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夏休みが終わり、二学期が始まったその日。時刻は午後八時を回っていた。
岩見は、職員室の自分の席に座っていた。パソコンの電源はついているが触れることもなく、ただぼんやりとディスプレイを眺めていた。岩見の他に教師の姿はなく、室内はがらんとしていた。
練習終了後、加美由から、個人的に相談したいことがある、と言われた。岩見は嫌な予感がした。そのときの加美由の思い詰めたような表情は、次々と辞めていった部員たちの表情とよく似ていた。
あれから反省して指導方針を改めたはずなのに、また退部者を出してしまうのか。いったい、俺のどこが悪いのか。
岩見は、深いため息をついた。
ノックの音がして岩見が返事をすると、ガラガラと音を立てて扉が開いた。
そこには、ジャージから制服に着替えた加美由が、うつむいて立っていた。
岩見は、自分のとなりの教師の席に座るよう促した。職員室に入った加美由は、恐る恐るその席に腰掛けた。
「相談したいことって、何だ」
岩見が訊ねると、うつむく加美由は膝の上に置いていた手をぎゅっと握った。
時折何か言おうとして顔を上げるのだが、すぐにうつむいてしまう。それを、何度か繰り返していた。
辞めるにしても、自分の口から言わないと本人が後悔するだろう。
岩見は急かすことはせず、自分から話し始めるまでじっくり待った。
「てください」
あまりにもか細く小さな声だったので、岩見は聞き取ることができなかった。
「何だって」
目を閉じて、ひとつ深呼吸をしてから、加美由はゆっくりと顔を上げた。
「野球の練習に、参加させてください」
予想だにしなかったその言葉に、岩見は瞠目した。
「どういうことだ」
岩見が問うと、加美由はまたうつむいて沈黙した。
壁時計の針の音が、高くなる。
しばらくして、こぶしを震わせた加美由は、顔を上げた。
「選手として、野球の練習に参加させてください」
「は」
「野球が、したいんです」
「いきなりどうしたんだ」
「野球が、したいんです」
重ねて言った加美由は、岩見のことを見つめた。
「北田。お前はマネジャーとして本当によくやってくれている。部員らも、お前にはとても感謝しているはずだ。それなのに、どうして今頃になって、野球をやりたいなんて言うんだ」
「ずっと前から思ってました」
「何のために」
「自分のためです」
「お前なら知っているだろうが、高校野球では女子は公式戦に出られ」
岩見の話を遮るように、加美由は腰を上げた。
「いけませんか」
岩見を見下ろす加美由の肩は、小刻みに震えていた。
少しの沈黙の後で、岩見が口を開く。
「今日はもう遅い。話は改めて聞くから、もう帰れ」
岩見がなだめるように言うと、加美由は唇をかみしめた。
「失礼しました」
弱弱しい声で言った後で、深く頭を下げた加美由は、職員室を出て行った。
扉が閉まり、加美由の足音が聞こえなくなると、岩見は机の上に肘をつき、頭を抱えた。
学校から徒歩十五分ほどのところにある居酒屋に、岩見の姿があった。
おしぼりで手を拭きながら、視線は壁に掲げてあるメニューのあいだをせわしなく行き来していた。奥座敷では、大学生らしき連中が騒がしく飲んでいる。
入口の扉が開き、安藤が暖簾をくぐってきた。店内をぐるっと見回して岩見の姿を見つけると、右手を上げた。
「すみません、遅くなりました」
座敷に上がった安藤は、岩見の対面の座布団に座った。
「こちらこそお忙しいのにお呼び立てして、申し訳ありません」
岩見が頭を下げると、安藤は、とんでもない、と言って顔の前で手を振った。
「生でよろしいですか」
「はい。お願いします」
岩見は、奥のほうで待機していた若い店員を手招きした。
少しして、冷えたジョッキが二つ運ばれてきた。二人は軽く乾杯し、ほぼ同時に口をつけた。
「ああ、うまい。久しぶりのアルコールは、身体に染み渡りますね」
一気にジョッキの半分まで飲み干した後で、安藤は口についた泡を親指で拭った。
「家では、飲まれないんですか」
「家内が、身体に毒だとうるさいんですよ」
安藤は、苦笑いを浮かべた。
岩見と安藤が二人きりで飲むのは、これが初めてだった。監督と部長という立場ではあるが、二回りも歳が離れているので共通の話題に乏しく、普段から会話もあまりなかった。
思いも寄らない岩見からの誘いに、安藤は最初戸惑ったが、一方で嬉しくもあった。
「お話とは、何ですか」
注文した焼き鳥串の盛り合わせが運ばれたとき、安藤のほうから話を切り出した。
「実は、北田のことなんです」
「北田さん」
「北田から突然、野球をやらせてほしい、と言われまして。正直、私もどう対処したらいいのかわからなくて。安藤先生にご意見を伺えれば、と思った次第です」
「なるほど、やはりそうでしたか」
安藤の言葉に、岩見は耳を疑った。
「知っていたんですか」
「いえいえ。ただ、夏の大会あたりから、北田さんが何か思い悩んでいるように感じていたんです」
岩見は、目の前が暗くなる思いがした。
毎回練習に出ているのにもかかわらず、加美由の変化にはまったく気づいていなかった。それが、たまにしか練習に来ていない安藤のほうが、加美由の心の機微を感じ取っていたとは。
「そういうことで悩んでいたのですね」
安藤は、ジョッキに口をつけた。
これが教師としての経験の差なのか、ただ単に自分の力不足なのか。
岩見は、軽い自己嫌悪に陥った。
「それで、北田さんには何と」
「まだ、返事を保留している状態なんです」
「断る理由は、無いんじゃないですか」
「え」
「あれだけ周りに気配りのできる子ですから、みんなに迷惑を掛けたくないと、ずっと自分を抑えていたのでしょう。北田さんは相当な覚悟で言ったのだと思いますよ。教師として、生徒の意思は最大限に尊重すべきではないでしょうか」
「しかし、安藤先生もご存じでしょうが、男子の高校野球の公式戦で、女子は試合に出ることができません。仮に北田に野球をやらせても、それがあいつにとって良いことなのか、逆に苦しめてしまうのではないかと。それに、部員らも戸惑うと思いますし」
「北田さんは、そんなことは百も承知ですよ。試合に出る出ないは二の次。あの子はただ、純粋に野球をやりたいだけなのでしょう。岩見先生は監督ですから、チームへの影響を心配されるのは当然でしょうけど、私は心配ないと思います」
「根拠は、あるのですか」
「ありません。ただ」
「ただ」
「北田さんなら大丈夫だと、そう思っただけです」
ひとりの生徒を、どうしてそこまで信頼できるのか。
「もちろん、決めるのは監督である岩見先生です。私は監督のいかなる決定にも従うつもりでいます」
岩見のビールはすっかり温くなり、ジョッキの表面には水滴がたくさんついていた。
昼休みに加美由は、外で一緒にお弁当を食べよう、と佐織を誘った。
二人は弁当箱を持って、グラウンドが見渡せる芝生に並んで座った。
夏の大会以降、二人の関係はぎくしゃくする一方だった。会話も少なくなり、部活が終わるといつも一緒に帰っていたのが、ここ最近は別々に帰るようになっていた。
弁当の中身が半分以上減っても、二人のあいだに会話はなかった。黙々と、箸が進む音だけがした。
「ねえ」
しびれを切らしたのは、佐織のほうだった。
「誘っておいて、何なの」
加美由の箸がとまる。
「ごめん」
加美由は、まだ中身が残っているにもかかわらず、弁当箱のふたを閉めた。
「この前ね、岩見先生に言ったの」
「何を」
「野球を、やらせてほしいって」
加美由の声が、震える。
「どうしても野球がしたくなって、我慢できなくて。まだ先生から返事はもらっていないんだけど」
声だけでなく、身体まで震えてくる。
「突然でごめん。でも、もし認められても、マネジャーのほうもちゃんとやるから。佐織には迷惑かけないから」
「迷惑だよ」
佐織の一言に、加美由は慄然とした。
「加美由が言ってたんだよ。マネジャーの仕事って、そんな片手間でできるほど簡単なものじゃないんでしょ」
「それは」
「ちょっとくらいできるからって、自惚れないで」
弁当箱の包みを結んだ佐織は腰を上げ、加美由に背を向け、校舎へ向かって歩き出した。
「佐織」
加美由が立ち上がると、佐織は足をとめ、肩を震わせた。
「遅すぎだよ」
「え」
「何で、岩見先生にもっと早く言わなかったの」
振り向いた佐織は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「なんてね。加美由にしては上出来、上出来。よくできました」
佐織は、小さく拍手の仕草をした。
「どういうこと」
「顔に書いてあるじゃん。野球がしたいって」
「え」
「中学のときから、ずっと我慢してたじゃない。高校でもまた我慢してるから、見ていられなくてさ。だから私、マネジャーになったの」
加美由は、目を見張った。
「本当はね、マネジャーなんてやるつもりなかったんだ。でも、加美由が自分を押しころしているのがつらそうだったから。助けてあげたい、野球をやらせてあげたい、って思ったの」
ひとつ息をついた後で、佐織は話を続けた。
「そしたら、加美由もまんまと野球部入ってきたから、よっしゃ作戦大成功、と思ったんだけど、マネジャーになっても相変わらず自分を押しころしてるから、ありゃりゃって。何で野球やらせてほしいって言わないんだろうなあって、ずっと思ってた。でもこの前、加美由が夜に素振りしているの見てさ、ああもうじきだなって安心したよ」
「知ってたの」
「バレバレだよ」
佐織は、クスクス笑った。
「きっと、岩見先生ならわかってくれるよ。マネジャーのことは気にしないで。加美由にたくさん教わって、私も少しは上達したんだからね」
佐織は、右手の親指を立てた。
「どうして」
「どうしてって、決まってるじゃない」
「え」
「私たち、親友でしょ」
加美由は、芝生に膝をついた。
佐織はしゃがんで、加美由の肩にそっと手を置いた。
「もう、我慢しないで」
加美由の双眸から、涙があふれ出した。
「私はずっと、加美由の味方だから」
加美由は、声を上げて泣いた。




