第27話 謎の店と「魔力を育てる土」
店の中へ一歩入った瞬間、ノアは自分が本当に洞窟の中にいるのか分からなくなった。さっきまで聞こえていた洞窟の湿った空気も、遠くで鳴いていた魔物たちの声も、扉を境にして完全に消えている。代わりに漂っているのは、乾いた木材と薬草、それから少し甘い香りだった。店内はそれほど広くない。それなのに、棚には数え切れないほどの商品が並んでいる。小瓶に入った液体、奇妙な形の種、金属製の歯車、何に使うのか分からない石、古びた本、乾燥させた植物、そして一見するとただの石ころにしか見えないものまで、どの商品にも小さな値札が付いていた。
ノアは入口に立ったまま、しばらく動けなかった。
「……本当に店なんだ」
「そのようですね」
ミレアも警戒しているらしく、いつもの軽い調子ではない。
カウンターの奥にいる店主は、黒いローブのような服を着ていた。顔は薄暗くてよく見えない。人間なのか、それとも別の種族なのかも分からない。ただ、声だけは妙に穏やかだった。
「どうぞ、ゆっくりご覧ください。商品を見るだけなら無料です。気に入ったものがあれば、お買い上げいただけます」
「……お金は?」
「もちろん必要です」
ノアが少し安心した。
「じゃあ普通のお店なんだ」
「普通かどうかは、お客様の判断にお任せします」
その答えを聞いて、ノアは逆に不安になった。
「やっぱり普通じゃないじゃん……」
店主は小さく笑った。
ノアは警戒しながら棚を見て回る。最初に目についたのは、小さな青い瓶だった。中には水のような液体が入っている。
値札には、こう書かれていた。
『一日だけ、とても美味しい水になる薬 銀貨三枚』
「……とても美味しい水になる薬?」
「はい」
「普通の水が?」
「使用者が飲んだ水だけ、一日ほど非常に美味しく感じられるようになります」
「いらないかな……」
次に見つけたのは、小さな木箱だった。
『寝癖を完全に消す櫛 銀貨五枚』
「これは便利そう」
「ノア様、ダンジョンに寝癖を気にする必要がありますか?」
「……ないね」
さらに奥へ進む。
『絶対に迷わない靴下 銀貨八枚』
「靴じゃないんだ」
『三時間だけ鳥に嫌われなくなる香水 銀貨十枚』
「使い道が分からない……」
『一度だけ転んでも痛くない石 銀貨二枚』
「これはちょっと欲しい」
「ノア様、なぜですか?」
「ダンジョンって転びそうだから」
「もっと根本的な対策をしてください」
ミレアとのやり取りを聞いていたのか、店主がカウンターの奥で笑った。
「お客様は面白い方ですね」
「そうかな?」
「ええ。普通の方なら、もっと強力な道具を探します。ところがお客様は、妙なものばかり気にしている」
「だって、強そうなものって怖いじゃん」
ノアは棚の一角へ視線を向けた。
そこには、明らかに他の商品とは雰囲気の違う黒い瓶が置かれていた。
値札には、
『飲めば一時的に魔力が十倍になる薬 金貨五枚』
と書かれている。
「……これとか、絶対危ないでしょ」
「危険です」
店主が即答した。
「え?」
「魔力が十倍になるだけですので、魔力を制御できない方が飲めば、身体が耐えられません」
「やっぱり危ないじゃん!」
「だからこそ注意書きを付けています」
「注意書きがあれば何でも売っていいわけじゃないと思うけど……」
ノアは苦笑しながら、さらに棚を見ていった。
そして、最初から気になっていた商品へ戻る。
『魔力を育てる土』
木箱の中に、黒に近い紫色の土が入っている。見た目は普通の土だが、近づくと微かな魔力を感じる。
「これ……本当に魔力が増えるの?」
「正確には、魔力を蓄える植物を育てるための土です」
店主が説明する。
「この土自体が魔力を生み出すわけではありません。周囲の魔力を吸収し、植物へ蓄えさせる性質があります。その植物を加工すれば、魔力回復薬や魔力結晶の代用品を作ることもできるでしょう」
ノアの目が輝いた。
「魔力結晶の代用品?」
「はい。ただし、純粋な魔力結晶ほどの効率はありません」
「でも、配合炉に使える?」
「使い方次第では」
ノアは木箱を見つめた。
これは欲しい。
今の洞窟に必要なのは、まさに魔力を安定して確保する方法だった。配合炉を作るには魔力結晶が必要で、ダンジョンの防衛設備にも魔力が必要になる。魔物を召喚するにも、罠を作るにも、魔力は欠かせない。
「いくら?」
「銀貨三十枚です」
「高い……」
ノアの肩が落ちる。
現在持っているお金を確認すると、昨日の冒険者たちから回収したものを合わせても銀貨二十七枚しかない。三枚足りない。
「あと三枚……」
ノアが財布を覗き込む。
店主は何も言わない。
「何か売れるものは?」
「もちろんございます」
店主は別の棚を指した。
「魔物の素材、薬草、魔石、珍しい鉱石。価値のあるものなら買い取ります」
「じゃあ……」
ノアは昨日の戦闘で手に入れた魔石を取り出した。
小さな魔石が数個。
店主が一つずつ確認する。
「これなら銀貨六枚です」
「えっ、そんなに?」
「品質が良いので」
ノアは少し考えた。
「じゃあ、これを売って……」
銀貨三十枚を揃える。
店主が木箱をカウンターへ置いた。
「お買い上げありがとうございます」
ノアは財布から銀貨を取り出し、木箱を受け取った。
その瞬間だった。
店主が、少しだけ声を低くした。
「一つだけ忠告しておきましょう」
「何?」
「その土は、魔力の濃い場所で使ってください」
「どうして?」
「普通の土と同じ感覚で大量に使えば、植物は育ちません」
「……それだけ?」
「いいえ」
店主が続ける。
「魔力を吸収しすぎた植物は、普通の植物ではなくなります」
ノアの顔が引きつった。
「どうなるの?」
「それは育て方次第です」
「……怖いこと言わないでよ」
「私は事実をお伝えしているだけです」
ノアは木箱を抱え直した。
どう考えても、これは便利なアイテムである一方、扱いを間違えると厄介なことになる。
だが、今のノアには必要だった。
「分かった。気をつける」
「それがよいでしょう」
ノアが店を出ようとしたとき、棚の奥に小さな袋が置かれているのが目に入った。
値札には、
『幸運草の種 一袋・銀貨一枚』
と書かれている。
「……幸運草?」
ノアが足を止めた。
店主がこちらを見る。
「珍しいものではありません。育てれば、四つ葉のような葉を持つ植物になります」
「何か効果があるの?」
「食べれば、少しだけ運が良くなると言われています」
ノアは袋を見る。
銀貨一枚。
今なら買える。
「……買う」
即答だった。
店主が袋を渡す。
「よい選択です」
「本当に?」
「ええ」
その瞬間、店主が初めて意味深に笑ったような気がした。
ノアはその理由を深く考えなかった。
そして扉をくぐり、洞窟へ戻る。
振り返ると、そこにはいつもの岩壁しかなかった。
「……消えた」
「はい」
ミレアが確認する。
「完全に消失しています」
ノアは木箱と種袋を抱えたまま、しばらく壁を見つめていた。
「不思議な店だったね」
「はい。ですが、手に入れたものは有用です」
「まずは土を使ってみよう」
ノアは洞窟の奥へ向かった。
魔力が比較的濃い場所を探し、木箱を開ける。紫色の土を少量だけ取り出し、岩陰の一角へ慎重に撒いた。
そこへ幸運草の種を一粒。
さらに水を与える。
「これで育つかな?」
「しばらく様子を見る必要があります」
ノアはその場を離れた。
だが、その数時間後。
小さな芽が出た。
「え?」
ノアは思わず駆け寄った。
「早すぎない?」
「通常の植物ならあり得ない速度です」
芽はさらに伸びていく。
数時間前には何もなかった場所に、茎が伸び、葉が開いていく。
そして夜になる頃には、拳ほどの大きさにまで成長していた。
「……すごい」
ノアが目を輝かせる。
ところが、そこでミレアの声が響いた。
「ノア様」
「何?」
「その植物から、魔力反応が急激に増加しています」
「え?」
ノアが植物を見る。
葉の周囲に、淡い光が集まっている。
そして、その光を吸い込むように植物の根が周囲へ伸び始めた。
「ちょっと待って」
ノアが後退する。
「これ……大丈夫?」
根が岩の隙間へ入り込む。
さらに伸びる。
一本。
二本。
十本。
やがて植物の根は、洞窟の壁にまで到達した。
ミレアが珍しく焦った声を出した。
「ノア様。これは想定以上です」
「やっぱり?」
「魔力を吸収しています」
「どれくらい?」
「周辺の魔力を、通常の植物の数十倍の速度で」
ノアは青ざめた。
「……店主の言ってた意味、分かった」
魔力を育てる土。
便利なアイテムだった。
ただし、使い方を間違えれば――。
ダンジョンそのものの魔力を吸い尽くす可能性がある。
ノアは慌てて植物へ駆け寄った。
「止まって! それ以上吸わないで!」
もちろん植物は言葉を聞かない。
そのとき、植物の先端に小さな実が一つ膨らみ始めた。
ノアはそれを見て、嫌な予感がした。
「……これ、何ができるの?」
ミレアが鑑定する。
そして数秒後。
「……魔力結晶に近い性質を持つ実です」
ノアの目が見開かれた。
「じゃあ成功?」
「ただし、現在もダンジョンの魔力を吸収しています」
「……」
ノアは実とダンジョンコアを交互に見る。
「便利なんだけど……面倒なもの買っちゃったなぁ」
その頃、洞窟の入口では、誰にも気づかれないまま一匹の小さな魔物がこちらを見ていた。
丸い身体。
短い手足。
妙に大きな目。
そして、ノアが育てている植物を見つめながら、口元をにやりと歪めている。




