第1話 運だけは自信があります
目を覚ましたとき、ノア・フェルゼンは、自分が死んだことを理解していた。
不思議なことに、恐怖はなかった。最後に見たものも、最後に聞いた音も、今では妙に遠い記憶になっている。死ぬ瞬間というものは、もっと劇的なものだと思っていたのに、実際には拍子抜けするほどあっさりしていた。
ただ、問題はその後だった。
目を開けると、そこには見覚えのない天井があった。石造りの天井だ。しかもかなり低い。手を伸ばせば届きそうなほど近く、湿った空気には土と苔の匂いが混じっている。
「……ここ、どこ?」
ノアはゆっくりと上体を起こした。
身体に痛みはない。むしろ以前より軽い気がする。視界も妙に鮮明で、薄暗いはずの周囲が意外なほどよく見えた。
壁は荒削りの岩肌。床は土。部屋の隅には何かの根が這い、天井からは細い水滴が落ちている。
どう考えても、自分の知っている場所ではない。
「夢……じゃないよね」
「夢ではありません」
突然、すぐ横から声がした。
「ひっ!」
ノアは飛び上がり、反射的に後ろへ下がった。
そこにいたのは、小さな女の子だった。
身長はノアの腰ほどしかない。淡い銀色の髪に、薄紫色の瞳。背中には半透明の羽があり、その身体はわずかに宙へ浮いている。服装はどこか古風な白いワンピースで、両手には分厚い本を抱えていた。
少女は驚く様子もなく、ノアをじっと見つめている。
「……驚かせてしまいましたか?」
「いや、驚かせたとかいうレベルじゃないよ! 空飛んでる女の子がいきなり隣にいたら誰だって驚くよ!」
「なるほど。では、今後は少し離れた場所から声をかけることにします」
「そこだけ直せばいいのかな……」
少女は本を閉じた。
「私はミレア。ダンジョンコアに付属する補佐精霊です。そして、あなたはノア・フェルゼン。これからこのダンジョンの管理者となります」
「……ダンジョン?」
「はい」
「私が?」
「はい」
「どうして?」
「それについては、いくつか説明が必要です。ただ、その前に一つ確認させてください」
ミレアは少しだけ首を傾けた。
「ノア様は、ご自分が一度死亡したことを覚えていますか?」
その言葉で、胸の奥に眠っていた記憶が一気に蘇った。
自分がいた場所。
最後に見た景色。
そして、そこで途切れた人生。
「……うん。覚えてる」
「では、話が早くて助かります。この世界では、あなたは新たな生を得ました。転生という言葉が最も近いでしょう」
「異世界転生ってこと?」
「はい」
「……本当にあるんだ」
ノアは呆然と呟いた。
物語の中では何度も見た。死んだ主人公が異世界へ転生し、特別な能力を授かって、あっという間に成功していく。自分も似たような状況なのだと理解すると、少しだけ胸が高鳴った。
もしかすると、自分にも何か特別な力があるのではないか。
そんな期待を抱きながら、ノアはミレアを見る。
「それで、私の能力は?」
「確認します」
ミレアが本を開く。
しばらくページをめくっていたが、やがて小さく頷いた。
「固有能力は一つです」
「何?」
「【超幸運】です」
「……幸運?」
「はい。運が良くなります」
あまりにも簡潔な説明だった。
「それだけ?」
「それだけです」
「いやいや、待って。もっとこう、火の魔法とか、無限収納とか、時間停止とか、そういうのは?」
「ありません」
「剣の才能は?」
「ありません」
「魔法の才能は?」
「一般的な人間と同程度です」
「身体能力は?」
「普通です」
「……私、ダンジョンマスターなんだよね?」
「その通りです」
「なのに、戦えないの?」
「現状では」
ノアはしばらく黙った。
そして、両手で顔を覆った。
「これ、結構まずくない?」
「私もそう思います」
即答だった。
ミレアがここまで素直に同意してくるとは思わず、ノアは顔を上げた。
「そこは励ましてよ」
「事実を隠して安心させるより、現状を正確に把握していただいたほうが生存率は上がります」
「……すごく正しいことを言われてる気がする」
「その認識で問題ありません」
ノアは深く息を吐き、周囲を見渡した。
自分が管理することになったダンジョン。
改めて見ると、かなり小さい。
広さはせいぜい数十平方メートル。部屋らしい部屋は一つだけで、そこから細い通路が一本伸びている。通路の先には小さな空間があるようだが、まだ何も配置されていない。
宝箱もない。
罠もない。
当然、立派な城などあるはずもない。
「……本当にここがダンジョン?」
「はい。現在の規模は非常に小さいですが、間違いなくダンジョンです」
「魔物は?」
「一体です」
「一体だけ?」
「一体だけです」
「何がいるの?」
ミレアは部屋の隅を指差した。
「そちらです」
ノアが目を向ける。
そこには、半透明の身体をした小さな魔物がいた。
丸い。
そして、ぷるぷるしている。
「……スライム?」
「はい。現在、このダンジョンに登録されている唯一の魔物です」
スライムはノアに気づくと、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
ぽよん。
ぽよん。
そしてノアの足元で止まる。
「……かわいい」
思わず口元が緩んだ。
ノアがしゃがみ込むと、スライムも身体を少しだけ伸ばした。まるでこちらを見上げているように見える。
「この子、名前は?」
「ありません」
「じゃあ、つけてもいい?」
「もちろんです。ダンジョンマスターには、登録魔物への命名権があります」
ノアは少し考えた。
そして、スライムを指で軽くつつく。
「ポム」
ぷるん、と身体が揺れた。
「今日からあなたはポムね」
スライムが嬉しそうに跳ねた。
「ぷるっ!」
「……かわいい」
「ノア様。今のところ、ダンジョン運営に必要な設備はほとんどありません」
「わかってる。でも、まず名前くらいはつけてあげたいじゃん」
「その考え方自体は否定しません」
ミレアは少しだけ柔らかい表情になった。
それから再び本を開く。
「では、現在使用可能な機能について説明します。ダンジョンポイントを消費することで、部屋の拡張、罠の設置、設備の購入、魔物の召喚などが可能です」
「魔物の召喚?」
「はい。召喚石を使用します」
ミレアが手を差し出す。
その掌に、いつの間にか小さな石が乗っていた。
灰色とも白ともつかない、淡い光を放つ石。
「これが召喚石です。現在、このダンジョンが所有している唯一の召喚石になります」
「何が出るの?」
「使用するまでわかりません」
「え?」
「召喚石には複数の等級が存在します。一般的には低級魔物が召喚されることが多く、非常に低い確率で希少種や上位種が召喚されます」
ノアは石を受け取った。
掌の上で、淡い光が揺れている。
「つまり、くじ引きみたいなもの?」
「近いですね。ただし、こちらは外れればダンジョンの貴重な資源を失います」
「……それ、今の私には結構怖いんだけど」
「私も同感です。現在のダンジョンには余裕がありません。召喚に失敗した場合、しばらくは追加の召喚ができない可能性があります」
ノアは石を見つめた。
たった一つ。
これを使えば、新しい魔物が手に入るかもしれない。
逆に、何も得られない可能性もある。
それでも、今のダンジョンにはポムしかいない。
このままでは、冒険者が一人来ただけで終わる。
「……やるしかないよね」
「そうなります」
「じゃあ、使うよ」
ノアは召喚石を握り込んだ。
「お願いします」
石が強く輝いた。
洞窟全体を白い光が包み込む。
ポムが驚いたように跳ね、ミレアが目を細める。
やがて光が一点へ集まり、地面に魔法陣が浮かび上がった。
ノアは息を止めた。
魔法陣の中心で、何かが生まれようとしている。
強い魔物なのか。
珍しい魔物なのか。
それとも、何の役にも立たない小さな魔物なのか。
ノアにはわからない。
ただ一つだけ、彼女自身がまだ知らないことがあった。
転生する際に与えられた固有能力――【超幸運】。
それは単純に「運が良くなる」だけの能力ではなかった。
そして、その力はすでに動き始めている。
魔法陣の光が消えた。
その中心に、小さな影が立っていた。
ノアはゆっくりと目を見開く。
「……え?」
ミレアも言葉を失った。
そして、ポムだけが嬉しそうに跳ねた。
新たな魔物との、長いダンジョン生活が始まろうとしていた。




