第4話 初めての侵入者
翌朝、ノアはいつもより早く目を覚ました。理由は単純だった。昨日、入口に落ちていた革袋と地図を見つけてから、どうにも落ち着かなかったのである。誰かがこの洞窟の存在を知っている。それがわかっただけで、昨日までただの静かな住処だった場所が、急に危険な場所へ変わったように感じられた。
「……ミレア、起きてる?」
「起きています。正確には、私は眠る必要がありません」
声のしたほうを見ると、ミレアはダンジョンコアの前に浮かびながら、何冊かの本を広げていた。
「昨日の地図について調べていました」
「何かわかった?」
「この周辺には、少なくとも三つの街道があります。そのうち一つは、この洞窟から徒歩で半日ほどの場所を通っています。冒険者が近くを通る可能性は十分にあります」
「じゃあ、やっぱり誰かが来るんだ」
「可能性は高いでしょう。ただ、昨日の革袋については気になる点があります」
ミレアは一枚の紙をノアに差し出した。
「この地図には、洞窟の場所だけではなく、周辺の地形までかなり正確に記されています。偶然誰かが洞窟を見つけたというより、ある程度調査した人物が残したものだと思われます」
ノアは紙を眺めた。
「つまり、もう誰かに狙われてる?」
「そこまでは断定できません。冒険者が単純に探索していただけかもしれませんし、資源のありそうな場所を記録していた可能性もあります」
「でも、どっちにしても見つかる可能性はあるんだよね」
「はい」
ノアはしばらく黙った。
昨日までは、もっと時間があると思っていた。罠を増やして、魔物を増やして、少しずつ強くなればいい。そんなふうに考えていた。
けれど、ダンジョンという場所に人が来る以上、こちらの都合だけで時間を決めることはできない。
「……今日、もう一回だけ召喚石を使えないかな」
ミレアが少し目を細めた。
「昨日手に入れた魔石を使えば、可能です。ただし、昨日の魔石のうち最も質の高いものを消費することになります」
「それでも、魔物が増えるならやりたい」
「理由を聞いても?」
「今の私たち、二体しかいないから」
ノアはポムとガルドを見る。
ポムは朝から洞窟の隅で跳ね回り、ガルドは昨日渡した簡素な武器を何度も振っていた。どちらも可愛いし、ノアはすでにこの二体を大切に思っている。
だからこそ、危険が迫っているのに何もせずにいることが怖かった。
「一体でも増えれば、できることが増える。もし戦える魔物が出れば、もっと安心できる。それに……」
「それに?」
「召喚石って、何が出るかわからないんでしょ?」
「はい」
「だったら、今度こそすごいのが出るかもしれない」
ノアが笑う。
ミレアは少し考えた。
「……確かに、可能性はあります」
「でしょう?」
「ですが、期待しすぎないでください。昨日のゴブリンのような結果になる可能性も十分にあります」
「ガルドをハズレみたいに言わないでよ」
「そういう意味ではありません。ガルドが弱いという事実を説明しただけです」
「それを世間ではハズレって言うんだよ」
「しかし、ガルドは昨日から一度も逃げずに訓練しています。一般的なゴブリンと比べても、成長意欲は高いようです」
「……そうなんだ」
ノアがガルドを見る。
名前を呼ばれたことに気づいたのか、ガルドは振り向き、胸を張った。
「ガルド!」
「ふふ。じゃあ、ガルドも頑張ってるし、もう一体仲間を増やそう」
ミレアは小さく頷いた。
「わかりました。それでは召喚を行います」
ダンジョンコアが淡い光を放つ。
昨日と同じように、召喚石が魔力を吸い上げていく。ノアはポムを抱き上げたまま、魔法陣の中心を見つめた。
「今度は何が出るかな」
「記録上では、低級魔物の出現率が最も高いです。ですが、稀に特殊個体が――」
「ミレア」
「はい?」
「今日は余計な説明しないで。緊張するから」
「……承知しました」
魔法陣が強く輝いた。
ノアは息を止めた。
光が収束する。
現れたのは――四本の足を持つ、小さな黒い獣だった。
「犬?」
「コボルトです」
ミレアが確認する。
狼に似た顔立ちだが、身体は人間の子供ほどしかない。両手には何も持っておらず、召喚されたばかりのコボルトは周囲をきょろきょろと見回していた。
「……また普通?」
「一般的なコボルトですね」
ノアは少しだけ肩を落とした。
しかし、すぐにしゃがみ込む。
「こんにちは」
コボルトがこちらを見る。
「私はノア。このダンジョンのマスター。あなたの名前をつけてもいい?」
コボルトは不思議そうにノアを見つめている。
ノアは少し考えた。
「……ルゥ」
コボルトの耳がぴくりと動いた。
「ルゥ。どう?」
コボルトは一度だけ首を傾げ、それからノアのところまで歩いてきた。
そして、ノアの手に鼻を近づける。
くん、と匂いを嗅ぐ。
「気に入ってくれた?」
ルゥはノアの手を舐めた。
「……かわいい」
「ノア様、魔物に対する評価が毎回同じですね」
「だってかわいいんだから仕方ないじゃん」
ミレアは呆れたように息を吐いた。
だが、ルゥの鑑定結果を見た瞬間、その表情が変わった。
「……少し待ってください」
「どうしたの?」
「この個体、特殊な技能を持っています」
「え?」
ミレアが表示された情報を確認する。
「【嗅覚強化】。通常のコボルトには存在しない技能です。魔力の痕跡や血液、魔物の匂いをかなり遠くから識別できます」
「それって、すごいの?」
「ダンジョン防衛においては非常に有用です。侵入者の位置を事前に把握できる可能性があります」
ノアの目が輝いた。
「じゃあ、ルゥは当たり?」
「……一般的な個体よりは、明らかに優れています」
「やった!」
ノアはルゥを抱き上げた。
ルゥは驚いたように身体を固くしたが、すぐに尻尾を振り始める。
その様子を見ながら、ミレアは召喚結果をもう一度確認した。
通常のコボルトが出る確率は高い。
しかし、特殊技能を持つ個体が出現する確率は決して高くない。
昨日は一般的なゴブリン。
今日は特殊技能を持つコボルト。
まだ二回しか召喚していない。
偶然と呼ぶには十分な回数だ。
だから、ミレアはまだ何も言わなかった。
ただ、ノアが自分の能力を「運が良い」としか認識していないことについて、少しだけ考えるようになっていた。
「ミレア?」
「はい」
「何か考え事してる?」
「いえ。ルゥの技能を防衛にどう活用するか考えていました」
「そっか。じゃあ、早速試してみよう」
ノアがルゥを床へ下ろす。
「ルゥ。何か匂いがする?」
ルゥは鼻を動かした。
そして、突然入口のほうを向いた。
耳が立つ。
「……何?」
ノアの声が小さくなる。
ルゥは低く唸った。
その直後だった。
洞窟の外から、かすかな音が聞こえた。
人の声。
複数。
ノアの顔から笑みが消える。
「ミレア……」
「はい。聞こえました」
ミレアが入口へ向かう。
ノアもその後ろから近づく。
外の空気に混じって、確かに人の声が聞こえる。
「……この辺りだったと思うんだが」
「地図では間違いない。昨日、袋を落とした場所もこの近くだ」
「本当にダンジョンなんてあるのか? ただの洞窟じゃないのか?」
「入ってみればわかるだろ」
ノアは息を呑んだ。
昨日の革袋。
昨日の地図。
それを探しに来た人間がいる。
しかも一人ではない。
ミレアが静かに振り返った。
「ノア様。どうしますか?」
ノアは入口を見つめた。
まだ罠は少ない。
魔物も三体しかいない。
自分は戦えない。
それでも、昨日とは違う。
ルゥがいる。
ガルドもいる。
ポムもいる。
そして、ここは自分のダンジョンだ。
「……まずは、話を聞こう」
「戦わないのですか?」
「できれば戦いたくない。相手が帰ってくれるなら、そのほうがいいから」
「では、もし攻撃されたら?」
ノアは一瞬だけ黙った。
そして、ポムとガルド、ルゥを見る。
「そのときは……みんなを守る」
声は震えていた。
それでも、逃げるつもりはなかった。
ノアは入口へ向かう。
その直後、三人の冒険者が洞窟の中へ姿を現した。
先頭に立つのは、革鎧を身につけた三十代ほどの男。
その後ろに、若い男と女が続いている。
「……本当に洞窟がある」
「昨日の地図は正しかったな」
「待って。何かいる」
三人の視線が、ノアたちへ向く。
そして、先頭の男が眉をひそめた。
「子供?」
ノアは胸を張った。
怖い。
足が震えている。
それでも、ここで怯えている姿を見せたくなかった。
「ここは私のダンジョンです」
男が目を細める。
「ダンジョン……?」
「はい。だから、勝手に入られると困ります」
「なるほどな」
男は腰の剣に手をかけた。
「だったら、俺たちがこの先へ進むのを止めてみな」
空気が変わった。
ミレアが静かにノアの隣へ移動する。
ガルドが木の棒を構える。
ルゥが低く唸る。
ポムの身体が大きく震えた。
そしてノアは思った。
これが、ダンジョンマスターとして初めて迎える戦いになる。
まだ知らない。
この日、ノアが仕掛けた最初の罠が、彼女自身の想像を遥かに超える結果を生み出すことを。




