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加美由  作者: 白崎由宇
7/26

6

「照明落ちるぞ。グラウンド整備急げよ」

 新たに主将になった白石が声をかけると、一年生たちは練習終わりで疲れきった身体に鞭を打ち、整備用のトンボを走らせた。二年生たちは、すでにユニフォームから制服に着替え、家路につこうとしていた。

「くそっ、上級生はいいよなあ」

「新人が入ってくるまで、まだ半年以上もあるのか。長えな」

「後輩ができたら、俺もこき使ってやる」

 下級生の恨み節はとまらなかった。こうして、伝統は脈々と受け継がれていく。

 照明が落ち、予備灯に切り替わる。その青白い明かりは、グラウンドを淡く照らした。

 整備を終えた一年生たちは、錆びついたトタン屋根の倉庫にトンボをしまうと、部室へと続く階段を足早に上っていった。

「私たちも戻ろうよ」

 佐織が、まだひとりで黙々とマウンドを均している加美由に話しかけた。

「先に帰っていいよ」

 視線をトンボに向けたまま、加美由は呟くように言った。

「もう均し終わったんじゃないの」

「見た目はね。でもマウンドがまだフカフカになっているから、固めておかないと」

 加美由は、プレートの脇に土を盛り、両足で踏み固め始めた。

「そういうのは男子がやることでしょ」

「男子も女子も関係ない。気がついた人がやればいい」

 足跡のついたマウンドを、再びトンボで丁寧に均した。

 しゃがんだ佐織は、加美由の顔を覗き込んだ。

「最近、遅くまで残ってるよね。何してるの」

「別に」

「私には教えてくれないんだ」

 加美由が口をつぐむと、佐織はすくっと立ち上がり、黙って部室へと戻っていった。

 予備灯の明かりも落ち、辺りは暗闇に包まれた。ついさっきまで騒がしかった部室も、静けさを取り戻していた。

 均し終わったマウンドから降りた加美由は、トンボを肩に担ぎながら倉庫へ向かった。

 長年、部員たちによって乱暴に開け閉めされた扉は機嫌が悪く、開けるたびに人が呻くような気味の悪い音を鳴らす。倉庫の中はトンボの他にベースやラインマーカー、ライン引き用の石灰の袋が無造作に置かれていた。

 トンボを逆さまにして壁に立てかけ、手に付いた土埃を軽くはらうと、倉庫の奥の錆びた青いカゴの中にある、もう古くなって使われなくなったバットのうちの一本を手に取った。

 その銀色のバットは、グリップエンドに松脂がべったりとくっついて、黒くなっていた。グリップのゴムは破け、見栄えはかなり悪い。グリップを両手でしっかりと握り、絞るようにして感触を確かめた。

 倉庫を出て、バットを持ったままバックネット裏に向かった。低い草が鬱蒼と生い茂る中に、楕円形上に草がほとんど生えていないところがあった。そこの中心に立ち、おもむろに空を見上げた。雲ひとつない夜空には、溢れんばかりの星が瞬いていた。

 深呼吸をした後で、右手に持っていたバットを両手で握り、グリップを頭の位置まで持っていき、両足を肩幅ぐらいまで広げた。やや腰を落として静止し、ゆっくりと目を閉じる。数刻の後に目を開くと、右膝を左膝より高い位置に持っていってから、右足を前方に勢いよく踏み出した。

 静寂の中に響き渡る、空気を斬り裂くような音。周りにいた虫たちは恐れおののいたのか、鳴くのをやめて沈黙した。

 耳元で、自分の鼓動が聞こえるようだった。身体が、熱くなってくるのがわかった。

 この感覚、忘れないようにしないと。

 心の中で呟いた後で、静かにバットを構えた。

 玄関のドアを開けると、都子がスリッパをパタパタと鳴らしながらやってきた。

「ただいま」

「お帰り。あら、また汗だくじゃない。マネジャーの仕事って、そんなに汗かくことあるの」

 都子は、首をひねった。

「うん。まあ」

「お風呂沸いているから、早く入りなさい」

「おなか空いたから、先にご飯食べたい」

「だめ。風邪引いちゃうでしょ。温泉の素を入れてあるから、気持ち良いわよ。ちなみに今日は(べつ)()、明日は()()を予定しています」

 得意げな都子の顔を見て、加美由は眉をひそめた。

「あら、何か不満。今夜は加美由の大好物のしょうが焼きを作ってあげたんだから、楽しみにしてなさい」

 生まれてから十六年、未だに母のテンションの高さについていけないことが多々ある。ため息をつきそうになるのをこらえつつ、着替えを取りに二階の自分の部屋へ向かった。

 お風呂から上がってパジャマに着替え、リビングに入った。食卓のしょうが焼きを目にした途端に、おなかの虫がぐうと鳴った。

 都子と向かい合って座るやいなや、しょうが焼きを口に運んだ。甘めのタレが、食欲をそそる。黙々とご飯をかき込む娘の姿に、都子は目を細めた。

「お願いがあるんだけど」

 食事を終えた加美由に、都子が切り出した。

「今度の日曜日って、予定ある」

「午前中は練習だけど、午後なら空いてる。恵理のところでしょ」

「さすが加美由、話が早い。着替え持って行ってもらっていい。私、仕事でどうしても抜けられないの」

「うん」

「悪いね、いつも」

「全然。恵理に会えるし」

「加美由は、お姉ちゃん子だもんね」

 加美由は、少し頬を赤らめた。

 玄関に、人の気配がした。都子が目を向けると、そこには仕事から帰ってきた敏郎が、カバンを持ったままぼんやりと立っていた。

「幽霊かと思った」

「亭主に対して失礼な。お帰りなさいくらい言ったらどうだ」

「あなたには、オーラが足りないの。だから存在感がないのよ」

「お前が常にオーラを出しすぎなんだ」

 いつもの不毛な夫婦喧嘩を眺めながら、加美由は麦茶をごくりと飲んだ。

 

 学校から病院までは、自転車で二〇分ほどかかった。

 病院は小高い丘の上にあるため、辿り着くには通称「地獄坂」と呼ばれる、傾斜のきつい坂を登らないといけない。自転車を利用する大抵の人は、漕ぐのを諦めて押して歩くのだが、加美由は立ち漕ぎで難なく登りきってしまう。

 登った後は、息を整えながら周りの景色を眺めるのが習慣になっていた。遠くの山並み、賑わう商店街、閑静な住宅街、すべてが一望できるこの丘は、加美由のお気に入りだった。

 正面玄関から入って右奥のエレベーターに乗り、四階のボタンを押す。到着しドアが開くと、白い大きな扉が目に入った。扉の左側には簡素なテーブルがあり、その上に数枚の紙が置いてあった。その紙を一枚取り、ボールペンで自分の名前と姉の名前を書き込んだ。

 書き終わると、壁に備え付けられているインターホンのボタンを押した。少しした後で、インターホンから女性の抑揚のない返事が聞こえた。

「北田恵理の家族の者です」

「中に入りましたら、面会票をナースステーションに提出してください」

 事前に録音していたかのような応答の後、白い扉の鍵がガチャリと開く音がした。

 ひんやりと冷たいドアノブをゆっくりと右に回し、少し力を入れて扉を押し開けた。

 病棟は照明が薄暗く、ひっそりとしていた。アルコール消毒の独特の臭いが鼻をつく。

 左奥の病室に向かって、廊下を進んだ。制服姿の女子高生がよほど珍しいのだろうか、途中、男性の入院患者の好奇な目に晒される。最初のうちは戸惑ったが、何度も通っているうちに慣れてしまい、今ではまったく気にならなくなった。

 四一三号室の扉の前に立って小窓から中の様子を見てみると、恵理はベッドの上に行儀よく座り、ブックカバーのかかった分厚い本を静かに読んでいた。軽く二回ノックしてから扉を開けると、恵理は本を膝の上に置いた。

「いらっしゃい」

 着替えの入った紙袋を、加美由は黙って差し出した。

「いつもありがとう。助かる」

 紙袋の中を確認した後で、恵理は微笑んだ。

「ちょっと洗濯物溜まっちゃっててさ。帰るときのほうが重くなっちゃうみたいで、ごめん」

 加美由は、首を横に振った。

「お礼に、コーヒー奢るからね」

 純白の入院着に負けないくらい、恵理の肌は透き通るほど白かった。

 ナースステーションで外出許可をもらった二人は、一階の自動販売機で缶コーヒーを二本買い、正面玄関を出て中庭に行き、ベンチに並んで座った。

 ベンチの前には小さな噴水があり、その周りの花壇にはパンジーなどの色鮮やかな花々が植えられていた。

 恵理が缶コーヒーのプルタブを開けて一口飲んだのを確認すると、加美由はポケットからタバコとライターを取り出した。

「よく買えたね」

「私が買えるわけないでしょ。お父さんが恵理に持って行けって」

「さすがお父さん。気がきく」

 恵理はタバコを口にくわえ、ライターで火をつけると、となりに座る加美由にかからないように、空に向かって白い息をはいた。

「久しぶりだからおいしい。加美由も吸う」

「冗談でしょ」

「冗談だよ」

 恵理は悪戯っぽく笑った。

 タバコを一本吸い終えた恵理は、気持ちよさそうに伸びをした。

「調子はどうなの」

 加美由が訊ねると、恵理は自分の足元に目を移した。

「良くなったり、悪くなったりの繰り返し。可もなく不可もなく。同じか」

「そう」

「今度は、完璧に治してから退院したいな。中途半端に退院したら、またみんなに迷惑をかけちゃうだろうし」

「恵理」

「ん」

「私は、恵理が退院して迷惑だと思ったことは、一度もない」

 顔を上げた恵理は、加美由のことを見つめた。

「ありがとう」

 恵理は、にっこり笑った。

 コーヒーを飲み干した後で、恵理が尋ねた。

「加美由のほうこそ、どうなの」

「何が」

「学校」

「え」

「楽しい」

 加美由は、唇をそっとかんだ。

「楽しいわけ、ないよね」

 恵理には、すべてを見透かされているような気がした。

「野球、やりたいんでしょ」

 胸が、張り裂けそうになった。

「何で我慢してるの」

「知ってるでしょ。女子は試合に出られないって」

「それがわかってて、何でマネジャー続けてるの」

「佐織に誘われたから」

「断ろうと思えばできたはず。続けてるのは、未練があるからでしょ。野球に」

 返す言葉も、なかった。

「高校生活は、三年間しかないんだよ。我慢、未練ばっかりじゃ、もったいないよ」

 恵理は、加美由の肩にそっと手を添えた。

「試合に出られなくても、野球はできる」

「どういうこと」

「試合だけが野球じゃないでしょ。練習だって立派な野球だよ。キャッチボール、ノック、走塁。それには女子はだめだっていう決まりはない。そこに、参加させてもらったら」

「でも、やっぱり野球は試合に出ないと」

「試合にも出られる」

「え」

「女子が出られないのは、公式戦だけ」

「公式戦」

「練習試合なら、出られる可能性はある」

 そんなことはもちろん加美由もわかっていたが、恵理から改めて言われると、なぜだか心にずしりと響いた。

「でも、そのためには、人一倍努力をしなきゃいけない。監督さんやチームメイトに認めてもらわないと。これだけ頑張っているんだから、試合に出してあげなくちゃ、って」

 加美由は、息をのんだ。

「私の高校生活は、後悔ばかりだったからね。せめて加美由には、悔いのないようにしてもらいたいんだ」

 恵理は加美由の背中を、優しくさすった。

 加美由の脳裏に、リトル時代の試合の光景がよぎった。

 ヒットを放った加美由が一塁ベース上でスタンドに目をやると、恵理がメガホンを叩きながらはしゃいでいた。

 ナイスバッティング。

 陽光を浴びた恵理の笑顔は、直視できないほどに眩しかった。

「恵理」

「ん」

「ありがとう」

 恵理は、照れくさそうに笑った。


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