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加美由  作者: 白崎由宇
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7

 夏休みが終わり、二学期が始まったその日。時刻は午後八時を回っていた。

 岩見は、職員室の自分の席に座っていた。パソコンの電源はついているが触れることもなく、ただぼんやりとディスプレイを眺めていた。岩見の他に教師の姿はなく、室内はがらんとしていた。

 練習終了後、加美由から、個人的に相談したいことがある、と言われた。岩見は嫌な予感がした。そのときの加美由の思い詰めたような表情は、次々と辞めていった部員たちの表情とよく似ていた。

 あれから反省して指導方針を改めたはずなのに、また退部者を出してしまうのか。いったい、俺のどこが悪いのか。

 岩見は、深いため息をついた。

 ノックの音がして岩見が返事をすると、ガラガラと音を立てて扉が開いた。

 そこには、ジャージから制服に着替えた加美由が、うつむいて立っていた。

 岩見は、自分のとなりの教師の席に座るよう促した。職員室に入った加美由は、恐る恐るその席に腰掛けた。

「相談したいことって、何だ」

 岩見が訊ねると、うつむく加美由は膝の上に置いていた手をぎゅっと握った。

 時折何か言おうとして顔を上げるのだが、すぐにうつむいてしまう。それを、何度か繰り返していた。

 辞めるにしても、自分の口から言わないと本人が後悔するだろう。

 岩見は急かすことはせず、自分から話し始めるまでじっくり待った。

「てください」

 あまりにもか細く小さな声だったので、岩見は聞き取ることができなかった。

「何だって」

 目を閉じて、ひとつ深呼吸をしてから、加美由はゆっくりと顔を上げた。

「野球の練習に、参加させてください」

 予想だにしなかったその言葉に、岩見は瞠目した。

「どういうことだ」

 岩見が問うと、加美由はまたうつむいて沈黙した。

 壁時計の針の音が、高くなる。

 しばらくして、こぶしを震わせた加美由は、顔を上げた。

「選手として、野球の練習に参加させてください」

「は」

「野球が、したいんです」

「いきなりどうしたんだ」

「野球が、したいんです」

 重ねて言った加美由は、岩見のことを見つめた。

「北田。お前はマネジャーとして本当によくやってくれている。部員らも、お前にはとても感謝しているはずだ。それなのに、どうして今頃になって、野球をやりたいなんて言うんだ」

「ずっと前から思ってました」

「何のために」

「自分のためです」

「お前なら知っているだろうが、高校野球では女子は公式戦に出られ」

 岩見の話を遮るように、加美由は腰を上げた。

「いけませんか」

 岩見を見下ろす加美由の肩は、小刻みに震えていた。

 少しの沈黙の後で、岩見が口を開く。

「今日はもう遅い。話は改めて聞くから、もう帰れ」

 岩見がなだめるように言うと、加美由は唇をかみしめた。

「失礼しました」

 弱弱しい声で言った後で、深く頭を下げた加美由は、職員室を出て行った。

 扉が閉まり、加美由の足音が聞こえなくなると、岩見は机の上に肘をつき、頭を抱えた。

 

 学校から徒歩十五分ほどのところにある居酒屋に、岩見の姿があった。

 おしぼりで手を拭きながら、視線は壁に掲げてあるメニューのあいだをせわしなく行き来していた。奥座敷では、大学生らしき連中が騒がしく飲んでいる。

 入口の扉が開き、安藤が暖簾をくぐってきた。店内をぐるっと見回して岩見の姿を見つけると、右手を上げた。

「すみません、遅くなりました」

 座敷に上がった安藤は、岩見の対面の座布団に座った。

「こちらこそお忙しいのにお呼び立てして、申し訳ありません」

 岩見が頭を下げると、安藤は、とんでもない、と言って顔の前で手を振った。

「生でよろしいですか」

「はい。お願いします」

 岩見は、奥のほうで待機していた若い店員を手招きした。

 少しして、冷えたジョッキが二つ運ばれてきた。二人は軽く乾杯し、ほぼ同時に口をつけた。

「ああ、うまい。久しぶりのアルコールは、身体に染み渡りますね」

 一気にジョッキの半分まで飲み干した後で、安藤は口についた泡を親指で拭った。

「家では、飲まれないんですか」

「家内が、身体に毒だとうるさいんですよ」

 安藤は、苦笑いを浮かべた。

 岩見と安藤が二人きりで飲むのは、これが初めてだった。監督と部長という立場ではあるが、二回りも歳が離れているので共通の話題に乏しく、普段から会話もあまりなかった。

 思いも寄らない岩見からの誘いに、安藤は最初戸惑ったが、一方で嬉しくもあった。

「お話とは、何ですか」

 注文した焼き鳥串の盛り合わせが運ばれたとき、安藤のほうから話を切り出した。

「実は、北田のことなんです」

「北田さん」

「北田から突然、野球をやらせてほしい、と言われまして。正直、私もどう対処したらいいのかわからなくて。安藤先生にご意見を伺えれば、と思った次第です」

「なるほど、やはりそうでしたか」

 安藤の言葉に、岩見は耳を疑った。

「知っていたんですか」

「いえいえ。ただ、夏の大会あたりから、北田さんが何か思い悩んでいるように感じていたんです」

 岩見は、目の前が暗くなる思いがした。

 毎回練習に出ているのにもかかわらず、加美由の変化にはまったく気づいていなかった。それが、たまにしか練習に来ていない安藤のほうが、加美由の心の機微を感じ取っていたとは。

「そういうことで悩んでいたのですね」

 安藤は、ジョッキに口をつけた。

 これが教師としての経験の差なのか、ただ単に自分の力不足なのか。

 岩見は、軽い自己嫌悪に陥った。

「それで、北田さんには何と」

「まだ、返事を保留している状態なんです」

「断る理由は、無いんじゃないですか」

「え」

「あれだけ周りに気配りのできる子ですから、みんなに迷惑を掛けたくないと、ずっと自分を抑えていたのでしょう。北田さんは相当な覚悟で言ったのだと思いますよ。教師として、生徒の意思は最大限に尊重すべきではないでしょうか」

「しかし、安藤先生もご存じでしょうが、男子の高校野球の公式戦で、女子は試合に出ることができません。仮に北田に野球をやらせても、それがあいつにとって良いことなのか、逆に苦しめてしまうのではないかと。それに、部員らも戸惑うと思いますし」

「北田さんは、そんなことは百も承知ですよ。試合に出る出ないは二の次。あの子はただ、純粋に野球をやりたいだけなのでしょう。岩見先生は監督ですから、チームへの影響を心配されるのは当然でしょうけど、私は心配ないと思います」

「根拠は、あるのですか」

「ありません。ただ」

「ただ」

「北田さんなら大丈夫だと、そう思っただけです」

 ひとりの生徒を、どうしてそこまで信頼できるのか。

「もちろん、決めるのは監督である岩見先生です。私は監督のいかなる決定にも従うつもりでいます」

 岩見のビールはすっかり温くなり、ジョッキの表面には水滴がたくさんついていた。


 昼休みに加美由は、外で一緒にお弁当を食べよう、と佐織を誘った。

 二人は弁当箱を持って、グラウンドが見渡せる芝生に並んで座った。

 夏の大会以降、二人の関係はぎくしゃくする一方だった。会話も少なくなり、部活が終わるといつも一緒に帰っていたのが、ここ最近は別々に帰るようになっていた。

 弁当の中身が半分以上減っても、二人のあいだに会話はなかった。黙々と、箸が進む音だけがした。

「ねえ」

 しびれを切らしたのは、佐織のほうだった。

「誘っておいて、何なの」

 加美由の箸がとまる。

「ごめん」

 加美由は、まだ中身が残っているにもかかわらず、弁当箱のふたを閉めた。

「この前ね、岩見先生に言ったの」

「何を」

「野球を、やらせてほしいって」

 加美由の声が、震える。

「どうしても野球がしたくなって、我慢できなくて。まだ先生から返事はもらっていないんだけど」

 声だけでなく、身体まで震えてくる。

「突然でごめん。でも、もし認められても、マネジャーのほうもちゃんとやるから。佐織には迷惑かけないから」

「迷惑だよ」

 佐織の一言に、加美由は慄然とした。

「加美由が言ってたんだよ。マネジャーの仕事って、そんな片手間でできるほど簡単なものじゃないんでしょ」

「それは」

「ちょっとくらいできるからって、自惚れないで」

 弁当箱の包みを結んだ佐織は腰を上げ、加美由に背を向け、校舎へ向かって歩き出した。

「佐織」

 加美由が立ち上がると、佐織は足をとめ、肩を震わせた。

「遅すぎだよ」

「え」

「何で、岩見先生にもっと早く言わなかったの」

 振り向いた佐織は、穏やかな笑みを浮かべていた。

「なんてね。加美由にしては上出来、上出来。よくできました」

 佐織は、小さく拍手の仕草をした。

「どういうこと」

「顔に書いてあるじゃん。野球がしたいって」

「え」

「中学のときから、ずっと我慢してたじゃない。高校でもまた我慢してるから、見ていられなくてさ。だから私、マネジャーになったの」

 加美由は、目を見張った。

「本当はね、マネジャーなんてやるつもりなかったんだ。でも、加美由が自分を押しころしているのがつらそうだったから。助けてあげたい、野球をやらせてあげたい、って思ったの」

 ひとつ息をついた後で、佐織は話を続けた。

「そしたら、加美由もまんまと野球部入ってきたから、よっしゃ作戦大成功、と思ったんだけど、マネジャーになっても相変わらず自分を押しころしてるから、ありゃりゃって。何で野球やらせてほしいって言わないんだろうなあって、ずっと思ってた。でもこの前、加美由が夜に素振りしているの見てさ、ああもうじきだなって安心したよ」

「知ってたの」

「バレバレだよ」

 佐織は、クスクス笑った。

「きっと、岩見先生ならわかってくれるよ。マネジャーのことは気にしないで。加美由にたくさん教わって、私も少しは上達したんだからね」

 佐織は、右手の親指を立てた。

「どうして」

「どうしてって、決まってるじゃない」

「え」

「私たち、親友でしょ」

 加美由は、芝生に膝をついた。

 佐織はしゃがんで、加美由の肩にそっと手を置いた。

「もう、我慢しないで」

 加美由の双眸から、涙があふれ出した。

「私はずっと、加美由の味方だから」

 加美由は、声を上げて泣いた。


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