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夏の大会まで、十日を切った。
この時期になると、これまでの曜日ごとにメニューを変える練習から、サインプレー、中継プレーなどを中心とした、より実戦に近い練習に時間を多く割くようになった。
「ワンバウンドでもいいから、ちゃんと中継まで投げろ。そんなんじゃ、二塁ランナーが楽々と生還しちまうだろうが」
岩見の指導にも、熱がこもった。時折顔を覗かせる鬼軍曹の片鱗に、過去を知らない一年生たちも、さすがに恐れを抱き始めていた。
「岩見先生、そろそろ休憩にしませんか」
四月から新たに部長になった、安藤が声をかけた。年齢は岩見の二回りも上ではあったが、常に敬語で接していた。
安藤は三年の担任で進路指導も担当しており、多忙のためあまり練習に来ることができなかった。それでも、安藤が来ると部員たちは喜んだ。時折暴走気味になる岩見を、安藤はうまく抑えてくれた。さすがの鬼軍曹も、親子ほど歳の離れた安藤には頭が上がらなかった。
安藤は野球の経験がほとんどなく、技術的な指導はできなかったが、体育大学出身で、ストレッチや筋力トレーニング等の知識が豊富なため、部員たちからも信頼されていた。
事実、安藤が部長になってからは、肉離れなどの大ケガをする部員はおらず、それも岩見が頭の上がらない理由の一つにもなっていた。
「十五分休憩。よく水分補給しろ。次は試合形式のノックだ」
物足りない様子の岩見は、ノックバットを肩に担ぎながら渋々ベンチに戻っていった。部員たちは心の中で、安藤に拍手を送った。
ベンチに戻るとすぐさま、部員たちはマネジャーが用意していたドリンクポットに群がった。よほど喉が渇いていたのか、ポットはあっという間に空になった。
「おかわりありますよ」
佐織がもう一つのポットを運んできた。今度はおあずけをくらっていた一年生たちが我先にと群がった。
「ああ、うめえ」
腰に手を当てて飲み干す横山の姿は、風呂上りの中年のようだった。
「絶妙の濃さだ。さすが北田」
「これ作ったの、私だよ」
佐織は、自分を指さした。
「嘘だ。西川が作るのって、いつも薄くて不味いのに」
「私だって、日々成長してるんだよ」
佐織は、口を尖らせた。
「本当に佐織が作ったんだよ」
加美由が助け舟を出すと、横山は肩をすくめた。
「だってさ。認めてやれよ」
小宮は、横山の背中を軽く叩いた。
「へいへい」
不服そうな顔をした横山は、その場を離れた。
「あいつ、むかつく」
空になったポットを洗いながら、佐織は横山の背中を睨みつけた。
「いいじゃん、言わせておけば」
「だって」
「そのうち、みんなが認める。佐織はすごいって」
「どういうこと」
「こういうこと」
加美由は水道の蛇口から両手に水を溜めて、いきなり佐織の首筋にかけた。キャッという悲鳴が、グラウンドに響いた。
「何すんじゃい」
今度は佐織が加美由の顔めがけて、ポットに溜まった水を両手ですくい上げたが、水は一滴も加美由の顔にかからなかった。
「へたっぴ」
佐織は、久しぶりに加美由の笑顔を見たような気がした。
もともと加美由は感情をほとんど表に出さないので、笑うこと自体が希少なのだが、その笑顔は女の佐織でもドキッとしてしまうほどの魅力的だった。
「もういっちょ」
懲りない佐織は、再び水をすくい上げた。さっきよりも、大きな水飛沫が舞った。
佐織の作ったシャワーを浴びた加美由は、まぶしそうに目をつむった。
休憩時間が終わると、部員たちはノックに備え各々のポジションに散っていった。加美由は球渡しをするために、バッターボックスに立つ岩見の元へ向かった。
「内野はすべてファースト、外野はセカンドに返球しろ」
岩見の眼光が鋭くなる。部員たちは一瞬怯んだが、気合いを入れ直して大きな声を出した。
竹下がマウンドに立ち、キャッチャーの大橋に向けて、全力に近いストレートを投げ込む。球が大橋のミットに収まると同時に、岩見は加美由から球を受け取り、ノックバットを振った。球がどこに飛んでくるかは、岩見のみぞ知る。部員たちは腰を落とし、集中した。
加美由はこのチームを独自に分析し、決して世間から言われるほど弱いチームではない、という結論に達していた。
二、三年生たちは、大量退部、活動休止という暗黒時代を経験し、乗り越えてきた強い心を持っている。何よりも、野球をすることに飢えていた。部員が増えて、ようやく野球ができる、試合ができる、という喜びで満ち溢れていて、練習での表情も明るかった。
加美由はその中でも、まもなく最後の夏を迎える三年生の三人、セカンドの古屋、ショートの広瀬、主将でセンターの山口に注目していた。
古屋と広瀬は、中学の時から二遊間を組んでいたこともあり、息もピッタリだった。古屋のグラブ捌きは柔らかく丁寧で、まるで野球の教科書にでも載っていそうなくらい、基本に忠実なものであった。
対する広瀬は、古屋と比べれば腰高で、グラブ捌きもやや雑な面はあったが、最大の魅力はその広い守備範囲と、鉄砲肩だった。レフトに抜けそうな強い打球もダイビングキャッチで止め、そこからノーステップで一塁へ軽々と放った。送球にバラつきがあるものの、肩の強さは申し分なかった。
地味だが堅実な古屋と、粗削りだがアグレッシブな広瀬。対照的なこの二人が、内野陣の屋台骨を担っていた。
センターの山口は、チーム一の俊足を武器に、外野を縦横無尽に駆け回った。打球への反応も良く、頭を越しそうなライナーやフライを難なくキャッチした。山口自身も弱点と認める地肩の弱さは、中継への正確な返球によって克服された。何より、主将として常に先頭に立って声をかけ、チームを鼓舞し続けた。これには、宝田シニア不動のセンターで守備も一流だった小宮も、ライトに回らざるを得なかった。
三年生の三人にとっては、最後の大会。引退の花道を飾るべく、並々ならぬ熱意をもって練習に取り組んでいた。
また、二年生の四人も、それぞれ魅力溢れる選手であった。
エースの竹下は、安藤から教わった筋力トレーニングと食生活の改善により、春先から体重を四キロ増やすことに成功していた。投げ込みやロードワークの量も増やし、必死になって体力増強に勤しんだ。
キャッチャーの大橋は、竹下のスタミナ不足を補うために、少ない球数でいかに打たせて取るか、というリードを日々研究していた。決して速くはない竹下の球を、生かすも殺すも自分次第。どうやったら、打ち取ることができるのか。大橋のノートは、文字でびっしりと埋まっていた。
三輪は、チーム唯一のサウスポーで、小太りで足も遅かったため、自動的にポジションはファーストになった。打球の処理はお世辞にもうまいとは言えなかったが、なぜか内野からの返球が逸れたり、難しいバウンドになったときのキャッチングに秀でていた。そのおかげで内野陣、特にショートの広瀬は思いきり送球することができた。
レフトの白石は、頑丈な身体と根性の持ち主で、ファウルゾーンに飛んだ打球を、フェンスも恐れずに取りにいった。時には激突に近い速度でフェンスに飛び込み、岩見でさえも血の気が引く思いを何度もしたが、当の本人は何事もなかったかのようにケロッとしていた。
九つのポジションのうち、二、三年生七人、小宮で八つは埋まったが、夏の大会を目前にして、まだレギュラーが固定できないポジションがあった。それは、野球の花形、サードだった。残り一つのポジションに、一年生四人がしのぎを削っていた。
その中の二人、長谷部と吉岡は、六月に入って岩見から外野へ転向するよう命じられた。そもそも二人とも、中学では外野手だったため、どうしても内野手としての動きにぎこちなさが残っていた。
サード争いは、横山と木田の二人に絞られた。浮ついた性格から、一見雑に思われそうな横山だが、守備に関しては意外に堅実だった。野球を始めてからサード一筋でやってきたため、サードの守り方、打球の特性は熟知していた。何より、サードへのこだわりは人一倍強かった。
一方の木田も、負けていなかった。古屋並みの柔らかなグラブ捌き、ライン際の打球処理、どれも横山の上をいっていた。中学時代は外野手だったとはとても思えないその軽快な動きに、岩見も一目置いていた。
守備だけを見れば、木田が一歩も二歩もリードしているのは明らかだったが、それでもレギュラーが固定できなかった要因は、二人のバッティングスタイルにあった。
木田は、着実にゴロを転がしてランナーを進めるような、チームバッティングを実践していた。自分の打力、パワーの無さを悟った上でのスタイルだったが、ピッチャーからすれば長打を警戒する必要が無く、組みやすい相手となってしまう。
加美由に打撃フォームの悪癖を見抜かれた横山は、相変わらずポップフライを打ち上げることが多かった。修正すべきところは山ほどあるが、小宮の才能を開花させるほどの指導力を持つ岩見は、横山にタイミングの取り方だけをアドバイスし、フォームをほとんど直そうとしなかった。
加美由も最初は疑問に思ったが、すぐに理解できた。岩見は、横山の持ち味である長打力を最大限に生かそうとしていた。大人しいバッティングフォームにすることは容易いが、そうすると持前のパワーを消してしまうことになる。
このチームには、長打を狙えるバッターがいなかった。宝田シニアの四番だった小宮も、基本的にはスラッガーというより中距離打者タイプなので、シニア時代も本塁打は他のシニアの四番と比べても少なかった。
横山は、スラッガーの素質を持っていた。三日前のバッティング練習で初めて柵越えを放ったこともあり、徐々に素質の片鱗を見せ始めていた。
夏の大会の初戦で、どちらを先発に使うか、岩見は未だに頭を悩ませていた。
ノックが終わると、主将の山口の掛け声とともに、部員たちはベンチ前の岩見の元に集まった。
「ここまできたら、相手どうこうじゃない。自分たちの野球をすれば必ず道が開ける。三年は最後の大会だが、一、二年も最後だと思って試合に臨め」
岩見の檄が飛ぶと、部員たちは大きな声を出した。
「いよいよ、始まるね」
佐織が言うと、加美由は佐織のTシャツの袖を引っぱって、部員たちから少し離れたところまで連れていった。
「何」
「初戦の相手、どこだか知ってる」
「幕張中央でしょ。それがどうしたっていうの」
「みんな、まだ不安なのかも」
「大会が近くなってきたら、誰だって緊張や不安はあるでしょ」
「そういうことじゃなくて」
「どういうことなのさ」
幕張中央高との対戦が決まった瞬間、部員たちは明らかに狼狽していた。
甲子園出場五回。春の大会は四回戦で優勝した船橋商業に敗れはしたものの、一―二の接戦を演じていた。実力差は歴然としていて、走攻守のどれを取っても成田東の遥か上をいっていた。中でもエースの松原は、常時百四十キロを超えるストレートを投げる本格派で、プロのスカウトがたびたび視察に訪れるほどの豪腕であった。
対策を練るために岩見が用意した幕張中央の春季大会のビデオを全員で見たが、出てくるのはため息ばかりだった。グラウンドから少し離れて撮影されたビデオでも、松原のストレートの威力は、次々と空振りするバッターを見れば、嫌でもよくわかった。主将の山口は、自分のクジ運の悪さを呪った。
松原対策のために、岩見はピッチングマシーンを約四メートル前に置いてバッティング練習をさせたりしてみたが、マシーンの球ですら対応できず、空振りする部員が続出した。これでは松原の生きた球など打てるわけがない。対策を講じてみればみるほど、部員たちの落胆は大きくなっていった。
その一方で岩見は、勝算はある、と考えていた。守備だけなら幕張中央と遜色はない。竹下、大橋のバッテリーも成長してきている。大きな課題であった、竹下のスタミナ不足も解消されつつある。
何より一番の大きな理由は、相手はエースの松原を温存するかもしれない、ということだった。
成田東は、秋の大会は部員不足により出場を辞退していて、春の大会も一回戦負け。相手がうちをなめて控えピッチャーを出してくれば、勝つ可能性は一気に高まる。四番を任せる小宮の前にランナーを溜めて、早いうちに点を取っておけば逃げきれる、とふんでいた。
部員たちの動揺がまだ収まっていないのは、岩見も重々承知していた。あとは、部員たちのモチベーションをどう高めていくか。岩見は、考えを巡らせた。
「どっちがベンチに入るんだ」
水道で顔を洗いながら、小宮はマネジャー二人に訊ねた。
「もちろん、加美由だよ」
「佐織も、スコアブックつけられるようになったじゃん」
「無理無理。未だにフィルダースチョイスとかよくわからないし。今回は、加美由に譲るよ」
佐織は、加美由の肩をぽんと叩いた。
「そういや、北田って野球詳しいよな。ひょっとして、野球やってたのか」
「小宮君は知らないか。加美由はね」
佐織が余計なことを喋りそうだったので、加美由は目で威嚇して黙らせた。
「ううん。親が野球好きで、よく家族でプロ野球の試合を観に行ってたから」
自分がリトルで四番を打っていた、と知られたら、後々面倒くさくなるかもしれない。
「そっか。球拾いの返球のときとか結構いい球放るから、ひょっとして、って思ったんだけど」
小宮の勘の鋭さに、加美由は少々焦った。
「俺がリトルにいた頃、対戦したチームに、女でめちゃくちゃ上手い奴がいてさ。確か四打数三安打だったかな。ホームランも打ったし、とにかくすごかった」
背中に、嫌な汗をかいた。
「朝倉リトルの、名前は何だっけ、忘れちまったけど。あいつ今、どうしてるかな」
目の前にいますよ。
「北田を見てたら、何となく思い出しただけ」
タオルを首にかけた小宮は、その場を離れていった。
これは、隠し通すのは無理かも。
となりを向くと、佐織はまだプルプルと震えていた。




