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試合会場は、築四十年ほどにもなる、老朽化した県営球場だった。
岩見の運転するマイクロバスから降りた部員たちは、目の前の光景に唖然とした。小さな駐車場に大型バスが八台も連なって停まっていて、周りには黒山の人だかりができていた。
幕張中央は、一回戦から全校応援だった。球場のスタンドに入りきれないくらいの数で、溢れた人たちはバックネット裏にまで陣取っていた。
対する成田東の応援はというと、生徒、家族、OBも含めて三十人にも満たない状態であった。当然ながらブラスバンドやチアリーディングなどの華やかなものは無く、スタンドは閑古鳥が鳴いていた。
「愛校心がないねえ」
スタンドを見回した佐織は、ため息をついた。
シートノック開始直前、岩見は部員たちをベンチ前に集めた。
「お前らは確実にレベルアップしている。自信を持て。いい試合をしようなどと思うな。絶対に勝つと思え」
岩見の檄に、部員たちはこれまで以上に気合の入った返事をした。加美由は、部員たちから少し離れたところで、その様子を静かに見つめた。
岩見から、改めてスターティングメンバーが発表された。注目のサードのスタメンは、横山が選ばれた。
岩見の予想は、的中した。幕張中央はエースの松原を温存し、控えの山根を先発にもってきた。豪腕の松原から打つのは難しいが、技巧派の山根なら横山でも打てる可能性はある。
松原対策だけでなく、同じ技巧派の竹下が投げるバッティング練習で、山根対策も抜かりはなかった。大会前最後の練習で、横山は柵越えを二本放っていた。序盤で点を取って逃げ切るためにも、岩見は横山の長打力に賭けた。
「よし、奇跡を起こしてやろうぜ」
部員たちの輪の中で、主将の山口が言った。部員たちは、スタンドが震えそうなくらいの大きな声を出した。
成田東のシートノックの時間になると、部員たちは一斉にグラウンドへ散っていった。
いつもの癖で球渡しのためにグラウンドに出ようとしてしまった加美由だったが、途中で気づき足をとめた。
「どうかしましたか」
立ち尽くす加美由に、安藤が声をかけた。
「いえ」
加美由はベンチに座り、スコアブックを手に取った。
試合前の挨拶が終わり、後攻の幕張中央がポジションにつく。マウンドでは、背番号十の山根が投球練習を開始した。身長は百七十センチほどで細身。左のスリークォーターから、さほど速くないストレートと変化球を投げ込んでいた。まさに左の竹下、という印象だった。
「なんだかいけそうな気がする」
山根の投球を目にした横山が、嬉しそうに言った。他の部員たちも同じ思いだったのか、一様に表情は明るかった。
そんな簡単には、いかないと思うけど。
心の中でつぶやいた加美由は、スコアブックにペンを走らせた。
主審の右手が上がると同時に、サイレンが鳴った。
一番の山口がバッターボックスで構えると、山根が投球動作に入った。右足が上がり、左腕が振り降ろされる。
「ストライク」
主審の甲高い声がこだまする。山口は初球から積極的に打っていくタイプで、特に一打席目の一球目は、だいたいのピッチャーがストレートを放るため、ヒットを打つ確率が高かった。その山口がストレートに山を張り、予想どおりストレートがきたにもかかわらず、バットを出すことができなかった。
球速自体は大して出ていないのに、山根のストレートはスピンが効いていて、キレがあった。山口は、手元で浮き上がってくるような錯覚に襲われた。
山根は初回をストレートのみで、簡単に三者凡退に打ち取った。ベンチで見ていた部員たちは、なぜあんな速くもないストレートに振り遅れるのか、理解に苦しんだ。
「意識を変えろ。山根は技巧派じゃない」
ナインが守備につく前に、山口が血相を変えて言った。
「どういうことだ」
岩見が訊ねる。
「浮き上がってくるんですよ、球が」
山口は右手を使って、浮き上がるイメージをつくった。二番の古屋と三番の白石も、大きくうなずいた。
「そんなわけないじゃないですか。ただの遅いストレートですよ」
横山がおどけた口調で言うと、三人は横山のことを睨んだ。
「実際にバッターボックスに立った人が言うんだから、間違いないでしょ」
その横山に反論したのが岩見でも山口でもなく加美由だったので、部員たちは目を見張った。
「北田の言うとおりだ。早く守備につけ」
岩見の指示が飛ぶと。ナインは慌てて各々のポジションへ向かった。
「どうした」
岩見は、スコアブックをつけている加美由に訊ねた。
「すみません、つい」
「いつもおとなしいお前が、珍しいな」
岩見が言うと、加美由は眉をひそめた。
横山の態度に憤りを覚えたのは事実だったが、普段なら心に思うだけで決して口にすることはないはずなのに、無意識のうちに口をついて出てしまった。
グラウンドが眼前にあって、感情を抑えられなかった自分を恥じた。
竹下も、立ち上がりは抜群だった。強力な幕張中央打線を、得意のカーブを決め球にして、三者凡退に打ち取った。球は低めに集まり、三つのアウトはすべて内野ゴロだった。
「竹下、よく投げた」
岩見がねぎらいの言葉をかけると、竹下は照れくさそうに笑った。
「いいか、なるべくバッターボックスの後ろに立って、山根の球筋をじっくりと見極めろ。初球は捨ててもいいから、淡泊なバッティングだけはするな。粘って粘って、山根に球数を投げさせるんだ」
岩見の指示に、部員たちは気合いの入った声を出した。
「小宮、頼んだぞ」
岩見が声をかけると、ネクストバッターズサークルで準備をしていた小宮はこくりとうなずいた。
小宮がバッターボックスに入ると、幕張中央の外野陣は後方へ移動した。小宮が警戒すべきバッターだということは、相手にもよく知られているようだった。それもそのはずで、小宮は高校進学の際、幕張中央の推薦入学の話を断っていた。
幕張中央の監督である相馬は、小宮の才能に惚れこんでいたため、断られたときの落胆は大きかった。一回戦で成田東との対戦が決まると、相馬はミーティングで、小宮に最大限の注意を払うよう部員たちに伝えていた。
「小宮だけは格が違う。松原、山根、全力で抑えにいけ。決して甘く見るな」
相馬に言われるまでもなく、宝田シニアの四番だった小宮の実力は、部員たちにも知れ渡っていた。小宮が成田東へ進学したことは、県内の高校球児のあいだでも、ちょっとした話題になっていたほどだった。
初球は、小さく変化するスライダーだった。外角低めに決まり、ストライク。山根はこの試合、初めての変化球を小宮に投げた。二球目もスライダー、一球目とまったく同じコースに決まったが、小宮はピクリとも動かなかった。
小宮がストレート狙いであると見極めた幕張中央バッテリーは、大胆にも三球勝負に出た。山根の投じたスライダーが、内角の厳しいコースに行く。小宮は、体勢をやや崩しながらも、腕をたたんで思いっきり引っ張った。
打球が一、二塁間を鋭く抜けライト前に転がると、ベンチは大いに盛り上がった。
完全に裏をかいた配球だったが、事も無げにヒットにされてしまった。さぞかしショックかと思いきや、山根はそんなそぶりはいっさい見せず、淡々とロジンバッグを握っていた。
岩見は五番の三輪に送りバントのサインを出したが、サインが出た瞬間に三輪の顔が引きつった。嫌な予感がした岩見だったが、時すでに遅し。山根の伸びのあるストレートに詰まって、キャッチャーへのファウルフライを打ち上げてしまった。続く六番の広瀬にも送りバントのサインを出したが、三球続けて失敗してしまい、小宮は一塁に釘づけとなった。
「横山、球をよく見ていけよ」
諦念した岩見が声をかけると。横山は親指を立てた。勢いよくバットを二回振り、嬉々としてバッターボックスに入っていった。
岩見の指示に従い、バッターボックスの一番後ろに立った。浮き上がるストレートとはどういうものか、じっくり見てやろうと思った。
一塁に一球牽制した後、山根はクイックモーションから内角にストレートを投げ込んだ。
乾いたミットの音が響く。山口の言っていたことは、間違いではなかった。確かに、浮き上がって見える。
二球目も内角高め、横山は強振したが、完全に振り遅れていた。あっという間に追い込まれ、カウントはノーボール・ツーストライク。
幕張中央のキャッチャー、小池は、一球外すようにサインを出した。山根は小さくうなずき、外角高めにストレートを投げ込んだ。意地になった横山は、明らかなボールの球にバットを伸ばした。
打球は力なく、フラフラとライトへ上がった。前進守備のライトがゆっくりと後ろに下がるが、いつまで経ってもグラブを構えようとしない。打球を見失ってしまったかのように、茫然と空を見上げていた。
見失ったわけではなかった。打球は力のないまま外野フェンスを越え、スタンドの芝生に着地した。
超満員の三塁側スタンドが、一瞬にして静まり返る。対する一塁側ベンチも時がとまったかのような静寂に包まれていたが、横山がベンチに戻ってくると大きな歓声が湧き上がった。
放心状態の横山だったが、群がる部員たちに手荒い祝福を受けて、ようやく我に返った。岩見も、信じられない、といった様子で何度も首をひねっていた。
明らかな、キャッチャーの配球ミス。
盛り上がるベンチの中で、加美由は冷静に分析した。
横山が追い込まれて喰らいつくのは目に見えていた。外すならもっと届かないところに投げるべきだったし、もし変化球を一球でも投げていれば、横山は高い確率で三振していただろう。相手キャッチャーが、横山のことを甘く見ていたとしか思えなかった。
加美由がマウンドに目をやると、小池が山根に対して申し訳なさそうに手を合わせていた。気にするな、とでも言うように、山根は首を横に振った。
試合は、五回まで膠着状態となった。
竹下は毎回のようにヒットでランナーを出すものの、味方の好守備にも助けられ、要所を締めた。
圧巻だったのは山根で、横山からホームランを打たれてから、一人のランナーも許さなかった。表情をいっさい変えず黙々と、テンポよく丁寧に投げていた。小宮との二度目の対決も、得意のスライダーで勝負し、今度はセカンドゴロに打ち取った。
「竹下の球数は」
岩見に訊かれた加美由は、スコアブックを見返した。
「九十球です」
「多いな」
岩見は眉をひそめた。
幕張中央の各バッターは、ファウルでよく粘っていた。竹下の体力は、確実に消耗していた。顔から、とめどなく汗が噴き出している。加美由には、二点リードされているはずの幕張中央ナインの表情のほうが、ずっと余裕があるように感じられた。
六回の裏、幕張中央の反撃が始まった。二アウト一、二塁から、タイムリーヒットで一点差とした。竹下は何とか後続を断ったが、この回だけでも二十五球を投げ、投球数は百十五球に到達した。肩で息をする竹下は、ベンチにもたれ掛かって座り、タオルで大粒の汗を拭った。
「竹下は頑張っているぞ。助けてやろうぜ」
円陣の中で、山口が手を叩きながらナインを鼓舞した直後、それを打ち消すような絶望的な音が、三塁側ブルペンから聞こえてきた。
幕張中央、背番号一、松原が投球練習を始めていた。
身長は百九十センチ近くもある巨漢で、腹の肉がベルトからはみ出ていた。ピッチャーというよりは、キャッチャーのほうが似合いそうな体躯だった。丸太のような右腕から放たれた速球は、ブルペンキャッチャーのミットを突き破りそうなほどの勢いで飛び込んでいく。重低音が、グラウンド全体に響き渡る。
その音を耳にした瞬間、加美由は身体が震えた。
奥底から湧き上がってくる強烈な何かを、必死に押さえつけようとした。
七回の表、先頭の白石が三振に倒れ、小宮が三度目の打席に立った。
幕張中央バッテリーは、前の打席の変化球攻めとは一転、ストレート勝負に出た。山根のキレのいい球が、小宮の内角をえぐる。小宮もファウルで粘って、タイミングを徐々に合わせていった。
七球目、ストレートが外角低めに来ると、小宮は右足をベース寄りに踏み出し、その球を弾き返した。打球が左中間を鋭く破ると、一気に二塁まで達した。相手バッテリーの配球を、完全に読みきっていた。
続く三輪は、ストレートに完全に詰まらされ、浅いレフトフライに倒れた。二アウトとなり、打席には、最後の大会に賭ける三年生、広瀬が立った。
広瀬は、山根の一向に勢いの衰えないストレートに、必死に食らいついていった。粘りに粘った九球目、スライダーを引っかけた打球は、サードの方向に力なく転がった。広瀬は全力で一塁に駆け込んだ。際どいタイミングだったが、判定はセーフ。内野安打で二アウト一、三塁となり、ホームランを打っている横山に打順が回った。
すると、幕張中央ベンチからタイムがかかった。ブルペンから松原が、その巨体を揺らしながらマウンドに小走りで向かっていった。
「いよいよエースのお出ましか」
小さく呟いた横山は、グリップを握る手に力を込めた。
「ナイスピッチングでした」
三年生の山根に敬意を払うように、二年生の松原は頭を下げ、丸い顔をさらに丸くしたような笑みをつくった。
「頼んだ」
松原の肩をグラブでぽんと叩いてから、山根はマウンドを降りていった。三塁側スタンドから山根へ、割れんばかりの拍手が送られた。
マウンドの足場を均し、松原が投球練習に入る。重低音が近くなり、地面が揺れるようだった。
横山はバッターボックスの一番後ろに立ち、バットを握りこぶし一個分短く持った。簡単にホームランを打てるような球ではないことは、自分でもわかっていた。
セットポジションに入った松原は、左足を少し上げ、踏み出した。
右腕が振り下ろされると同時に、球はミットに吸い込まれた。
横山は、ぴくりとも反応することができなかった。
山根とは比べものにならない、すさまじい威力の球。血の気が引くのと同時に、冷たい汗が頬を伝った。それでも横山は、バットを更に短く持ち、食らいつこうとした。
勝負は、三球で決した。松原は、ストレートを三つ投げただけだった。横山のバットは、かすりもしなかった。
静まり返る成田東ベンチに、パキッと小さな音がこだました。
加美由の握りしめたペンが、真ん中から折れていた。
七回の裏、眠っていた幕張中央打線が、疲労困憊の竹下に容赦なく襲いかかった。七本の長短打で一挙に五点を奪い逆転し、この時点で試合の雌雄は決した。
八回の表、松原は成田東の下位打線を、ストレートのみで三者連続三振に斬って取った。
その裏に幕張中央はさらに三点を奪い、七点差がついたためコールドゲームが成立した。
試合終了後、球場外の駐車場に部員たちは輪になって座った。
「一時は活動停止までいったチームが、こうして幕張中央みたいな強豪と試合ができるまでになった。お前たちには本当に感謝している。ありがとう」
主将の山口の言葉に、後輩部員たちは嗚咽し、うずくまって泣いた。岩見の目も、少しばかり赤くなっていた。
「お前たちはまだまだ強くなる。松原を引きずり出すところまでいったんだ。もっと自信を持て」
山口のエールに、後輩部員たちは泣き叫ぶような声で応えた。
「先輩たち、これで最後なんて可哀想」
佐織はぽろぽろと涙をこぼしながら、となりの加美由の制服の袖を引っ張ったが、反応はなかった。
目を向けると、加美由はぼうっとしていた。
袖を強く引っ張られて我に返った加美由は、佐織のほうを向いた。鼻を啜りながら、険しい表情をしている。
「何」
加美由が訊ねると、佐織はぷいっと顔を背けた。
涙を流す余裕など、なかった。
敗戦の悔しさよりも、遥かに強いものに支配されていた。




