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翻る日常 4

放課後。


特に寄り道をすることもなく、兎翔は一人で家へ向かっていた。

結局、勧誘に対する答えは出せないままだった。


「部活か……」


歩きながら、休み時間の会話を思い返す。

部活に入れば、少しは今より学校が楽しくなるのだろうか。


そんなことを考えながら歩いていると、ふと一軒の店が目に入った。


「……ん?」


大通りから少し入ったところにある、アンティーク調の喫茶店。

深い色合いの木製扉に、年季の入った看板。

窓越しには暖色の照明が見え、学校帰りの学生が気軽に入るには、少しだけ大人びた雰囲気がある。

その店先に、店の雰囲気には少し不似合いな一枚の紙が貼られていた。


『美術部 新入部員募集』


「…………」


兎翔は足を止めた。

見覚えがある。

今日、川本さんが教室に貼っていたものと同じだった。


「これ……学校の外に貼ってもいいのか?」


少し気になって、店内を覗いてみる。

だが、外からでは特に変わったものは見えない。


「まあ、許可取ってるんだろうけど……」


それ以上深く考えることもなく、兎翔は再び歩き出した。

街には、沈みゆく夕陽と入れ替わるように、ぽつぽつと街灯が灯り始めていた。


夜。


自室のベッドに寝転びながら、兎翔はスマートフォンの画面を眺めていた。


動画を見て。


SNSを眺めて。


飽きたら別のアプリを開く。


特別、何か見たいものがあるわけではない。


ただ、画面を閉じたく無かった。


「寝ないとな」


明日も学校だ。


朝起きて、学校へ行って。


授業を受けて。


放課後になれば、家に帰る。


それが嫌なわけではない。


ただ――。


楽しみかと聞かれれば、そうでもなかった。


「……つまんないな」


誰に聞かせるでもなく呟く。


画面を指でなぞって、また一つ動画を見る。


眠くなってきていることには、とっくに気づいていた。


それでもスマホを置こうとは思わなか

った。


眠ってしまえば、今日が終わる。


そして、明日が始まる。


――明日なんて、来なくていいのに。


ほんの少しだけ、そんなことを願ってみる。


気がつけば、日付はとっくに変わっていた。


「……もうこんな時間か」


さすがに寝よう。


スマホを持ち直したとき、その熱に気づいた。


「熱っ……」


長時間使っていたうえに、充電器につないだままだったからだろうか。兎翔は充電ケーブルを抜いた。

画面には、十分すぎるほど充電されたバッテリーの表示。

そのままスマホを枕の横へ置く。


「……お休み」


部屋の明かりを消し、兎翔は目を閉じた。


朝、怪電波爺さんから言われた言葉など――このときには、もうすっかり忘れていた。


『携帯を枕元に置いて寝たらあかんぞおおお!』



翌朝。


ピピピピ!


けたたましい電子音が、静かな部屋に鳴り響いた。


「ん……」


枕元で鳴っているスマートフォンを手探りでつかみ、アラームを止める。


「……朝か」


重たい瞼を擦りながら、兎翔はゆっくりと身体を起こした。

昨夜遅くまで起きていたせいか、頭がぼんやりしている。

何気なくスマホの画面を見る。


「……え?」


バッテリーの表示を見て、眠気が少し飛んだ。ほとんど充電が残っていない。


「なんで?」


昨夜、充電器から外したときには十分に充電されていたはずだ。


「寝てる間に動画とか流してたっけ?」


とりあえずスマホを充電器につなぎ、充電中の表示が出たことを確認する。

昨夜のことを思い返そうとした、そのとき。


「…………?」


何かがおかしい。

兎翔はゆっくりと自分の部屋を見回した。

見慣れた自室。ベッドも、机も、本棚も同じ場所にある。


なのに――何かが違う。


「……なんだ?」


視線を巡らせていると、机の上に置かれたポーチが目に入った。


見覚えのない化粧品ポーチ。


しかも、中には収まりきらないほどの化粧品が詰め込まれている。兎翔には用途の分からないものまで、いくつも並んでいた。


「母さんのかな。なんで俺の部屋に……」


そう思ったところで、さらに妙なことに気づいた。


「服が増えてる?」


収納には、昨日までなかったはずの服が増えている。それだけではない。

壁際のボードには、何枚かのプリクラが貼られていた。

そこに写っているのは――。


「俺...」


間違いない。兎翔自身だった。


友人たちと笑って、見覚えのないポーズを取っている自分。


「いつ撮ったんだよ、これ……」


記憶にない。けれど、写真に写っているのは間違いなく自分だった。


化粧品。


知らない服。


覚えのないプリクラ。


兎翔は額を押さえた。


「……まだ寝ぼけてんのか」


昨夜はかなり夜更かしした。


「顔洗うか」


兎翔は部屋を出た。廊下を歩き、脱衣所へ向かう。


ドアを開けると、洗面台には先客がいた。


父親だった。


「おはよう」


返事をして、洗面台へ近づこうとして――。


足が止まった。


「え?」


父親が、鏡の前でメイクをしていた。


しかも、慣れた手つきで。


その横には、いくつもの化粧品が並んでいる。


「…………」


兎翔は目を丸くする。


「父さん……何してんの?」


「何って?」


父親は鏡から目を離さない。


「いや……それ」


兎翔が化粧品を指さす。父はようやく息子の方を見た。


「今日は化粧のノリが悪くて時間かかってさ」


あまりにも自然な声色だった。


「なんで?」


「んー? 兎翔みたいな若者には縁がないってか。ちょっと傷つくぞ」


「いや、そうじゃなくて……」


会話が噛み合わない。


兎翔が言葉を探していると、父親が時計を見る。


「お、もうこんな時間か」


そして、思い出したように付け加えた。


「そうだ。ブラは無精せず、ちゃんとネットに入れてくれよ」


「……は?」


父親は手早く身支度を整えると、鞄を持った。


「え、ちょっと」


「朝ご飯、おにぎり作ってあるから。ちゃんと食べるんだぞ。じゃ、行ってきます」


父親は慌ただしく家を出ていった。

窓から外を見ると、待っていた車の助手席に父親が乗り込む。


運転席には母親の姿があった。

やがて車のエンジン音は遠ざかっていった。


「…………」


兎翔はしばらく窓の外を眺めていた。


「なんだあれ? 急に美意識に目覚めたのか?」


一人残された兎翔はリビングへ向かった。

テーブルには、おにぎりが置かれていた。

一つ手に取り、頬張る。

味は塩味が効いてて美味しかった。


「……テレビでも見るか」


テレビをつける。


「…………」


朝の情報番組。


画面に映っているアナウンサーは、なぜか男性ばかりだった。


しかも全員、髪型から肌、目元まで隙なく整えている。


「俺が知らない間に、男性メイク流行ってたのか?」


チャンネルを切り替えると、ちょうどシャンプーのCMが流れ始めた。


爽やかな音楽。


風になびく長い髪。


そして画面の中央には――。


薄着の男性モデル。


「…………」


兎翔は無言でテレビの電源を切った。


「顔洗お」


脱衣所へ向かう。


蛇口を勢いよくひねる。


冷たい水を両手ですくい、顔に浴びせた。


「ちべた!」


冷たい。


間違いなく冷たい。


夢なら、そろそろ覚めてもいいはずだ。


兎翔はもう一度顔を洗った。


そして、ゆっくりと顔を上げる。


鏡を見る。


「…………」


目は、覚めている。


それなのに。


鏡の端。


洗濯物の中に紛れているそれへ、恐る恐る視線を向ける。


小さく書かれた名前。


『兎翔』


「…………」


昨日まで、絶対に持っていなかった。


それどころか、自分が身につけるなんて考えたことすらない。


ほとんど平坦な形をした、自分の名前入りのブラジャー。


「なんだよこれ」


兎翔は目を閉じる。


一つ深呼吸をして、瞼を開く。


それでも――。


『兎翔』と名前の書かれたブラジャーは、消えてはくれなかった。

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