一章 翻る日常
「男は度胸、女は愛嬌」――そんな言葉が当たり前のように語られていた世界は、ある日突然、翻った。
白い光が差し込む朝。
乃木兎翔は、布団の中で目を覚ました。
「ふぁ……」
まだ重たい体を起こし、高校の制服に着替える。
洗面台の鏡の前には、化粧品が並んでいた。
兎翔は眠そうな顔のまま鏡を覗き込み、リップを唇に当てる。
軽く整えて、鏡の中の自分を確認した。
「……よし」
通学鞄を背負い、家を出る。
朝の通学路では、同じ制服の生徒たちが群れになって学校へ向かっていた。
いつも通りの、つまらない日々。
「おーい!」
後ろから聞き慣れた、たくましい声がした。
振り返るより先に、肩に手が置かれる。
「おっ、メイクバッチリだな」
幼馴染の嶋学だった。
サッカー部のイケメンは、兎翔の顔を覗き込んで笑っている。
「……ありがとう。お前もカッコいいよ」
兎翔は少し不慣れな様子で返した。
学は気にすることもなく、隣を歩き始める。
その横顔を見ながら、兎翔は思う。
――いつも通りの日常は、何処へ行ってしまったんだろう。
兎翔たちが通う高校は男女共学だが、数年前までは女子校だった。
その名残もあって、今でも女子生徒の割合が多い。
男子生徒の中には、家から近いなどの理由で入学したはいいものの、女子との距離感がつかめず、どこか肩身の狭い思いをしている者もいた。
兎翔も、その一人だった。
教室に入ると、二人の女子生徒が兎翔の席を囲んで話していた。
そのうちの一人は、兎翔の椅子に腰掛けている。
兎翔は自分の席の前まで行くと、少し立ち止まった。
「あの……ごめん。どいてもらってもいい?」
振り絞るような声だった。
「えっ?」
女子生徒が振り返る。
そこで初めて気がついたらしく、慌てて椅子から立ち上がった。
「ご、ごめん! 気づかなかった!」
「う、うん……」
兎翔が小さく頷くと、女子生徒たちは場所を空け、教室の隅へと移動していった。
兎翔は鞄を机に置き、ようやく小さく息を吐く。
離れたところでは、女子生徒たちが声を潜めていた。
「やば……男子の席だったの気づかなかった。嫌われたらどうしよう」
「私、兎翔くんに構ってほしくて、わざと座ってるのかと思ってた」
「違うって! ……でも、ああいう控えめな感じもグッとくるよね。胸も小さいし顔も格好いいし」
「あー、分かる。あんた、ああいうおとなしそうな男子好きだもんね」
早朝だというのに、二人の話はすっかり男子の品評会になっていたが、兎翔は知る由もなかった。
いつからか、兎翔は異性を前にすると、妙に身構えるようになっていた。
別に、女子が嫌いなわけではない。
ただ、何気ない会話になると、どうにも調子が狂う。
対して、学は違う。
「おはよう!」
教室に入ってきた学は、いつもの調子でクラスメイトたちと挨拶を交わしていく。
「おはよ、学!」
「今日も朝から元気だねー」
先ほどの二人にもごく自然に話しかけ、そのまま談笑を始める。
学は昔からそうだった。
男女分け隔てなく接し、誰とでも自然に仲良くなれる。
サッカー部での活躍と整った容姿も相まって、昔から周囲には人が集まる人気者だった。
そんな学が、自分のことを「親友」と言ってくれる。
嬉しくないはずがない。
それでも――。
――お前みたいなやつになれないのは、俺のせいだって分かるけど。
女子たちと楽しそうに話している学を横目に、兎翔は自分の席についた。
チャイムが鳴った。
皆席へ戻り、担任の男性教員が教室へ入ってくる。
「みんな元気か。ホームルーム始めるぞ」
朝の連絡がいくつか続いたあと、担任の口調が少し真剣なものに変わった。
「それから昨日、この辺りで不審者が目撃されたらしい。学校へも連絡が来ている」
担任は教室を見渡した。
「特に男子。なるべく一人で帰らないようにな。部活で遅くなるやつも、できるだけ複数で帰るように」
話を聞きながら、兎翔は今朝のニュースを思い出していた。
最近、男性を狙った事件が相次いでいる――。
そんな内容だった。
一般に男子のほうが女子より腕力で劣るため、いざというときに抵抗することが難しく、被害に遭いやすい。
ニュースでは、そんな解説とともに、男子に対して夜道の一人歩きを避けるよう呼びかけていた。
担任が念を押す。
「怪しいと思ったら逃げること。近くの店でも家でもいいから、すぐ助けを求めるように」
「はーい」
教室のあちこちから返事が上がる。
兎翔もそれに合わせて小さく返事をしながら、窓の外へ視線をやった。
そこには、一見いつもと変わらない景色が広がっている。
男が身だしなみを整え、
女が男を品定めして、教室で下ネタを話し、
男子の身の安全が配慮される。
兎翔以外誰一人、それを不思議には思わない。
この世界では、それが――当たり前なのだから。




