第102話 失われた協定と、王国が隠した真実
木箱の蓋が開くと、内部から淡い青色の光が溢れ出した。中に入っていたのは、古びた紙束でも、金貨や魔道具でもなかった。薄い金属板が何枚も重ねられ、その表面には細かな魔力文字がびっしりと刻まれている。文字の一部は摩耗していたが、板そのものは驚くほど綺麗な状態を保っていた。箱の内部に施された保存術式が、長い年月の劣化を防いでいたらしい。
「これが、昔の人間と魔物の協定記録……」
ノアは金属板を覗き込みながら呟いた。古代の研究施設で発見した記録にも、人間と魔物が交易していたことは記されていた。しかし、具体的な取り決めについては断片的な情報しか残っていなかった。もしこの記録が完全な形で残っているなら、今後のクロノアにとって大きな意味を持つかもしれない。
「ミレア、読めそう?」
「一部の文字列は解析できます。ただし、古代文字の表記体系が複数混在しています。順番に読み取りますので、少し時間をください」
「分かった。無理に急がなくていいよ」
ミレアの視線が金属板の上を走る。しばらくすると、箱の縁に埋め込まれた小さな結晶が光り、空中に文字が浮かび上がった。古代文字が現代語へと変換されているらしい。
最初に表示されたのは、協定の目的だった。
『人間居住域と魔物生息域の相互不可侵。指定交易路における安全通行の保証。資源交換に伴う双方の利益の保護』
「相互不可侵……」
ノアは思わず声を漏らした。
魔物の領域へ人間が勝手に侵入しない。人間の領域へ魔物が無断で侵入しない。そのうえで、決められた交易路を使えば、互いに必要なものを交換できる。今のクロノアが目指している形に近い仕組みだった。
ルナは表示された文字をじっと見つめていた。
「昔は、人間と魔物が約束をしていたんだね」
「そうみたい。少なくとも、ここに記録が残っている以上、ただ敵同士だったわけじゃないんだ」
「だったら、どうして今は戦っているの?」
その問いに、ノアはすぐに答えられなかった。協定が存在していたのなら、なぜそれが失われたのか。交易路が封鎖された理由も、王国軍がこれほど強硬な態度を取る理由も、まだ分かっていない。
ミレアが次の記録を表示させた。
『協定締結当時、魔石、鉱石、薬草、加工金属、医療物資の交換が行われていた。魔物側は採掘資源と特殊素材を提供し、人間側は加工技術と生活物資を提供する』
「やっぱり、昔はちゃんと交易していたんだね」
「はい。記録には、定期的な交換日程や、交易品の検査基準まで記されています。双方が一方的に利益を得るのではなく、継続的な取引を目的としていたようです」
ノアは金属板の続きを見た。そこには、交易路の管理を担当する人間側と魔物側の代表者が記されていた。人間側には王国の前身となる組織の名前があり、魔物側には複数の集落を代表する者たちの記録が残っている。
そして、その中に何度も登場する言葉があった。
『王位継承者』
「……ルナのこと?」
ノアが振り返ると、ルナは小さく頷いた。
「たぶん。今の私と同じ役割を持つ存在が、昔にもいたのかもしれない」
「でも、王位継承者がいたなら、魔物の国も存在していたってこと?」
「そうとは限りません。複数の集落をまとめる代表者、あるいは協定の管理権限を持つ存在だった可能性もあります」
ミレアは慎重に答えた。古代の制度が現在の王権と同じものだったとは、まだ断定できない。しかし、王位継承者という仕組みが人間との協定に関わっていたことは確かだった。
ルナは金属板へ近づき、黒い前足をそっと縁に置いた。
すると、表示されていた文字の一部が切り替わった。
『王位継承者による領域認証を確認。非公開記録へのアクセスを許可』
「えっ、まだあるの?」
ノアが驚く。
ミレアはすぐに表示を確認した。
「通常の協定記録とは別に、閲覧権限を制限された記録が保存されています。王位継承者の権限がなければ開けない仕組みだったようです」
「じゃあ、ルナが王になったから見られるようになったんだ」
「その可能性が高いです」
新たな文章が浮かび上がった。
『協定停止に関する記録』
ノアの表情が変わった。
「これだ。交易路が封鎖された理由が分かるかもしれない」
表示された文章は、ところどころ欠損していた。それでも、残された部分から当時の状況を読み取ることができた。
『魔力循環異常の発生により、交易路周辺で複数の事故が発生。人間側管理局は通行制限を提案。魔物側代表は原因調査の継続を要求』
『調査中、王国中央管理局より緊急命令。交易路を封鎖し、魔物側との接触を停止すること』
『協定の継続に関する最終協議は中断。人間側管理局の責任者は、記録装置の一部を王都へ移送』
「……王国が封鎖したんだ」
ノアは低い声で言った。
ただし、記録には魔物が人間を襲ったという説明はなかった。逆に、人間が一方的に魔物を裏切ったと断定できる内容でもない。事故が起き、調査が続いていた最中に、王国中央管理局が接触停止を命じた。その理由までは記録されていなかった。
「ミレア、事故って何が起きたの?」
「詳細は欠損しています。ただし、魔力循環異常という表現から、交易路周辺の魔力が不安定になり、施設や通路に影響を及ぼした可能性があります」
「それを調べている途中で、封鎖されたんだね」
「はい。調査が完了した記録も見つかっていません」
ノアは考え込んだ。王国は単に魔物を嫌っていたから交易路を封鎖したのではないのかもしれない。何か大きな事故が起き、その原因を解明する前に、魔物との接触そのものを止めた可能性がある。
だが、もしそうだとしても、理由を説明せずに協定を停止し、その後の世代に何も伝えなかったことは問題だった。
「人間側は、事故のことを今も知っているのかな」
「王国の上層部に一部の記録が残っている可能性はあります。ただし、どの程度の情報が継承されているかは分かりません」
エルドが一歩前へ出た。
「その記録を、俺にも確認させてもらえないだろうか」
ノアは彼を見た。
「どうして?」
「俺たちが調べていたのは、まさにその部分なんだ。王国軍が魔物の領域を攻める理由が、単なる資源不足だけではないと考えていた。だが、ここまで具体的な記録が残っているとは思わなかった」
「この記録を見たことはあるの?」
「ない。ただ、王都の古い文書庫に、交易路の管理記録が保管されているという話を聞いたことがある。正式な調査を申し込んでも、閲覧を許可されなかったんだ」
エルドの表情は真剣だった。
「もし王国が過去の協定や事故の記録を隠しているなら、知る必要がある。少なくとも、俺はそう思っている」
ノアはルナと視線を交わした。人間側にも、王国の方針に疑問を持つ者がいる。それは、これからのクロノアにとって重要なことかもしれない。
しかし、記録を簡単に渡すわけにはいかなかった。古代の協定には、交易路の位置や管理方法など、クロノアの防衛に関わる情報も含まれている可能性がある。
「記録を見せることはできる。でも、全部を持ち帰らせることはできない。内容を確認したいなら、ここで一緒に読み解こう」
「それで構わない」
エルドは即座に答えた。
ノアはミレアへ目配せした。ミレアが記録のうち、協定の目的と停止理由に関する部分だけを別の表示領域へまとめる。交易路の具体的な位置や防衛装置の情報は、ひとまず非表示にした。
その作業を見ながら、ルナが尋ねた。
「エルド。もし、王国がこの協定を知らなかったら、どうするの?」
「知らなかったのなら、まずは事実を伝える必要がある。知っていて隠していたのなら、なぜ隠したのかを問いただす必要がある。どちらにしても、俺一人で王国を変えられるわけじゃないが、記録を持ち帰って報告することはできる」
「王国が、その報告を信じなかったら?」
「そのときは、別の方法を考える。俺は王国の命令に従うためだけに調査をしているわけじゃないからな」
ノアは少しだけ彼への見方を変えた。もちろん、まだ完全に信用したわけではない。エルドの目的が本当に平和的なものなのか、彼がどこまで王国の内部事情を知っているのかも分からない。それでも、少なくとも今は、話し合いを続ける価値がありそうだった。
ところが、そのとき。
木箱の奥から、再び機械的な声が響いた。
『警告。協定停止時に記録された魔力循環異常との類似反応を検出』
「……え?」
ノアが振り返る。
金属板の表面に、先ほどまで表示されていなかった赤い文字が浮かび上がっていた。
『現在の領域魔力濃度――基準値を超過』
『旧交易路周辺の魔力循環――部分的な再稼働を確認』
ミレアの表情が変わった。
「ノア様。これは重要な情報です。魔力貯蔵核の復旧と、封印魔物の核が破壊されたことによる魔力濃度の上昇。その二つが、旧交易路の魔力循環に影響を与えている可能性があります」
「つまり、昔の交易路がまた動き始めているの?」
「一部だけですが、その可能性があります」
ノアはルナを見た。
ルナもまた、金属板を見つめていた。王位継承者として認証されたことで、古代の記録にアクセスできた。そして今、その記録が、かつて封鎖された交易路の再稼働を告げている。
「その交易路って、どこにつながっているの?」
ノアが尋ねると、ミレアは記録の続きを読み取った。
「現時点では接続先の座標が欠損しています。ただし、接続先の分類は残っています」
「分類?」
「人間側の管理区域です。王都そのものではありません。かつて交易品の検査と保管を行っていた、旧管理拠点と記されています」
エルドが驚いたように顔を上げた。
「旧管理拠点……。それなら、王都の文書に名前だけ残っている施設かもしれない。今は使われていないはずだ」
「使われていないなら、誰もいないのかな?」
「いや、断言はできない。施設が閉鎖されていても、周辺に町ができている可能性はある。それに、王国が別の目的で利用しているかもしれない」
ノアはすぐに答えを出さなかった。旧交易路が再稼働すれば、人間との新しい接点が生まれるかもしれない。しかし、そこが安全な場所とは限らない。古代の事故が起きた場所に近いなら、再び危険が発生する可能性もある。
「まずは、入口を見つけて調べる必要があるね。でも、いきなり大勢で行くのは危ない」
「賛成です」
ミレアが答えた。
「少人数での偵察を行い、魔力の流れと構造を確認するべきです。異常が見つかった場合は、接続を停止できるかどうかも調べる必要があります」
ルナはしばらく考えたあと、はっきりと告げた。
「調べよう。ただし、クロノアを危険にさらさないこと。人間の領域へ行くなら、相手の意思も確かめる。私たちから争いを始めるつもりはない」
「分かった。準備が整ったら、私たちで調べに行こう」
ノアは金属板を見つめた。国を作るための第一歩を踏み出したばかりなのに、今度は古代の協定と、封鎖された交易路の問題が浮かび上がってきた。しかも、それは単なる歴史の話ではない。現在のクロノアの魔力環境が変化したことで、過去の仕組みが再び動き始めているのだ。
エルドは表示された記録を慎重に読みながら、最後に一つだけ尋ねた。
「もし、その交易路が本当に再び使えるようになったら、クロノアは人間との交易を再開するつもりか?」
ノアはルナを見た。答えを決めるのは王であるルナだ。ルナはすぐには答えず、洞窟の奥で暮らす魔物たちへ視線を向けた。ここには、ようやく安心して眠れる場所を得た小さな魔物たちがいる。採掘を覚え始めたゴブリンたちも、魔力の扱いを学ぶセラの仲間たちもいる。その暮らしを危険にさらしてまで、交易を再開する必要があるのか。
やがてルナは、静かに答えた。
「相手が約束を守るなら、考える。私たちにも、人間から必要なものがあるかもしれないから。でも、昔の協定があったからといって、今の私たちが無条件に信じることはできない」
「……そうだな」
エルドは納得したように頷いた。
「それでいいと思う。信頼は、記録に書かれているだけでは成立しない。これから何をするかで決まるものだからな」
木箱の光が少しずつ弱まっていく。最後に一つだけ、新しい文字が浮かび上がった。
『旧協定管理者の認証待ち』
それが何を意味するのか、今はまだ誰にも分からなかった。
ただ一つ確かなのは、クロノアの誕生によって、長く止まっていた人間と魔物の歴史が再び動き始めたということだった。




