第37話 地下に棲むもの
暗闇の中で、赤い二つの目がじっとこちらを見つめていた。ノアは反射的に一歩下がり、ガルドは斧を構えた。レグルを呼ぶこともできる。クロウやセラを呼べば周囲を囲むこともできる。しかし、ノアはすぐにはそうしなかった。ここは自分たちの洞窟の奥にある未知の場所であり、目の前にいる魔物が何者なのかを確認する必要がある。
「ミレア、鑑定できる?」
「試みます」
しばらく沈黙が続いた。赤い目の主は動かない。ただこちらを警戒しているようだった。やがて暗闇の中から、巨大な頭部がゆっくりと姿を現した。犬にも狼にも似ているが、体つきは明らかにそれらより大きい。全身を覆う毛は灰色でところどころ岩のように硬く固まり、額には一本の短い角が生えている。四本の脚は太く、爪が石床に食い込むほど鋭い。
「地下岩獣……と出ました。成体です。危険度は高めですが、レグルほどではありません」
「地下岩獣?」
「洞窟や地下遺跡に生息する魔物です。鉱物や魔石を食べる習性があります」
ノアは少しだけ目を見開いた。
「じゃあ、さっきの魔石は?」
視線を台座へ向ける。そこには魔力をほとんど失った魔石が残っている。
「おそらく、あれを感知して近づいてきたのでしょう」
地下岩獣が低く唸った。
ガルドが前へ出る。
しかし、ノアは手を上げて止めた。
「待って。敵意はあるけど、すぐ襲ってくる感じじゃない」
地下岩獣は台座へ視線を向けたあと、ノアたちへ視線を戻した。鼻を動かし、空気の匂いを確認するように何度か息を吸う。それから、ゆっくりと台座へ近づいていった。
「魔石を食べたいのかな」
「可能性が高いです」
ノアは台座に残っている魔石を手に取った。
地下岩獣の目が魔石を追う。
「これ?」
ノアが魔石を少し持ち上げる。
地下岩獣が一歩進む。
「欲しいなら……」
ノアはそこで考えた。魔石一個くらいなら渡してもいい。しかし、この魔物をそのまま餌付けするのが正しいのかは分からない。何より、ここは自分のダンジョンだ。自然発生した魔物なら、無理に従わせる必要はない。
「これを食べたら、ここから出ていく?」
もちろん地下岩獣は答えない。
「……まあ、聞いても分からないよね」
ノアは魔石を床へ転がした。
ころころと転がった魔石が地下岩獣の前で止まる。地下岩獣はしばらく魔石を見つめていたが、やがて大きな口を開けて一飲みにした。
ゴリッ。
硬い魔石を噛み砕く音が響いた。
「……すごい歯」
地下岩獣の身体に淡い魔力が流れる。傷があったのか、肩のあたりに残っていた古い傷跡が少しずつ薄くなっていく。
「回復した?」
「魔石を栄養源として吸収したようです」
地下岩獣は満足したのか、唸り声を低くすると、台座の横へ移動した。そしてその場で身体を丸める。
「……寝るの?」
「そのようです」
「ここが巣なのかな」
ノアは周囲を見渡した。よく見ると、台座の近くには古い骨や鉱石の欠片が散らばっている。どうやらこの場所は以前から地下岩獣の寝床だったらしい。ノアたちが装置を起動したことで魔力が流れ、その変化を感じ取って姿を現したのだろう。
「じゃあ、ここはこの子の場所にしよう」
「よろしいのですか?」
「うん。無理に仲間にする必要はないよ。洞窟の中に住んでくれるなら、それだけでも防衛にはなるし」
ノアが近づくと、地下岩獣は片目だけを開けた。警戒しているようではあるが、襲ってくる様子はない。
「名前も付けないよ」
ノアは苦笑する。
「今いる精鋭たちだけでも管理が大変なのに、自然発生した魔物まで一匹ずつ名前を付けてたら大変だからね」
「合理的な判断です」
ノアは踵を返した。
「戻ろう。ここが安全なら、しばらく様子を見ればいい」
ガルドも武器を下ろした。
ところが、そのときだった。
地下岩獣が突然顔を上げた。
「……?」
次の瞬間、低い唸り声が地下施設全体へ響き渡る。
「何?」
ノアが振り返る。
地下岩獣は台座の奥にある壁を睨んでいた。
ガルドもそちらを見る。
ノアには何も見えない。しかし、地下岩獣は明らかに何かを感じ取っている。
「ミレア、何かいる?」
「魔力反応はありません」
「じゃあ、匂い?」
「その可能性があります」
地下岩獣が立ち上がった。
そして壁へ近づき、鼻を押しつける。
ドンッ。
壁を頭で叩いた。
「ちょっと!」
ノアが驚く。
もう一度。
ドンッ!
古い壁に亀裂が走った。
「壊れるんじゃない?」
ノアが止めようとした瞬間、ポヨンが地下岩獣の足元へ転がっていった。
「ポヨン?」
ポヨンは地下岩獣の前で止まり、そのままぷるぷると身体を揺らす。
地下岩獣がポヨンを見る。
ポヨンも地下岩獣を見る。
しばらく妙な沈黙が続いた。
そして地下岩獣が壁へ向き直った。
「……何だったんだろう」
ノアが呟いた直後、ポヨンが地下岩獣の後ろから壁へ体当たりした。
「ぷるっ!」
ポヨンの身体が跳ね返る。
しかし、その衝撃で壁の亀裂が一気に広がった。
「え?」
ガラガラガラッ!
壁の一部が崩れ落ちる。
ノアが慌てて後ろへ下がる。
「危ない!」
土煙が舞い上がる。
しばらくして煙が晴れると、崩れた壁の向こうに細い通路が現れていた。
「……隠し通路?」
ミレアが確認する。
「人工的に作られたものです。かなり古いですが、通路としての構造は維持されています」
ノアは目を輝かせた。
「こんなのあったんだ」
先ほどまで壁だった場所の向こうには、さらに地下へ続く階段がある。階段の両脇には古びた石灯籠のようなものが並び、その奥には薄暗い青い光が見えていた。
「まだ地下があるんだ……」
ノアは一歩踏み出しかけた。
しかし、ガルドが腕を伸ばして止める。
「どうしたの?」
ガルドは階段の先を指差した。
そこには、巨大な爪痕が残っていた。
一つではない。
何本もの爪痕が、壁から床へ続いている。
ノアは黙った。
「……さっきの地下岩獣がつけたものじゃないね」
「はい。大きさが合いません」
ミレアの声が少し低くなる。
「さらに奥に、別の大型魔物がいる可能性があります」
ノアは階段の先を見つめた。
今すぐ調べることもできる。
だが、ここはまだ自分たちが把握していない領域だ。無理に進めば、せっかく育ってきたダンジョンの戦力を危険にさらすことになる。
「今日はここまで」
ノアは踵を返した。
「入口を塞ぐ必要はないけど、誰でも入れる状態にはしない。セラに見張ってもらおう」
「承知しました」
「それと、この場所に住んでる地下岩獣も刺激しないようにしよう」
地下岩獣はすでに台座の横で丸くなっている。
ノアは少し笑った。
「洞窟って、掘って広げなくても勝手に広がっていくんだね」
地上へ戻る途中、自然発生したスライムが通路を横切り、ゴブリンたちが騒がしく何かを運んでいるのが見えた。以前はただの空洞だった場所が、今では様々な魔物の生活する場所になっている。
ノアはその光景を眺めながら、少しだけ胸を張った。
「うん。ちゃんとダンジョンになってきた」
その夜、ノアが寝床へ戻ると、ポヨンが先に布の上で丸くなっていた。
「……疲れたの?」
ポヨンは眠そうに身体を揺らす。
「今日は壁まで壊したからね」
「ぷる……」
「明日は絶対、変なところに突っ込まないでよ」
「ぷる」
ノアは笑いながらポヨンを横へ転がした。
地下深くでは、古い隠し通路の先で、青白い光が静かに灯っている。
洞窟の新しい一日が始まろうとしていた。




