第2話 召喚されたのは、ハズレのはずだった
魔法陣の光が完全に消えるまで、ノアはその場から動けなかった。
薄暗い洞窟の中に残されたのは、召喚されたばかりの小さな魔物と、呆然と立ち尽くす少女、それから魔物の正体を確認しようとしている補佐精霊の姿だった。
最初に動いたのはミレアだった。
「……ノア様。召喚結果を確認します」
「う、うん」
ミレアが魔物の前まで飛んでいく。
召喚された魔物は、二本の足で立っていた。身体は小さい。全長はノアの膝ほどしかなく、灰褐色の肌に大きな耳、少し尖った鼻を持っている。腰には粗末な布を巻き、手には短い木の棒を握っていた。
どう見ても、強そうには見えない。
むしろ――。
「ゴブリン?」
「はい。一般的なゴブリンです」
ミレアは淡々と答えた。
「召喚石の結果としては、極めて一般的ですね。希少性もありません。戦闘能力も低く、単独では冒険者一人を相手にすることすら難しいでしょう」
「……つまり?」
「大当たりではありません」
「だよね」
ノアは肩を落とした。
もちろん、最初から強力な魔物が出るとは思っていなかった。召喚石を使う前にミレアから説明も受けている。低級魔物が出る可能性のほうがずっと高い。
それでも、心のどこかでは期待していた。
もしかしたら、ものすごく強い魔物が出るかもしれない。
ドラゴンとか。
巨大な狼とか。
魔法を使える高位魔族とか。
そんな期待をしていたからこそ、目の前の小さなゴブリンを見ると、少しだけ残念な気持ちになる。
だが、ノアはすぐに頭を振った。
「でも、ゼロじゃないんだよね」
「はい?」
「何も出なかったわけじゃない。ゴブリンが一体増えたんだから、ちゃんと戦力にはなる」
ノアはゴブリンの前にしゃがみ込んだ。
「こんにちは。怖くないよ」
ゴブリンは警戒するようにノアを見る。
小さな身体を少し震わせながら、手にした木の棒を握り直した。
「……やっぱり怖がってるね」
「召喚されたばかりですから。自分がどこにいるのかも理解できていないのでしょう」
ミレアがそう説明する。
ノアはゴブリンと視線を合わせたまま、少し考えた。
「名前、つけていい?」
「もちろんです」
「じゃあ……ガルド」
ゴブリンが目を瞬かせた。
「ガルド。今日からあなたの名前」
「……ガ、ルド?」
「そう。ガルド」
ゴブリンは何度か口を動かした。
そして、胸に手を当てる。
「ガルド」
「うん」
「ガルド!」
今度ははっきりと自分の名前を口にした。
ノアの顔に笑みが浮かぶ。
「気に入ってくれたみたい」
「どうやら、そのようですね」
ミレアも少しだけ表情を和らげた。
それから彼女は、ガルドを観察する。
「しかし、問題はこれからです」
「問題?」
「はい。現在のダンジョンには魔物が二体しかいません。ポムとガルドです。どちらも低級種で、戦闘能力は高くありません。もし本当に冒険者が侵入してきた場合、正面から戦えば勝てる可能性は低いでしょう」
その言葉を聞いて、ノアの表情から笑みが消えた。
「……やっぱり、冒険者って来るんだ」
「ダンジョンである以上、可能性は高いです」
「どれくらい?」
「明日かもしれませんし、一年後かもしれません。ただ、この規模のダンジョンであれば、冒険者に発見される可能性そのものは決して低くありません」
「じゃあ、今のうちに準備しないと」
「そういうことです」
ミレアは本を開いた。
「現在のダンジョンポイントは三十二。最低限の設備を一つ設置できる程度です」
「三十二……。それって多いの?」
「少ないです」
「即答なんだ」
「事実ですから」
ノアは少しだけ唸った。
「じゃあ、何を作るべき?」
「私なら罠を推奨します。直接戦闘よりも、まずは侵入者の動きを制限するべきです」
「罠か……」
ノアは洞窟の通路を見る。
確かに、今のままでは何もない。
一本道を歩いてくる冒険者を止める手段が存在しない。
「でも、罠を作ってもポムやガルドまで引っかからない?」
「種類によります。ダンジョンに登録された魔物は、一定の条件下では罠の影響を受けません」
「へえ」
ノアは通路を見つめながら考えた。
「だったら、入口の近くに罠を置くんじゃなくて、奥に誘導するようにしたほうがいいかも」
「……続けてください」
「冒険者が入ってきたとき、最初から罠があるってわかったら警戒するでしょ。でも、何もないと思わせて奥まで進ませたら、そこで罠を使える。ポムやガルドが逃げられる場所も作っておきたい」
ミレアは黙って聞いている。
「それと、戦う場所も必要だよね。狭い場所なら数が多いほうが有利だし、逆に広い場所なら相手の動きを制限できるかもしれない。今は二体しかいないから、正面から戦うんじゃなくて、逃げながら時間を稼ぐほうがいいと思う」
ノアはそこで言葉を切った。
「……どうかな?」
「非常に合理的です」
「本当?」
「はい。少なくとも、現状で可能な範囲では良い判断だと思います」
ミレアは少し意外そうにノアを見る。
「正直に申し上げると、私はノア様がもっと無謀な判断をすると思っていました」
「私だって死にたくないからね。戦えないなら、戦わなくていい方法を考えるしかないでしょ」
「……なるほど」
ミレアが静かに頷いた。
ノアはその反応を見て、少しだけ安心した。
自分には特別な力がない。
そう思っていた。
けれど、何もできないわけではない。
考えることくらいならできる。
それなら、生き残るためにできることを一つずつやればいい。
そう考えたところで、ノアはふと気づいた。
「ねえ、ミレア」
「何でしょう?」
「私の幸運って、具体的には何ができるの?」
ミレアの手が止まった。
「……正確なところは、私にもわかりません」
「わからない?」
「はい。ダンジョンコアに記録されている能力情報は【超幸運】という名称と、ごく簡単な説明だけです。能力の発動条件や効果範囲については、実際に経験しながら確認する必要があります」
「じゃあ、試してみる?」
「どうやってですか?」
「運がいいかどうかを」
「それは能力の検証としては、かなり難しいと思います」
「でも、やってみないとわからないよ」
ノアは周囲を見渡した。
そして、ふと足元に落ちていた小さな石を拾った。
「表が出たら、今日は幸運」
「その程度のことで能力が検証できるとは思えませんが……」
「いいの。気分の問題だから」
ノアは石を指で弾いた。
石はくるくると回転しながら宙を舞う。
そして――。
床に落ちた。
普通の石だ。
当然、表も裏もない。
「……」
「……」
ノアとミレアが石を見る。
「これ、失敗じゃない?」
「少なくとも、幸運の検証にはなっていませんね」
「だよね」
ノアは苦笑した。
そのときだった。
ポムが突然、石に近づいた。
「ぷるっ」
身体を伸ばして石を押す。
ころり。
石が転がった。
そして、その石は偶然にも洞窟の床にあった小さな亀裂へ入り込んだ。
「……あれ?」
ノアがしゃがみ込む。
石を追って亀裂を覗き込んだ。
すると、その奥から微かな光が漏れている。
「ミレア。ここ、何かある」
「え?」
ミレアが飛んでくる。
二人で周囲を確認すると、岩壁の一部に不自然な隙間があった。
ノアが手をかける。
ぐらり、と岩が動いた。
「これ……動くよ」
「隠し通路?」
力を込めて押す。
岩がゆっくりと横へずれ、その奥に小さな空間が現れた。
そこには、古びた木箱が一つ置かれていた。
「……何これ」
「待ってください」
ミレアがノアを制止する。
「罠の可能性があります」
「そっか」
ノアは一歩下がった。
ミレアが魔力を飛ばして確認する。
しばらくして、彼女は首を横に振った。
「罠はありません」
「じゃあ、開けてみよう」
「慎重にお願いします」
ノアが木箱を開ける。
中に入っていたのは、数個の魔石だった。
しかも、そのうち一つは明らかに他のものより大きく、強い魔力を放っている。
ミレアの目が見開かれた。
「……これは」
「すごいの?」
「高品質の魔石です。今のダンジョンポイントに換算すれば、かなりの量になります」
ノアは魔石を見つめた。
さっきまで三十二しかなかったダンジョンポイント。
それが一気に増える。
これなら罠を作れる。
部屋も拡張できる。
もしかすると、もう一つ召喚石を手に入れられるかもしれない。
「……私、運がいいのかな」
ノアが呟く。
ミレアは答えなかった。
代わりに、床に転がっている小さな石を見た。
ノアが投げた石。
ポムが押した石。
偶然、亀裂へ入り込んだ石。
その結果、誰も存在を知らなかった隠し部屋が見つかった。
「……偶然、でしょうね」
「だよね」
ノアは笑った。
「じゃあ、今日は本当に運がいい日なんだ」
「……そういうことにしておきましょう」
ミレアはそう答えた。
しかし、その表情にはわずかな疑念が残っていた。
ノアはまだ知らない。
このダンジョンには、彼女が思っている以上に多くの秘密が眠っている。
そしてその秘密を見つけるたびに、彼女の幸運は世界の常識を少しずつ壊していくことになる。
その日の夜。
ノアは手に入れた魔石を眺めながら、初めてダンジョンマスターらしい笑顔を浮かべた。
「よし。明日は、もっと強いダンジョンにしよう」
その隣で、ポムが嬉しそうに跳ねる。
「ぷるっ!」
ガルドも胸を張った。
「ガルド!」
ミレアは二人と一匹を見ながら、小さく息を吐く。
まだ何も始まっていない。
けれど――。
確かに、この小さなダンジョンには今日、新しい一歩が刻まれていた。




