力は高いですが、この個体はさらに危機察知を持っています。敵の殺気や危険な魔力反応を感知できる可能性があります」
「それって、ダンジョンの守りにすごく役立つんじゃない?」
「はい。非常に有用です」
ノアは嬉しそうに魔物を見る。
「じゃあ、名前を決めないとね」
黒い毛並み。
額の角。
そして、森の中を生き抜いてきた強さ。
ノアは少し考えた。
「クロウってどう?」
魔物の耳が動く。
「クロウ。嫌なら首を振ってね」
クロウはしばらくノアを見つめていた。
やがて、ノアの手に頭を押しつける。
「……気に入った?」
「クゥン」
「じゃあ、今日からクロウね」
ノアが頭を撫でる。
クロウは嬉しそうに尻尾を振った。
「これで仲間が一体増えたね」
「はい」
ミレアも穏やかな表情を浮かべた。
だが、ノアはふと自分の手元を見る。
治療に使った魔石は消えている。
そして昨日の戦いで獲得したダンジョンポイントは、まだかなり残っているものの、今後の設備や食料、罠などを考えれば決して余裕があるわけではない。
ノアは少し考えてから、ダンジョンコアを見た。
「……そういえば」
「何でしょう?」
「召喚石」
ミレアが頷いた。
「はい。昨日購入した召喚石が一つ残っています」
「使おう」
「クロウを仲間にした直後ですが?」
「だからこそ」
ノアはクロウを見る。
「クロウはすごく強そう。でも、今のダンジョンには役割が違う仲間も必要だと思う。召喚石なら、どんな子が出るかわからないけど……今の私たちに必要な子が来るかもしれない」
「なるほど」
「それに、召喚石は使わないと何が出るかわからないままだよ」
「当然ですね」
「じゃあ、やってみよう」
ノアは召喚石を取り出した。
灰色の石。
これまでに何度も見てきたものだ。
ただし、今回だけは少し違う。
すでに四体の仲間がいる。
ポム。
ガルド。
ルゥ。
そしてクロウ。
ここへ、もう一体が加わる。
「ノア様」
「なに?」
「一つだけ忠告があります」
「うん」
「召喚石は、ノア様の希望通りの魔物を呼ぶ道具ではありません。戦闘能力が低い個体が出ても、落胆しないでください」
ノアは笑った。
「わかってる」
「本当に?」
「うん。ガルドのときに勉強したから」
「……それは良い学習だと思います」
ガルドが振り返った。
「ガルド?」
「あなたの話です」
「ガルド!」
「だから怒らないで」
ノアが笑いながら召喚石を召喚陣へ置く。
魔法陣が広がった。
召喚石が砕ける。
大量の魔力が洞窟内へ流れ込んだ。
ポムが興奮して跳ね回る。
ガルドは短剣を握ったまま召喚陣を見つめる。
ルゥは耳を立て、クロウは静かにその場へ座った。
「何が出るかな……」
ノアが呟く。
魔法陣の光が強くなる。
そして――。
光が消えた。
召喚陣の中央にいたのは、小さな魔物だった。
丸い身体。
短い手足。
大きな耳。
灰色の毛に覆われたその姿は、どこかモグラにも似ている。
「……小さい」
ノアがしゃがみ込む。
魔物は不安そうに周囲を見回した。
「ぷ……」
「こんにちは」
「ぷ?」
「私はノア。このダンジョンのマスターだよ」
魔物がノアを見上げる。
ノアは手を差し出した。
「よろしくね」
魔物は少し迷ったあと、ノアの指先へ鼻を近づけた。
くん、くん。
そして――。
「ぷるっ」
ノアの手に頭を擦りつける。
「かわいい!」
「ノア様、まず鑑定を」
「あ、そうだった」
ミレアが魔物を確認する。
「種族は……ミミックモールです」
「モグラ?」
「近いですが、通常のモグラ系魔物とは少し違います。地中を掘る能力に特化した種です」
「戦える?」
「戦闘能力は低いです」
「また?」
ノアがガルドを見る。
ガルドが不満そうな顔をした。
「ごめん、ガルドのことじゃないよ」
ミレアが説明を続ける。
「ただし、特殊技能を二つ持っています」
「二つ?」
「【魔力感知】と【高速掘削】です。地中に存在する魔力の流れを感知でき、さらに通常の魔物より遥かに速く地面を掘れます」
ノアの目が輝く。
「それって……ダンジョンを広げられる?」
「はい。非常に適しています」
ノアは小さな魔物を抱き上げた。
「すごいじゃん!」
「ぷるっ!」
「戦えなくても大丈夫。私たちにはクロウもガルドもいるから」
クロウが静かに魔物を見る。
小さなミミックモールもクロウを見る。
しばらく見つめ合ったあと、クロウが鼻を鳴らす。
「クゥン」
「ぷ」
どうやら問題はないらしい。
「名前、どうしようかな」
ノアは魔物を眺める。
「モールだから……モラ」
「また非常に単純ですね」
「いいじゃん。覚えやすいし」
「否定はしません」
「じゃあ、モラ!」
「ぷるっ!」
モラが小さな前足を上げる。
ノアは嬉しそうに笑った。
「よろしくね、モラ」
こうして、ノアのダンジョンには新たな仲間が加わった。
野生からやってきたホーンウルフのクロウ。
召喚石によって呼び出されたミミックモールのモラ。
どちらも戦いだけを目的とした魔物ではない。
しかし、今のノアにとっては、どちらも必要な存在だった。
クロウは危険を察知できる。
モラは地中を掘り、魔力を探せる。
そして――。
「ぷ?」
モラが突然、ノアの腕から飛び降りた。
「どうしたの?」
モラは地面へ鼻を近づける。
くん、くん。
そして、洞窟の奥へ走っていった。
「待って!」
ノアたちが後を追う。
モラは既存の通路を抜け、まだ誰も調べていなかった岩壁の前で止まった。
「ここ?」
「ぷる!」
モラが地面を掘り始める。
土が飛び散る。
岩盤が削れる。
ノアは目を丸くした。
「速い……」
「【高速掘削】の効果でしょう」
モラは夢中になって掘り続けた。
数分後。
カツン。
何か硬いものにぶつかった。
モラが首を傾げる。
さらに掘る。
やがて土の中から、古びた金属板が姿を現した。
「何これ?」
ノアが手に取る。
金属板には、見たことのない文字が刻まれていた。
ミレアが解析する。
「……古代文字です」
「何て書いてある?」
ミレアの表情が変わった。
「これは……配合に関する記録です」
「配合?」
ノアの目が輝く。
「じゃあ、この洞窟には魔物配合の何かがあるの?」
「その可能性があります」
ミレアは金属板を慎重に調べた。
「しかも、これは単なる説明書ではありません。どうやら、この洞窟そのものに配合設備が残されている可能性を示しています」
ノアは目の前の壁を見る。
召喚石から現れたモラ。
モラが偶然見つけた古代の記録。
そして、その記録が示す配合設備。
まただ。
また偶然が重なっている。
ノアは少しだけ笑った。
「……私、本当に運がいいのかも」
ミレアは苦笑した。
「否定はしません。ただし、今回ばかりは『運が良い』だけでは説明できない気もします」
「どういうこと?」
「ノア様が必要だと思ったものが、妙なほど都合よく集まっています」
ノアはクロウを見る。
モラを見る。
そして、ポムとガルド、ルゥを見る。
自分一人では何もできない。
だからこそ、仲間が必要だった。
すると、その仲間が向こうからやってくる。
「だったら……」
ノアは小さく拳を握った。
「この幸運、ちゃんと利用してみよう」
誰も知らない地下深く。
古代の配合設備は、まだ眠ったままだった。
だが、その封印を解くために必要なものは――すでにノアのダンジョンへ集まり始めていた。




