24
成田東のマイクロバスが、球場脇にある駐車場に停まった。
船橋商業の部員たちは、外野で短い距離のダッシュを繰り返していた。
突然の九州遠征取りやめは、部員たちに大きな衝撃を与えたが、大多数の部員は林の決定を喜んだ。
長い移動時間に加えて、短期間で何試合もこなすというハードスケジュールは、たとえ百戦錬磨の船橋商ナインであっても重荷であった。それが取りやめになるどころか、練習試合の数自体も大幅に減っていた。
今日の成田東戦で、夏の大会前の練習試合がすべて終了となる。これまでの船橋商では考えられないほどの少なさだった。
「これだけ試合数減ると、何か妙な気分だよな」
キャッチャーの大下が、となりで足首を回しているエースの山本に話しかけた。
「今までが多すぎたんだよ。これくらいが妥当なんじゃねえの」
「そうかなあ」
「そうだよ。遠征ばっかしてよ。だから甲子園でやるときには、みんな疲れてヘロヘロになって負けるんだろうが」
「おいおい。ここにきて監督批判かよ」
「だいたい、何で最後が成田東なんだよ。幕張中央ならまだわかるけどよ」
「幕張中央なら、神奈川に遠征しているぞ」
「神奈川とか、近場なら別にいいんだよ。うちは東北とか近畿とかまで行くだろ。意味がないとまでは言わねえが、そこまで行く労力っていうのを、あの爺さんはちゃんと計算してるのかねえ。今年は九州に行くって聞いたときは、マジでストライキしてやろうかと思ったわ」
山本は、ベンチに座る林に目をやった。
「まあ、何だか知らねえが、取りやめになってよかった。おかげで俺は疲れも溜まってないし、絶好調だからな」
山本は、不敵な笑みを浮かべた。
事実、山本は天井知らずの成長をみせていた。
ロードワークや筋力トレーニングによる地道な下半身強化の甲斐もあって、三年の春を境にコントロールが抜群に良くなり、球威は更に増していた。球種の少ない山本の武器であるスプリットにも磨きがかかった。
山本に密着するプロのスカウトの数は、日を追うごとに増えていった。この日は試合があると林が公言しなかったのでスカウトは来ていなかったが、普段ならバックネット裏にスピードガンを構えたスカウトが何人も集まっていた。
これまでの最高球速は、春の関東大会決勝で計測した百五十四キロ。高校生ながら即戦力のドラフト一位候補として、野球専門誌では四、五球団が競合すると予想されていた。
「油断するなよ。最近の成田東は手ごわいって評判だぜ」
大下が忠告すると、山本は軽く鼻を鳴らした。
「俺たちの相手じゃねえ」
「しかも今日は、例の女が出てくるって言うし」
「例の女」
「知ってるだろ。松原さんの球をホームランにしたっていう、北田って女だよ」
「ああ」
船橋商の部員たちは、実際に加美由を目にしたことはなかったが、すでに加美由の名は知れ渡っていた。
「まったく興味がねえな」
山本は、頭をかいた。
「噂によると林先生は、お前と北田を対決させたいから、この試合を組んだらしい」
大下の言葉に、山本は眉をひそめた。
「くっだらねえ。たったそれだけのために、遠征をやめたってのか。馬鹿馬鹿しい」
「でも、松原さんの球を」
「しつこいぞ。どうせあのデブが、ブヨブヨの球でも放ったんだろうが」
ブヨブヨの球って何だ。
「だいたいがな、男の職場に女がズケズケと入ってくるのが気に食わねえんだよ。女子の硬式野球だってあるんだから、おとなしくそっちでやってりゃよかったんだ」
「お前、それは言い過ぎだろ」
「ああ、抗議でも何でもどうぞ。宛先はこちら。どしどしご応募くださいね、ってか」
山本は、肩をいからせながらベンチへ戻っていった。
相変わらず、お山の大将だな。ピッチャーらしいといえば、ピッチャーらしいが。
大下は、ため息をついた。
ベンチ前に整列した成田東ナインは、木田の号令の下、グラウンドに向かって深々と頭を下げた。
岩見と安藤は、ベンチに座る林の元に駆け寄った。
「本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
「無理を言ってすまんな」
ゆっくりと腰を上げた林は、岩見、安藤の順に握手した。恐縮した二人は、何度も頭を下げた。
「チームの仕上がり具合はどうだ」
「順調すぎるほど順調です。今日は、恥ずかしくない試合ができると思います」
岩見は、少し胸を張った。
「監督生活五十年目になるが、今のチームが間違いなく俺の最高傑作だ。このチームで全国制覇ができることに、疑う余地はどこにもない」
林の言葉に、岩見は張った胸を引っ込めた。
「おたくの天才の仕上がりは」
「あいつに、仕上がりは関係ありません。野球部に入ったときから、すでに完成されていました。技術的にも人間的にも。私たちが教えることは何もありませんでした」
岩見は、苦笑いを浮かべた。
「北田さんは、言葉ではなく態度で、チームを牽引してくれました。私たちの誇りです」
安藤は、黙々とランニングする加美由に目をやった。
「いつ以来だろうな。これほどまでに血が滾るのは」
加美由を目で追いながら、林はしみじみと呟いた。
ウォーミングアップが完了し、両チームはベンチに戻った。
「ほら、あいつだよ」
大下が、加美由を指差した。
「どいつだよ」
加美由の姿を目にした途端、山本は身体を震わせた。
「どうした」
大下が訊ねるやいなや、山本はベンチを飛び出した。
ベンチに座ってグラブの手入れをしていた加美由は、大きな影が自分を覆うのに気づき、おもむろに顔を上げた。
山本は加美由ことを、鬼のような形相で睨みつけていた。
「やっぱり、お前だったのか」
松原の球を打った女。
本当に打ったとしたら、こいつしかいない。
「もう野球なんかするな、と言ったはずだ」
山本は、こぶしを激しく震わせた。
二人の張り詰めた空気に、成田東ベンチは騒然となった。
サイコパスだ。
あれは、サイコパスの目だ。
山本は恐怖を振り払うかのように、強く腕を振り続けた。
だが、一打席、二打席と三振に打ち取っても、恐怖は増すばかりだった。
第三打席、加美由は、より威力の増した山本の球に食らいつき、ファウルで粘った。全力で放った球をことごとくカットされ、山本の恐怖は頂点に達した。
八球目、山本のストレートは唸りを上げた。勢いあまって身体が左に大きく傾き、マウンドに倒れこんだ。
顔を上げると、球はミットに収まっていた。
終わった。
やっと、解放される。
もう、こいつとは戦いたくない。
起き上がった山本は、ベンチに戻ろうとする加美由に向かって叫んだ。
「女が野球なんかするんじゃねえ」
足をとめた加美由は、ゆっくりと振り返った。
山本の左手から、グラブがこぼれ落ちた。
それから三日間、山本はろくに食事を取ることができなかった。
加美由の目が、頭からついて離れなかった。
「潰してやる」
吐き捨てるように言った後で、山本はベンチに戻っていった。
「何だあいつ」
横山が、呆れたように呟いた。
「いきなり喧嘩売られたなあ」
小宮は笑ったが、加美由の目に宿る光を見た瞬間、笑みは跡形もなく消え去った。
「知り合いだったのか」
戻ってきた山本に、大下が訊ねた。
「そんな、かわいいもんじゃねえ」
ふんぞり返るようにベンチに座った山本は、タオルで額の汗を拭った。
「あれは、ただの敵だ」
タオルを、強く握りしめた。
岩見から、スタメンが発表された。
多く打席が回るようにと、加美由は一番サードに抜擢された。
「みんな、頑張れよ。俺は応援団長として、試合を盛り上げてやるからな」
横山は、黄色いメガホンを叩いた。
「本当は、試合出たいくせに」
小宮が、意地悪な笑みを浮かべた。
「馬鹿。そういうこと言うな。北田が気にするだろ」
横山が慌てて制するも、加美由はうつむいた。
「悪い、北田。冗談だから」
焦った小宮が声をかけると、加美由は顔を上げた。
「そういうことは、冗談でも言っちゃいかん」
木田がわざと声色を低くして小宮を叱ると、部員たちのあいだから笑いが起こり、場の雰囲気が一気に和んだ。
「北田。お前にとって最後の試合だ。遠慮なんかするな。思う存分暴れてくれ」
木田の言葉に、加美由は静かにうなずいた。
後攻の船橋商ナインが、守備についた。
マウンドの足場を均してから、山本が投球練習に入った。
左手のグラブを高く上げてから踏み出す独特のフォームは、お世辞にもスムーズとはいえなかったが、目にもとまらぬ速さで振り下ろされる右腕から放たれた球は唸りを上げ、大下のミットを激しく打ち鳴らしていた。
二番を打つ木田の両足は、小刻みに震えていた。山本の投球は甲子園のテレビ中継で観たことがあるくらいで、間近で見るのは初めてだった。
バッティンググローブをはめた加美由は、バットのグリップに滑りどめのスプレーをかけた。ネクストバッターズサークルの近くで二度素振りをした後で、ゆっくりと左バッターボックスに入った。
バットの芯を見つめてから、構えに入る。
眼鏡のレンズは、その眼光の鋭さまで隠すことはできなかった。
山本の心に、再び恐怖が芽吹き始めた。
主審の、右手が上がった。
ひとつ息をはいてから、山本は振りかぶった。左膝を胸の位置まで上げ、下ろすと同時に左手のグラブを高く掲げた。左足を地面にめり込ませ、右腕を強く振り下ろした。
大下のミットが、破裂したような音を立てた。
いきなり全力かよ。
球場全体が、静寂に包まれた。
二球目。同じコースに、同じ威力のストレートが決まったが、加美由はぴくりとも動かない。
いくらなんでも、女相手に投げるような球じゃねえぞ。
球を山本に返した後で、大下はバッターボックスの加美由の顔を覗きこんだ。
大下は、背筋が凍りついた。
加美由の眼光の鋭さは、バッターボックスに入る前よりも増していた。
一球外角に外し、カウントはワンボール・ツーストライク。
四球目、山本の腕の振りはまた速度を上げた。
内角高め、加美由の得意なコースに、強烈なスピンのかかった球が飛び込んでくる。
身体が自然と反応し、バットを振った。
「ファースト」
木下が叫ぶ。ファーストはグラブをかざし、力なく落ちてくるフライを、両手で丁寧にキャッチした。
マウンド上で、山本は歯がみした。
渾身のストレートを、当てられた。
左バッターへの内角ストレートは、山本のウイニングショットだった。甲子園の猛者たちも、この球でねじ伏せてきた。投げミスが無い限りは、絶対に打たれることのない球を、加美由にドンピシャのタイミングで捉えられそうになった。
ベンチに戻ってきた加美由は、バットとヘルメットを置き、佐織のとなりに座った。
「どうだった」
スコアブックにペンを走らせながら、佐織が訊ねる。
加美由は、スポーツドリンクを一口飲んでから、
「野球やってて、よかった」
と、噛みしめるように言った。
両チーム無得点のまま、三回を終了した。
山根は、強力な船橋商打線を、わずかヒット一本に抑えていた。伝家の宝刀であるスライダーは、回を追うごとにそのキレを増していった。淡々と投げてはいたが、山本への対抗心を静かに燃やしていた。
山本は、さらに圧巻の投球を見せつけていた。加美由以下のバッターすべてを三振に斬って取った。
八者連続三振。
剛速球と鋭く落ちるスプリットに、成田東打線は為す術がなかった。
「反則ですね、これは」
安藤は、肩をすくめた。
「あいつに託しましょう」
岩見は、バッターボックスに向かう加美由の背中を見つめた。
山本は、右腕を強く振り下ろした。
帽子が吹き飛び、地面に落下した。
大下は、ごくりと唾を飲み込んだ。
春の関東大会でマークした、百五十四キロ。この球は、それを明らかに凌駕していた。
これでもまだ、未完成なのか。
大下は山本の底知れぬ素質に畏怖するとともに、バッターボックスの加美由の反応が気になった。
「ひぃっ」
両膝が、ガクガクと震え出す。
プロテクターの内側は、冷や汗でびっしょりになった。
こいつ、イッてる。
加美由の目は、大きく見開かれていた。
とうとう本性を現しやがったな、化け物め。
山本は、絞り出すように息をはいた。
二球目。山本は、内角高めをめがけて腕を振り下ろした。
だが、僅かな力みが、山本の手元を狂わせた。
加美由は前の打席より反応を早めてバットを振りにいったが、球はコースを大きく外れ、顔に目掛けて飛びこんできた。
「危ない」
ネクストバッターズサークルにいた木田が、叫んだ。
加美由は咄嗟に身体を後ろに反らせて避けようとしたが、バットを振りにいっていたため、避けきることはできなかった。
球は、右の前腕をかすめた。
「加美由」
佐織が、ベンチから飛び出した。救急箱をかついだ京子が、その後に続いた。
倒れこんだ加美由は、右の前腕を左手で押さえ、苦悶の表情を浮かべていた。加美由の周りには、成田東の全員が集結した。
救急箱から応急措置用のコールドスプレーを取り出した京子は、加美由の右腕へ噴きかけた。加美由は歯を食いしばり、顔を更に歪めた。
「すみません」
顔面蒼白でマウンドから駆け下りてきた山本は、帽子を脱いで岩見に頭を下げたが、無視した岩見は、加美由のことを心配そうに覗きこんでいる横山の肩を叩いた。
「アップしておけ」
顔を上げた横山は困惑の表情をしたが、岩見の怒気を含んだ眼差しに圧倒され、何も言うことができなかった。
「大丈夫です」
つぶやくように言ってから、加美由は立ち上がった。部員たちの視線は、加美由の右腕に注がれた。
「骨に異常があるかもしれない。もういいから、病院へ行ってこい」
騒然とした雰囲気の中、岩見は冷静に言った。
「大丈夫です」
加美由は右腕を曲げ伸ばしたが、岩見は首を横に振った。
「交代だ」
「嫌です」
周りの空気が、一瞬にして張り詰めた。
「今日で最後なんです。お願いします」
加美由は、岩見に頭を下げた。
「私からも、お願いします」
堰を切ったのは、部長の安藤だった。
「彼女の意思を、尊重してあげてください」
困惑する岩見に、安藤は穏やかな笑みを向けた。
「俺からもお願いします」
今度は、横山が声を上げた。
「俺も」
「俺も」
木田、小宮、吉岡、長谷部、山根、近藤。部員が次々と声を上げる。
「どうなっても知らねえからな」
苦笑した岩見は、ベンチへ戻っていった。
加美由の前に立つ部員たちは、凛とした表情をしていた。
「俺は今日、ベンチでゆっくりするんだ。出番回すんじゃねえぞ」
横山が、鼻を鳴らして笑った。
「この試合に勝つためには、お前の力が必要だ」
木田が、力を込めて言った。
「俺たちは、お前と心中だ」
小宮は、右の親指を立てた。
部員たちの顔を確かめるように見回した後で、加美由はうなずいた。
一塁へ向かう途中で、佐織に呼び止められた。
「ハイタッチしよ」
「え」
「前にもやったじゃん」
佐織は、左手を上げた。加美由は、痛めた右腕を上げようとした。
「逆、逆」
呆れて笑った佐織は、加美由の左手を握って上げた。
手のひら同士が合わさると、心地の良い音が響いた。
ベンチでその一部始終を静かに見ていた林は、幕張中央監督の相馬の言葉を思い出した。
野球は楽しい、ということです。
ああいう仲間たちに囲まれたら、さぞかし野球も楽しいだろう。
全国制覇のことで、頭がいっぱいだった。
常勝チームをつくり上げるために、部員たちに過酷な練習と遠征を課してきた。
試合に負ければもちろん、勝っても、悪かった点があったら反省し、自分の納得がいくまで練習をさせた。
いつしか、野球は楽しむものではなく、義務的なものになっていった。
野球は楽しいという、一番基本で、一番大切なことが、林の野球には欠けていた。
野球が楽しかったのは、いつのことだろうか。
若かりし頃、仲間たちと白球を追いかけ、汗を流した自分の姿を思い返した。
四回の表は、成田東にとって最大のチャンスだった。加美由を一塁に置き、続く木田が、山本のストレートに食らいつき、送りバントを決めた。
まだ動揺が治まっていない山本の球威は、明らかに落ちていた。
三番の吉岡はファウルで粘り、九球目の外角ストレートを捉えた。打球は一、二塁間を抜けそうになったが、セカンドが腕を伸ばして追いつき、素早く一塁へ送球した。その間に、加美由は三塁まで進んだ。
ツーアウト、ランナー三塁。打席には、四番の小宮が立った。
一打席目ではまったく歯が立たなかったが、球威の落ちている今の山本なら仕留められる。
山本が回復するまでに叩いておかないと。
グリップを握る手に、小宮は力を込めた。
ワンボール・ツーストライクからの五球目。外角低めの落ち切らないスプリットを、小宮はバットですくった。
打球はライナーとなり、左中間を襲った。
山本は、打たれた瞬間に、失点を覚悟した。
追っていたレフトが、打球に向かって跳躍した。着地し、頭から転がった後で、グラブを高く掲げた。
グラブの中には、球が収まっていた。一塁ベース手前で足をとめた小宮は、しゃがんで頭を抱えた。
アウトになった瞬間、マウンド上の山本は、グラブを右手で叩いて猛々しく吼えた。
大下は、目を見張った。
これまで山本は、どんなに三振をとっても、味方がファインプレーをしても、喜びを表現することは一度も無かった。さも当然といった体で、足早にベンチへ戻るのが常であった。
レフトの好守により息を吹き返した山本は、再び手のつけられない状態になっていた。
バットは次々と空を斬り、五回から六回ツーアウトまで、成田東打線は五者連続三振を喫した。
加美由の第三打席が回ってきた。
ベンチを出る直前まで、京子に作ってもらった氷のうを右腕にずっと当てていた。
死球を受けてから、守備機会が三度あった。一塁に送球する際、当然のように激痛が走ったが、ワンバウンドや山なりの送球をしてしまったら、もう無理だと岩見に判断され、交代させられるかもしれない。
痛みに耐えながら、いつもと変わらない送球をした。そのツケが回って、痛みは更に激しくなり、氷のうが手放せなくなっていた。
バットを構えた途端、痛みが頭にも響いてきた。
少しでも気を抜いたら、意識を失ってしまいそうだった。
「タイム」
大下が、マウンドに駆け寄る。
「もう、当てられねえぞ」
ミットを口に当てて、小声で話しかけた。
「わかってる」
ロジンバッグを握りながら、山本は眉をひそめた。
「それに」
躊躇った後で大下は、
「あいつの腕、絶対に折れてる」
と、付け加えた。
山本の手から、ロジンバッグがこぼれ落ちた。
野球を始めてからキャッチャー一筋の大下は、ホームベースの後ろで、様々な場面に遭遇した。その中でも、死球は、嫌な思い出しか残さなかった。
鉛のような硬球が、無防備なバッターの身体を襲う。
筋肉に当たっただけでも、寒気がするような鈍い音がした。
骨に直接当たったときは、破滅的な音がした。
加美由の抜群の反射神経により、直撃は避けられたものの、右腕をかすめたそれは、大下がこの世で一番聴きたくない音だった。
主審に軽く頭を下げた後で、大下はマスクを被ってしゃがんだ。
マウンドに目を向けると、山本は呆けたような表情をしていた。
言わないほうが、よかったか。
主審の右手が上がる。山本が振りかぶる。左足を上げ、右腕を振り下ろした。
え。
外角低めに決まったその球の威力は、死球の直後に動揺して投げていた球よりも、明らかに劣っていた。
加美由は、マウンドの山本を見遣った。
伏し目がちにユニフォームの袖で汗を拭う山本に、全身に漲っていた気迫は無くなっていた。
二球目、三球目と、外角に威力のないストレートが続いた。あからさまに死球を避けて投げ込まれる球だった。
私が、
ツーボール・ツーストライク。
求めているのは、
スリーボール・ツーストライク。
こんな球じゃない。
六球目。外角高めのストレート。
見逃せばボールの球を、加美由は振り抜いた。
打球は唸りを上げて、山本の顔面を襲った。
「うわっ」
咄嗟にしゃがみ込んだ山本の頭上を抜けて、打球はワンバウンドでセンターのグラブに飛び込んだ。その打球の速さに、球場は再び静まり返った。
腰を抜かして両手をついた山本が視線を一塁に移すと、加美由は何事もなかったように、淡々とバッティンググローブを外していた。
後続を打ち取った山本は、ベンチに戻るなり、大下の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけんじゃねえぞ、てめえ」
山本の剣幕に驚いた部員たちは、慌てて二人を止めに入った。
「何が、折れてるだあ。骨が折れてて、あんな打球飛ばせるわけねえだろ」
「あの音は、折れた音だ」
大下も、引かなかった。
「やめんか」
林の怒号が、ベンチに響く。
喧騒が、ぴたりと止んだ。
「山本。さっきのざまは何だ」
「え」
「お前には、プライドが無いのか」
林の言葉に、山本は身体を硬直させた。
「折れてようが、折れてまいが、彼女は痛みを押して打席に立った。そんな彼女の頑張りに、なぜお前は全力で応えてやろうとしない」
林の目は、寂しげだった。
「もう一打席ある。今度、あんな無様な投球をしたら、承知せんぞ」
語気を強めた林は、視線をグラウンドに戻した。
「はい」
山本はベンチの隅に腰かけると、傍らにあったタオルを頭から被った。
そうか。
そういうことか。
死球で痛がっていたのは、加美由の大芝居であった。
山本の動揺を誘うための、作戦だった。
まんまと作戦に引っ掛かった山本は、あわや先制点を献上しそうになった。
三打席目も、山本に甘い球を投げさせ、打ち崩そうとした。
山本の憶測は、もはや確信に変わっていた。
許さねえ。
俺が、引導を渡してやる。
サードの守備についた加美由を睨んだ山本は、タオルをベンチに叩きつけた。
「もうちょっと、水を入れてほしいんだけど」
ベンチに戻った加美由は、京子に氷のうを渡した。頼まれた京子は、袋がはち切れそうなくらいの水を入れてきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
受け取った加美由は帽子と眼鏡を外し、氷のうの蓋を取って頭上に持っていった。
氷が音を立て、大量の水が加美由の髪を濡らす。
「先輩」
唖然とする京子の横で、加美由は大きく三度、頭を振った。
小さな、水飛沫が上がる。
ほんの一瞬だけ、虹がかかった。
山根の力投もあって、試合は両チーム無得点のまま、最終回を迎えた。
ワンアウト後、加美由は打席に向かった。
腕の痛みは、当に限界を超えていた。
打席に向かう途中、目の前が陽炎のように揺れていた。
バッターボックスに入る前、大きく深呼吸した。
痛みが引くことはなかったが、気持ちだけは少し落ち着いた。
足場を均してから、マウンドに目を向けた。
そこには、怒りに震える、山本の姿があった。
顔を上げた大下は、絶句した。
加美由は、穏やかな笑みを浮かべていた。
主審の右手が上がった。
山本は振りかぶり、左足を更に高く上げて踏み出し、グラブを高々と掲げた。
鞭のようにしなる右腕から放たれた球は、轟音を響かせた。
右足を上げて、踏み出す。
腰を回転させ、バットを軌道に乗せた。
大下は、ミットの中の球を握った。
じんわりとあたたかくて、生き物のようだった。
こんな球と巡り合えた自分は、なんて幸せ者なんだ。
大下は、涙を滲ませた。
バッターボックスを外した加美由は、天を仰いだ。
この一振りに、かけていた。
腕が、激しく脈打った。
「恵理」
姉の名を、つぶやいた。
主審が加美由に、打席に入るよう促した。
もう、バットは振れない。
構える前に、ゆっくりと目を閉じた。
痛みが、消えた。
腕が、動く。
目を開ける。
バットを、構える。
グリップを、強く、強く、握った。
山本の足が、高く上がる。
空気を震わすほどの、咆哮を上げた。
この試合最速の球は、内角高めに、激しく回転しながら、飛び込んでいった。
乾いた音が、こだました。
加美由は、足元にバットを置いた。
一歩、また一歩と、踏み出した。
ライトスタンドにある桜の樹から、葉がひらひらと舞い降りた。
山本は、倒れこんだまま、動かなかった。
大下も、ミットを構えたまま、動かなかった。
成田東ナイン、船橋商業ナイン、岩見、安藤、林、京子、佐織。
時間がとまったかのような静寂の世界で、加美由だけが、ダイヤモンドを回っていた。
ベンチに戻ってきた加美由を見て、最初に言葉を発したのは、佐織だった。
「加美由」
右腕はだらりと垂れ下がり、その機能を完全に失っていた。
「横山、次からサードだ」
岩見が言うと、横山は大きな返事をした。
「私が、連れて行きます」
名乗り出た安藤は、マイクロバスの鍵を握った。
ヘルメットを置いた加美由は、安藤の後を追い、駐車場へ向かって歩き出した。
「加美由」
佐織が叫ぶと、足をとめた加美由は振り向いた。
佐織の大好きな笑顔が、そこにはあった。
成田東のメンバー表を黙読した林は、声を押しころして笑った。
何と、恐れ多いことを。
神に、戦いを挑んでしまった。
女子バレー部の部室を借り、制服に着替えた加美由は安藤に、少し離れた病院まで行ってほしい、と頼んだ。安藤は理由も聞かず、その病院へ向かってマイクロバスを走らせた。
病院の玄関で安藤と別れた加美由は、一階の東棟にある整形外科へ向かった。
レントゲン写真を見た医師は、よく我慢できたね、痛かったでしょう、と呆れていた。
添え木と三角巾で右腕を固定され、診察室を出た加美由は、そのまま奥のエレベーターに乗った。
七階で降りて廊下を進み、左奥の個室の前で足を止めた加美由は、ドアノブをゆっくり回し、音をたてないようにして入った。
白壁の無機質な病室の中央にあるベッドに、恵理が寝ていた。
その傍らには、パイプ椅子に座った都子が、すやすやと寝息を立てていた。恵理が倒れてから、両親は仕事の都合をつけて、交代で恵理の介抱をしていた。
加美由は都子を起こそうとしたが、目の前に三角巾をした娘がいたら驚いて腰を抜かしてしまうかもしれない、と思い、やめておいた。
壁に立てかけてあったパイプ椅子を左手で掴み、都子を起こさないように、ベッドの前で静かに広げた。
腰を下ろした加美由は、恵理の耳元で、今日の試合のことを囁くように話した。
改めて見る恵理の寝顔は、ため息が出るほど美しかった。
「恵理が、打たせてくれたんだよね」
加美由は恵理の頬に、そっと口づけをした。
あたたかな頬は、恵理が生きているという確かな証しだった。
「恵理の妹で、よかった」
恵理の柔らかな髪を、左手でそっと撫でた。
微笑んだ加美由は、恵理の顔を、飽くことなく見つめた。
目を覚ました都子は、壁時計を見て慌てた。
恵理に床ずれができないように、二、三時間置きに寝返りをうたせるのが都子の役目だった。前にうたせてから、すでに四時間近く経過している。
「恵理、ごめんね」
椅子から腰を上げ、ベッドを覗きこんだ。
都子は、息をのんだ。
右の目尻から、一筋の涙が流れていた。




