翻る日常 5
まだ時間には余裕があった。
それでも、じっとしていることはできなかった。
目覚めてからの違和感の数々。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
焦燥に駆られるまま、兎翔は制服に着替え、家を出た。
家を出てしばらく歩いた頃。
「おはよう」
後ろから聞き慣れた声がして、兎翔は振り返る。
「……学」
見慣れた高身長の幼馴染が、いつものようにこちらへ歩いてくる。
その姿を見て、少しだけ安心した。
「おはよう」
向かい合って、互いの顔を見る。
「あれ?」
学が兎翔の顔をまじまじと見た。
「今日、すっぴんじゃん。寝坊でもしたの?」
「……お前もか」
「何が?」
「実は盛大なドッキリでした、とかだったら嬉しいんだけど」
「何の話だよ」
学は首を傾げる。
「実はメイクしてるってこと?」
「違う」
「じゃあ何だよ」
兎翔は学の顔を見る。
自然な仕上がりではあるが、確かにメイクをしていた。
肌は綺麗に整えられ、眉も目元も昨日までよりはっきりして見える。
学まで。
「…………」
全身から、すうっと力が抜けていく。
そのまま、深いため息が漏れた。
「はぁ……」
「なんだよ」
兎翔は改めて学の顔を見る。
そして、ため息交じりに言った。
「……お前、いつにも増して格好いいな」
「え?」
不意を突かれたのか、学の瞼が軽く上がる。
「珍しいな。兎翔がそんなこと言ってくれるなんて」
「ありがとよ」
学は満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、兎翔は思う。
――ああ、この世界でも、学はきっと人気者なんだろうな。
変わらない部分を見つけた。
「こちらこそ、ありがとう」
「……何が?」
「なんでもない」
何が起きているのかは、まだ分からない。
それでも、少なくとも今は――。
目の前にあるものを、そのまま受け入れていく。
兎翔はそう決めた。
そして、軽く伸びをする。
「校門まで、どっちが早く着くか勝負しようぜ」
兎翔が腰を落とす。
「ドン!」
学を置いて、兎翔は一気に駆け出した。
「ちょっと待てよ、兎翔!」
「うるせえ! 現役運動部なんだから、これくらいのハンデはいいだろ」
「お前も元運動部だろーが」
朝の通学路を、二人は夢中になって駆けていく、いつの間にか兎翔の顔には笑みがこぼれていた。
四月中旬。
まだ肌寒さの残る季節だったが、校門に着く頃には、二人ともすっかり汗をかいていた。
「暑っ……」
学は鞄から汗拭きシートを取り出すと、額や首筋を丁寧に拭き始める。
兎翔は特に気にすることもなく、そのまま先へ向かった。
パチンッ。
制服のシャツの第二ボタンを開ける。
そして左手でシャツの胸元を前後させ、外気を送り込んだ。
「はぁ……涼しい」
そのまま昇降口へ入り、下駄箱の前で靴を履き替えようと軽く屈む。
そのとき。
「はぇ!?」
気の抜けた声が、前から聞こえた。
「ん?」
兎翔が顔を上げる。
一人の女子生徒と目が合った。
ぱつんと切り揃えられた前髪に、左右へ垂れたおさげ髪がよく似合っている。
「…………」
なぜか女子生徒は固まっていた。
「あ、いや、その……」
見る見るうちに、その頬が真っ赤になっていく。
兎翔には、何が起きているのか分からない。
立ち上がろうとした、その途端。
「さよなら!」
女子生徒は逃げるように走り去っていった。
「………え?」
「俺って、そんなに汗臭いのかな……」
少し不安になり、自分の匂いを確かめようと下を向く。
「ん?」
足元に何かが落ちていることに気づいた。
拾い上げる。
「これは……メモ帳か」
手のひらサイズの、ピンク色のメモ帳だった。
「さっきの子のかな?」
開こうとして――後ろから声が飛んできた。
「兎翔! 教室早く行こうぜ」
振り返ると、学がこちらへ歩いてくる。
――後で職員室に届ければいいか。
兎翔は咄嗟にメモ帳をポケットへしまった。
「学。やっぱり、汗拭きシート貸してもらってもいい?」
「ほらな〜。いいぜ」
学から汗拭きシートを受け取る。
兎翔は額や首筋の汗を拭いながら、教室へ向かった。




