第6話 幸運の使い方
冒険者たちが去ってから、洞窟は妙に静かだった。
昨日までなら、静かなことは嬉しかったはずだ。誰も来ない。誰も騒がない。魔物たちとゆっくり過ごせる。それだけで十分だった。
けれど今は違う。
静寂の中に、先ほどまで聞こえていた剣戟の音が残っているような気がした。
ノアは洞窟の奥に座り込み、膝を抱えていた。目の前にはポムがいる。ガルドは少し離れた場所で、先ほど手に入れた短剣を眺めていた。ルゥはノアの隣に座り、何も言わずに身体を寄せている。
誰もノアを責めていない。
だからこそ、余計に苦しかった。
「……あの人、家族とかいたのかな」
ぽつりと呟く。
ミレアはすぐには答えなかった。
「いたかもしれません。いなかったかもしれません。それは、私にはわかりません」
「そうだよね」
「ですが、一つだけ確かなことがあります」
ミレアがノアの正面へ移動する。
「ノア様は、あの人を殺すためにダンジョンを作ったわけではありません」
「……うん」
「そして、今後もすべての冒険者を殺さなければならないわけでもありません。撤退する者は逃がせばいい。話し合える者とは話し合えばいい。ですが、こちらを殺そうとする者が来た場合まで、ノア様が自分の命を差し出して助ける必要はありません」
ノアは黙って聞いていた。
「ダンジョンマスターだから殺すのではありません。生きるために戦う。その結果として相手が死ぬことがある。それだけです」
「……それでも、怖いよ」
「はい。怖くていいと思います」
意外な返事だった。
ノアが顔を上げる。
「怖くていいの?」
「ええ。何も感じなくなるほうが危険です。人の死を見て平然としていられる必要はありません。怖いと思いながら、それでも必要なときには決断する。それもダンジョンマスターの仕事でしょう」
ノアはしばらくミレアを見つめた。
「ミレアって、たまにすごく大人っぽいこと言うよね」
「補佐精霊ですから」
「昨日まで『私も同感です』とか言ってたのに」
「昨日は事実を述べただけです」
「今日も事実を述べてるだけ?」
「……少しだけ、ノア様のことを心配しているのかもしれません」
ノアは目を丸くした。
ミレアはそれ以上何も言わず、ふいっと顔を背けた。
「今の、もう一回言って」
「言いません」
「聞こえなかった」
「聞こえていたでしょう」
「お願い」
「お断りします」
ノアは久しぶりに笑った。
ほんの少しだけだったが、胸に詰まっていたものが軽くなった。
「ありがとう、ミレア」
「……どういたしまして」
しばらくして、ノアは立ち上がった。
「じゃあ、これからのことを考えよう」
「はい」
「もう同じことが起きても、何もできないまま終わるのは嫌だから」
ノアはダンジョンの中を見渡した。
今回、冒険者を退けられたのは、運が良かった。
ガルドが攻撃を避けたこと。
落とし穴に冒険者が落ちたこと。
その下に偶然空洞があったこと。
ルゥが隠し部屋を見つけたこと。
どれ一つとして、ノアが計画したものではない。
「……でも、運が良かっただけって言っても、運を使って勝てたんだよね」
「その認識は間違っていません」
「じゃあ、私の幸運をちゃんと使えるようになれば、もっと生き残れるんじゃない?」
ミレアは少し考えた。
「興味深い考え方です」
「でしょ?」
「ただ、問題があります」
「何?」
「幸運とは、基本的に結果を直接指定できる能力ではありません。『ここで都合の良いことが起きろ』と願ったからといって、その通りになる保証はないでしょう」
「……じゃあ、どうするの?」
「結果を指定するのではなく、幸運が働いたときに利益を得られる状況を作るべきです」
ノアが目を瞬く。
「つまり?」
「昨日の落とし穴が良い例です。ノア様は『冒険者を殺す』という結果を指定したわけではありません。ただ、敵が足を取られる可能性を作った。その結果、偶然にも地下空洞が崩落し、冒険者が死亡した」
「……なるほど」
「幸運そのものを操るのではなく、偶然が起こる余地を増やす。そうすれば、ノア様の能力を生かせる可能性があります」
ノアは腕を組んだ。
考えてみれば、今まで幸運というものを「何か良いことが起きる能力」としか考えていなかった。
だが、違うのかもしれない。
偶然を起こす能力。
それなら、偶然が起きる場所を増やせばいい。
「じゃあ、罠をたくさん作ればいい?」
「そう単純ではありません。罠が多すぎれば冒険者は警戒します。また、こちらの魔物が動きづらくなる可能性もあります」
「じゃあ、どうする?」
「私なら、複数の小さな仕掛けを作ります」
ミレアは空中に簡単な図を描いた。
「大きな罠を一つ設置するのではなく、小さな段差、隠し穴、音を鳴らす仕掛け、視界を遮る場所などを複数用意する。どれか一つが役に立てば十分です」
「全部成功させなくていいんだ」
「はい。むしろ全部が予定通りに機能する必要はありません」
ミレアがノアを見る。
「幸運とは、予定外の出来事ですから」
「……それ、すごくいいね」
ノアの目が輝いた。
「じゃあ、ダンジョンそのものを『偶然が起きやすい場所』にすればいいんだ」
「その方向性なら、ノア様の能力との相性は良いと思います」
ノアは早速、ダンジョンポイントを確認した。
「ところで、昨日の報酬ってどれくらいだったの?」
「確認します」
ミレアがダンジョンコアを操作する。
数字が浮かび上がった。
【防衛成功】
【侵入者死亡:1】
【侵入者撤退:2】
【獲得ダンジョンポイント:128】
「……百二十八?」
ノアが目を丸くする。
「はい」
「昨日、三十二だったよね?」
「はい」
「一気に四倍?」
「侵入者の強さと、ダンジョンへの侵入距離、戦闘結果などによって報酬は変動します。今回は初防衛という補正も入っているようです」
ノアは数字を見つめた。
百二十八ポイント。
これなら、いくつかの設備を増やせる。
そして――。
「召喚石は?」
「購入できます」
「いくら?」
「百ポイントです」
ノアとミレアの視線が同時に交差した。
「……買えるね」
「買えます」
「じゃあ、買おう」
「少し待ってください」
ミレアが珍しく強い口調で止めた。
「昨日、召喚石を一つ使ったばかりです。現在の戦力を考えれば、もう一体増やすことには賛成ですが、百二十八ポイントのうち百ポイントを使うと、残りは二十八です」
「でも、新しい魔物が増えるよ」
「はい。ただし、その魔物が戦力になるとは限りません」
「……ガルドみたいに?」
「ガルドは十分に役立っています」
「今、ちょっとだけ間があったよ」
「気のせいです」
ミレアが真顔で答える。
ノアは笑った。
「でも、今回は買いたい」
「理由を聞かせてください」
「今の私たちは、三体しかいない。それに、ルゥみたいに戦闘以外で役立つ魔物が出るかもしれない。強い魔物じゃなくても、ダンジョンを広げるために必要な能力を持っているかもしれない」
ノアは少し考えてから続けた。
「それに、召喚石を使って外れたとしても、その魔物を配合に使えるんだよね?」
ミレアが目を見開いた。
「……はい」
「じゃあ、無駄にはならない」
「その通りです」
「だったら、やってみよう」
ミレアはしばらく黙った。
そして、ゆっくりと頷いた。
「わかりました。召喚石を購入します」
ダンジョンコアが輝く。
百ポイントが消費される。
ノアの手の中に、新たな召喚石が現れた。
昨日と同じ灰色の石。
しかし、ノアの気持ちは昨日とは違っていた。
昨日はただの期待だった。
今日は、この一個が仲間の命を守るかもしれないと思っている。
「ミレア」
「はい」
「私、もう一度召喚してみる」
「ええ」
「今度はどんな子が来ても、大切にするよ」
「それが一番良いと思います」
ノアは召喚石を握った。
その瞬間だった。
洞窟の入口から、ルゥの低い唸り声が響いた。
「……また誰か来た?」
ノアの表情が変わる。
ミレアもすぐに入口へ向かった。
ルゥが地面に鼻を近づけている。
そして――首を横へ振った。
「違います」
「え?」
「人間ではありません」
ルゥが突然、洞窟の外へ駆け出した。
「待って!」
ノアたちも追いかける。
洞窟の外には、深い森が広がっている。
ルゥは少し先で立ち止まり、何かを見つめていた。
その視線の先に、一匹の大きな獣がいた。
黒い毛並み。
額には小さな角。
身体には傷がいくつもあり、明らかに弱っている。
「魔物……?」
ノアが呟く。
ミレアが鑑定する。
「……珍しい個体です」
「強い?」
「はい。ですが、かなり弱っています。そして……」
ミレアが言葉を止めた。
「この魔物は、本来ならこの森のさらに奥に生息する種です。ここまで来る理由がありません」
ノアは獣を見る。
獣もまた、ノアを見た。
警戒している。
逃げる力すら残っていないようだった。
「……どうしよう」
ノアが一歩近づく。
獣は唸った。
それでも、逃げない。
ノアは召喚石を握ったまま、考えた。
ここに来たのは偶然なのか。
それとも――。
彼女の幸運が、また何かを引き寄せたのか。
「ミレア」
「はい」
「この子、助けられる?」
ミレアは獣を見つめた。
そして静かに答えた。
「可能です。ただし、その場合――」
「うん」
ノアは頷いた。
「この子も、私たちの仲間にしたい」
その瞬間、ノアの手の中で召喚石が淡く光った。
まるで、何かを待っているかのように。
ノアはまだ知らなかった。
次に起こる出来事が、彼女の「幸運」という能力について、初めて明確な答えを与えることになるとは。




