崩壊の始まり
「ひゃぅ、あ、あんっ……ジュリアン様、だめ、ですぅ……そんなに強くされたら、私……本当に、壊れちゃいます……っ!」
「黙れ、エルザ! お前のその、私を狂わせる甘い蜜を、もっと私に注ぎ込め! 外の、あの不快な雑音を、お前の可愛い喘ぎ声で消し去ってくれ……っ!」
王宮の寝室。
そこはもはや、甘い香油の匂いと、粘り気のある汗、そして逃避のための淫らな情欲がドロドロに溶け合う、隔離された地獄のようだった。
ジュリアン様は狂ったように私を押し伏せ、何度も、何度も、壊れた機械のように腰を突き入れてくる。彼の金色の髪は汗でベタつき、その瞳は恐怖と性欲で濁りきっていた。
「は、はぁ……っ、エルザ、エルザァ! お前は私を裏切らないな!? 私が愛したのは、お前だ! あの冷酷なコレットではない! だから、お前のその体で、私を、私を救ってくれぇ……っ!」
「ん、あ、あぁっ……はいぃ、私は殿下だけの、可愛いお人形、ですぅ……っ!」
私はジュリアン様の背中に爪を立て、必死でいつもの「淫らで可愛い雌」を演じていた。
けれど、私の心臓は、恐怖で今にも破裂しそうだった。
(なによ、なんなのよこれ!! なんでこんなことになってるのよ!!)
ベッドが激しく軋む音の隙間から、絶え間なく聞こえてくるのだ。
――地を揺らすような、無数の獣たちの遠吠えが。
――王都の遥か外壁から響いてくる、大砲の音と、兵士たちの絶望的な悲鳴が。
国境の結界が完全に消失したのは、わずか三日前のことだった。
コレット様を追放したことで、結界の維持装置は「調律」を失い、私たちがドレスや宝石代のために国費を使い込んだせいで、魔石の補給すら滞っていた。
結果、器は完全に砕け散り、国境を守る防壁はガラス細工のように一瞬で崩壊した。
遮るもののなくなった荒野から、飢えた獰猛な魔獣の群れが、怒涛の勢いで国内へと雪崩れ込んできたのだ。
「ジュリアン様、あ、う、お腹、いっぱいですぅ……あ、あんっ!」
ジュリアン様が野獣のような低い喘ぎ声をあげ、私の奥深くに熱い生命を吐き出す。
彼は事切れたように私の胸に倒れ込み、ハアハアと荒い息を吐きながら、私の柔らかな双丘にしがみついた。
その瞬間。
――ズドォォォォン!!!
王宮の地盤を直接揺らすような、凄まじい衝撃音が響き渡った。
寝室の豪華なクリスタルのシャンデリアが激しく揺れ、火のついていないキャンドルが床に落ちて粉々に砕ける。
「ひゃあああああっ!?」
私は耐えかねて、ジュリアン様を突き飛ばすようにしてベッドの端へ逃げ、シーツを体に巻きつけた。
もう、いつもの「守ってあげたいウサギさん」の演技をする余裕すらない。ガタガタと全身の震えが止まらなかった。
「な、なんだ!? 今の音は……! 王宮の、すぐ近くではないか!?」
ジュリアン様も慌ててシーツを腰に巻き、青ざめた顔で立ち上がった。
その時、寝室の重厚な扉が、ノックもなしに乱暴に押し開けられた。
「殿下! 殿下、大変です!!」
入ってきたのは、甲冑を血と黒い泥で汚した、近衛騎士団の副隊長だった。彼の顔は恐怖で引き攣り、片腕からはだらだらと鮮血が流れ落ちている。
「不敬であるぞ! 私の寝室に無断で立ち入るとは――」
「そのようなことを言っている場合ではございません! 王都の第一、第二障壁が完全に突破されました! 魔獣の本体――超巨大な『ランクA』のベヒモスを含む大群が、すでに王宮の前庭にまで侵入しております!!」
「な……何だと……っ!?」
ジュリアン様の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「騎士団は!? 我が国の精鋭たる騎士団は何をしている! 駆除しろ! 早くあの汚らしい化け物どもを殺せ!」
「無理です! 聖女様の『加護の結界』も『即時治癒』もない状態では、魔獣の放つ瘴気に当たるだけで兵士たちの魔力が枯渇し、まともに剣を振ることすらできません! すでに騎士団の半数が壊滅……! もはや、持ちこたえられません!」
副騎士隊長は、血走った目で私を睨みつけた。その目には、王族に対する敬意など微塵もなく、ただ「戦犯」を見るような憎悪だけが宿っていた。
「エルザ聖女様!! お願いです、今すぐ前線へ!! あなた様がコレット様から奪い取った、その『聖女の奇跡』とやらで、せめて魔獣の瘴気を払ってください! あなた様が筆頭聖女になられたのでしょう!? 民を、国を守るのがあなたの義務だ!!」
「ひっ……! 嫌、嫌よ!!」
私は思わずベッドの隅にさらに縮こまり、耳を塞いだ。
(何言ってるのよ、この泥まみれの男! なんで私がそんな、化け物のいるところに行かなきゃいけないのよ! 私はただ、綺麗なお洋服を着て、美味しいものを食べて、ジュリアン様に可愛がってもらうために聖女になったのよ!? 汚い魔獣と戦うためじゃないわよ!!)
「ジュリアン様ぁ……っ! 助けて、私、怖いですぅ……っ! あの人、私をいじめるの! 私、魔力が全然練れなくて……今外に出たら、絶対に化け物に食べられちゃいますぅ……っ!」
私は涙をボロボロと流し、いつものようにジュリアン様に助けを求めた。
今までは、これで全て解決していた。ジュリアン様が怒鳴り散らし、私を安全な部屋に囲ってくれた。
けれど、今回は違った。
ジュリアン様は私を抱きしめることもせず、ただ呆然と私を見つめていた。その瞳には、今までにない「冷酷な光」が宿り始めていた。
「……エルザ。お前、本当に『調律』ができないのか?」
「え……?」
ジュリアン様の低く、冷え切った声に、私は息を呑んだ。
「お前は、コレットに虐げられていたと言ったな。自分こそが真の聖女で、コレットが偽物だと。私の愛があれば、奇跡を起こせると、ベッドの上で何度も私に囁いたではないか」
ジュリアン様が、私の肩を乱暴に掴んだ。
その力は、昨夜までの愛撫とは違い、骨が軋むほどに痛かった。
「殿下、痛いですぅ……離して……っ」
「答えろエルザ!! お前は聖女なのだろう!? コレットがやっていたことくらい、お前にもできるはずだ! 今すぐ前庭に出て、結界を張れ! 騎士たちに加護を与えろ!! そうでなければ……私は、私はどうなる!? 私が婚約破棄をしてコレットを追放したのが、ただの『間違い』だったと、愚民どもに指を刺されるではないか!!」
ジュリアン様は狂ったように私を揺さぶった。
彼の顔は、かつての端正な面影を失い、自己保身と恐怖で醜く歪んでいた。
(なによ、この男……。結局、自分の立場が心配なだけじゃない。私を愛してるなんて、全部嘘だったのね!)
私の脳裏に、すさまじい怒りと絶望が湧き上がる。
しかし、ここで本性を表したら、本当にこの狂った男に魔獣の前に放り出されるかもしれない。
「わ、わかりました……っ。お祈り、お祈りしますわ……っ! だから、ジュリアン様、そんなに怒らないで……」
私は震える手で、ベッドの脇にあった聖女の金色の法衣(かつてコレット様から奪ったものだ)を身にまとった。
豪華なドレスの上から羽織った法衣は、ひどく重く、息が詰まりそうだった。
◇ ◇ ◇
王宮の巨大なバルコニー。
そこから見下ろす前庭は、まさに「この世の終わり」そのものだった。
空はどす黒い雲に覆われ、国境の結界があった場所からは、絶え間なくどす黒い霧(瘴気)が流れ込んでいる。
前庭の美しい芝生は血と泥で汚れ、数え切れないほどの騎士たちの死体が転がっていた。
そして、その中央に君臨するのは、山のように巨大な、漆黒の毛並みを持つベヒモス。その紅く光る三つの目が、バルコニーに立つ私たちをじっと見つめていた。
「グルゥゥォォォォォン!!!」
ベヒモスが咆哮をあげる。その衝撃波だけで、バルコニーの石造りの手すりにピキピキと亀裂が入った。
「ひぃっ、いやぁぁぁあ!!」
私はその場にへたり込み、ドレスの裾を汚しながら後退りした。
周囲に立つ神官たちや、生き残った兵士たちが、冷ややかな、そして失望に満ちた目で私を見つめている。
「さあ、エルザ! 祈れ! 早く奇跡を見せてくれ!」
ジュリアン様が私の背中を押す。
「お、祈り……? あ、ああ……神様、神様ぁ……っ。どうか、あの汚い化け物を、どこかへ遠ざけてください……っ。私、こんなに可愛くて、お上品な女の子なんです……。こんな汚いところで死にたくありません、おねがいですぅ……っ!」
私は両手を合わせて、目を閉じて必死に叫んだ。
あざとい、ぶりっ子のような声で、ただ自分の保身だけを願う祈り。
――何も起きなかった。
風一つ吹かず、光一つ現れない。
ベヒモスはただ、退屈そうに鼻息を吐き、前足を一歩踏み出した。それだけで、王宮の頑丈な門扉がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
「な……なぜだ……!? なぜ光が起きない!?」
ジュリアン様が私の髪を乱暴に掴み、無理やりベヒモスの前に突き出した。
「お前、本当に魔力がないのか!? ただの見習い……いや、ただの『淫らな売女』だったのか!? 私を騙したのか、エルザァァァッ!!」
「い、痛い! 痛い痛い! 離してよ、この馬鹿王子!!」
ついに、私の化けの皮が剥がれた。
私はジュリアン様の手を振り払い、泥まみれの顔で彼を睨みつけた。
「そうよ! 私に魔力なんてあるわけないじゃない!! 結界なんて張れるわけないでしょ!? あんたが私の体と、あざといおねだりに狂って、勝手にコレットを追い出したんでしょ!! 全部あんたの自業自得よ、この使えない腑抜け男!!」
「な……お前、私に向かって、なんという態度を……っ!」
ジュリアン様がショックと怒りで顔を真っ赤にし、私を殴り飛ばそうと手を上げた。
その時。
天を切り裂くような、純白の「光の矢」が、暗雲を貫いて地上へと降り注いだ。
その光は、ベヒモスの巨体を一瞬で貫き、前庭を満たしていたどす黒い瘴気を、まるで朝露が蒸発するように一瞬で浄化していった。
「……え?」
私とジュリアン様は、殴り合うのも忘れて、呆然と天空を見上げた。
雲の切れ間から差し込む、神々しい黄金の光。
その光の中に、数千の圧倒的な軍勢を率いて、一人の「本物の聖女」が降臨しようとしていた。
第7話へ続く。




