第20話 バルガが恐れていたもの
昼を過ぎた頃、洞窟のダンジョンには奇妙な緊張感が漂い始めていた。ノアは入口付近に作ったばかりの分岐通路を確認し、クロウとルゥには周辺の警戒を頼み、モラとポムには保管している素材の整理を任せていた。ガルドは新しく広げた通路の岩盤を確認し、バルガは奥の広間で身体を休めている。生まれたばかりのルナはというと、そのバルガの背中を気に入ったらしく、今日も巨大な身体の上で丸くなっていた。
見た目だけなら、平和な一日だった。
だが、バルガだけは違った。
突然、巨大な身体を起こした。
「バルガ?」
ノアが振り返る。
バルガは入口の方向を見つめていた。耳が立ち、鼻先が小刻みに動いている。普段なら多少の物音では動じない巨体が、明らかに何かを警戒していた。
「何かいるの?」
バルガが低く唸る。
ルナも目を覚ました。
「にゃ?」
その瞬間だった。
洞窟の外から、地面を引きずるような音が響いた。
ズ……ズズ……。
ノアは息を止めた。
クロウが入口へ走る。ルゥもその後を追う。ミレアがダンジョンコアを通して外部の魔力を確認した。
「ノア様。外部から強力な魔力反応です」
「どれくらい?」
「正確な測定ができません。ですが……バルガより強い可能性があります」
ノアの顔から笑みが消える。
「バルガより?」
「はい」
バルガはすでに入口へ向かっていた。
「待って!」
ノアが駆け寄る。
「一人で行かないで。ここで迎え撃とう」
バルガはノアを見た。
それから、ゆっくりと首を横に振る。
「……嫌なの?」
バルガが低く唸った。
恐怖。
ノアは、その感情を初めてはっきりと感じ取った。
あれほど巨大で、冒険者が何人束になっても簡単には倒せないような魔物が怯えている。
「バルガが怖がる相手って……」
言葉の続きを口にする前に、入口の向こうで木が倒れた。
轟音。
続いて、巨大な影が姿を現した。
四本の足。
灰色の皮膚。
背中には黒い棘が無数に生えている。
頭部には大きな口が一つしかなく、その口からは粘ついた唾液が地面へ落ちていた。
ノアは思わず後退した。
「……何、あれ」
ミレアが鑑定を試みる。
「種族名、グラトニー・ベア。推定危険度……高位魔獣」
「ベア?」
「名前にベアとありますが、一般的な熊型魔物とは別系統です。特徴は異常な食欲と、極めて高い再生能力。魔力を含んだ生物を好んで捕食します」
グラトニー・ベアの目が洞窟の奥を向いた。
その視線の先にいるのは――バルガ。
「まさか……」
バルガが唸り声を上げた。
グラトニー・ベアが口を開く。
咆哮が洞窟を揺らした。
「来る!」
クロウが飛び出す。
鋭い牙がグラトニー・ベアの脚へ食い込んだ。しかし、敵はほとんど反応しない。巨大な前脚を振り払うだけで、クロウの身体が壁へ叩きつけられた。
「クロウ!」
ガルドが前へ出る。
巨大な拳がグラトニー・ベアの顔面を打ち抜いた。
ズガン!
巨体が僅かに揺れる。
しかし、それだけだった。
「嘘……」
ノアの背筋を冷たいものが走る。
バルガが突進した。
巨大な角がグラトニー・ベアの腹部へ突き刺さる。
今度こそ敵の身体が大きく吹き飛んだ。
だが、地面を転がったグラトニー・ベアは、すぐに起き上がった。
腹部から流れていた血が、見る間に止まっていく。
「再生してる……」
「はい。しかも先ほどより回復速度が上がっています」
「そんなの、どうやって倒すの?」
ノアが叫ぶ。
ミレアが答えるより先に、グラトニー・ベアが再び突進してきた。
速い。
巨体からは想像できない速度だった。
「避けて!」
クロウが横へ飛ぶ。
ガルドも身体をずらす。
バルガだけは真正面から受け止めた。
衝撃で地面が砕ける。
「バルガ!」
押し負けている。
バルガの足が少しずつ後ろへ滑っていく。
このままでは危ない。
「何かないの?」
ノアは周囲を見回した。
そこで、ふと気づいた。
先ほどダンジョンを改造した際、入口付近の床に妙な凹凸があった。
「……あれ?」
「どうしました?」
「ここ、まだ岩盤が安定してない」
ノアが足元を見る。
昨日、通路を広げるために掘削した場所だ。
完全には固まっていない。
「ミレア! この床、崩せる?」
「可能ですが、グラトニー・ベアの位置が少し問題です。そこへ誘導する必要があります」
「じゃあ、誘導する!」
ノアが叫んだ。
「ガルド、右!」
ガルドが動く。
拳を振り、グラトニー・ベアの注意を引く。
クロウが反対側から噛みつく。
ルゥが横から走り抜け、敵の視線を散らす。
だが、敵はしぶとかった。
クロウを振り払い、ガルドを押しのける。
そしてノアへ向かって突進してきた。
「えっ……」
足が動かない。
恐怖で身体が固まった。
グラトニー・ベアの巨大な口が開く。
その瞬間――。
「にゃっ!」
頭上からルナが飛び降りた。
「ルナ!?」
黒い小さな身体が、グラトニー・ベアの顔面へ直撃する。
当然、攻撃力はほとんどない。
だが、敵は一瞬だけ目を閉じた。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
バルガが横から突っ込んだ。
角がグラトニー・ベアの身体を弾き飛ばす。
巨体が地面を転がる。
そして――。
ズドン!
ノアが立っていた場所のすぐ前で、床が崩れ落ちた。
「え?」
グラトニー・ベアの前脚が穴へ落ちた。
さらに身体の重みがかかる。
バキバキッ、と岩盤が砕けた。
巨大な身体が一気に沈む。
「今!」
ノアが叫ぶ。
ガルドが走った。
クロウも飛び込む。
バルガが角を構える。
三体の攻撃が同時に叩き込まれた。
グラトニー・ベアの身体が、崩れた岩盤の下へ落ちていく。
さらに上から大量の岩が落下した。
轟音。
地面が揺れる。
しばらくして、静かになった。
「……倒した?」
ノアは恐る恐る近づいた。
瓦礫の隙間から、グラトニー・ベアの身体が見える。
動かない。
ミレアが鑑定する。
「生命反応……ありません」
「本当に?」
「はい。死亡しています」
ノアは大きく息を吐いた。
「……勝った」
クロウが傷だらけの身体を起こす。
ガルドも拳を下ろす。
バルガは荒い息を吐きながら、グラトニー・ベアの死骸を見つめていた。
そして、その目から明らかに恐怖が消えていく。
「バルガ」
ノアが近づく。
「もう大丈夫だよ」
バルガはノアを見た。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
ノアがその額に触れる。
「……それにしても」
ノアは瓦礫を見る。
「私、最後ほとんど何もしてないよね」
ミレアが静かに答えた。
「いいえ。ノア様がダンジョンを改造していなければ、あの床は崩れませんでした。クロウたちが敵を誘導し、バルガが吹き飛ばし、ルナが一瞬だけ敵の視界を奪い、最後に岩盤が崩れた。すべてが繋がった結果です」
「……それって」
ノアはルナを見る。
黒猫は何事もなかったように毛づくろいをしていた。
「もしかして、運が良かった?」
「かなり良かったと思います」
「そっか」
ノアは笑った。
だが、彼女はまだ知らなかった。
今回の勝利によって、ダンジョンには初めて本格的な魔物の死体が運び込まれたことを。
そして、その死体から取れる素材の中に――召喚石の材料として使える、極めて珍しい魔力核が存在していることを。
ノアの幸運は、戦いに勝たせただけではなかった。
次の幸運を引き寄せるための素材まで、すでに彼女の目の前へ転がり込んでいた




