翻る日常 2
一時間目の授業中、兎翔は歴史の教科書を開いていた。
教科書に並ぶ権力者達は、その殆どが女性だった。
名前もどこか見覚えがある。
けれど、自分の知っているものとは違う。
「改めて考えると、俺、この世界のことまだ全然知らないんだな」
昨日、突然変わってしまった世界。
寝て起きれば元に戻っているかもしれない――なんて淡い期待も、今朝になってあっさり砕かれた。
兎翔はシャープペンシルを握ったまま、拙いペン回しの練習を始める。
「そもそも、どうしてこんな世界になったんだろう」
くるり。
指の間を回りかけたシャープペンシルが、途中で止まる。
一昨日までは、普通だったのに。
教師の声が、少しずつ遠ざかっていく。
開かれた教科書から、兎翔の意識は二日前の記憶へと向かっていった。
一昨日――。
高校二年の四月半ば。
新学期が始まってしばらく経ち、授業も本格化し始めていた。
春休み明けのボケも、ようやく抜けてきたある日の朝、兎翔は少し寝坊した。
「まじか、スマホのアラーム止めた覚えないんだけど」
時計を確認すると、のんびり支度をしている余裕はない。
洗顔や着替えなど、朝の支度を十分ほどで済ませると、兎翔は慌ただしく家を飛び出した。
「行ってきます!」
学校までは、普段の道を使っても間に合わないことはないが、危ないラインだ。
兎翔は駆け足のまま、途中の曲がり角で思案する。
「あんまり通りたくないけど……怪電波爺さんとこの道でショートカットするか」
その道を使えば、学校まで少し早く着ける。
問題は、道の横にある一軒家だった。
近所では昔から有名な、一人暮らしの老人が住んでいる。
暇を持て余しているのか、家の前を人が通ると、二階のベランダから決まって大声を張り上げるのだ。
「よくない電波を出しとる携帯を、持って近づくな!」
小学生の頃の兎翔は、それが怖くて仕方がなかった。
だが中学生になる頃には、近所の子どもたちは、爺さんは叫ぶだけで家からは出てこないことに気がついた。
その習性が知れ渡ってからは恐怖も薄れ、いつしか子どもたちは、ある種の親しみを込めて老人を〝怪電波爺さん〟と呼ぶようになった。
「今日もいるかな……」
兎翔は走りながら、例の家を見上げる。
二階のベランダには、誰もいなかった。
「なんだ、いないじゃん」
安心して、そのまま家の前を通り過ぎようとした。
そのとき。
「おい!」
すぐ横から声がした。
反射的に振り向くと、老人が玄関先に立っていた。
ーーうわ、生け垣のせいで門の前に来るまで見えなかったのか。
近い。
兎翔の心臓が跳ねた。
老人が何か言うより先に、兎翔は逃げるように走る速度を上げた。
その背中へ、老人の声が飛んでくる。
「携帯を枕元に置いて寝たらあかんぞおおお!」
兎翔は走り続けながら、
「……また変なこと言ってるな」
そう呟いて、学校へ急いだ。
老人の姿はすぐに見えなくなり、その言葉も、そのときの兎翔はすぐに忘れてしまった。
どうにか学校まで辿り着いた頃には、兎翔の息はすっかり上がっていた。
靴を履き替え、そのまま階段を駆け上がる。
「はぁ……はぁ……」
廊下に生徒はあまり残っていない。
二年生の教室が並ぶ廊下を進み、自分のクラスの前まで来た、そのとき。
「あ……」
教室のドアの前で、一人の女子生徒と鉢合わせた。
向坂実希
スポーツで鍛えられた体つきとハーフアップの髪。朗らかな人柄と真面目な性格からか、よく頼られるタイプだった。
兎翔とは幼い頃からの知り合いで、昔はよく遊んでいた。
実希は、バレー部の朝練を終えたばかりなのだろう。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「…………」
ほんの一瞬、目が合うも、兎翔は反射的に視線を逸らした。
「……先、行っていいよ」
「あっ……」
実希は何か言おうとした。
けれど、瞬きひとつの間にその表情を切り替える。
「ありがとう」
そう言って笑うと、兎翔の横を通り、先に教室へ入っていった。
「…………」
兎翔も少し遅れて、その後に続く。
すれ違ったあとには、メンソールと柑橘系の香りが微かに残っていた。
自分の席へ向かいながら、ふと気がつく。
――そういえば。二年になってから、向坂と話したの……今が初めてか
昔は、仲の良い二人だった。
それなのに、いつからか――。
実希とは、まともに話すことすら少なくなっていた。




