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加美由  作者: 白崎由宇
23/26

22(回想)

 高校二年の、夏のことだった。

 自転車通学をしていた恵理は、駅前のバス停で、とある男性を目にした。

 二十代後半の黒ぶち眼鏡をかけたその男性は、真夏であるにもかかわらずスーツを着こなし、分厚い文庫本を熱心に読んでいた。

 初めのうちはさして気にもとめなかったが、バス停の前を通るといつもその男性が立っているのが、次第に気になっていった。

 今日の文庫本は、ちょっと薄いな。

 今日のネクタイは、色が明るいな。

 あれ、今日はちょこっと寝癖がついてるぞ。

 いつしか、こっそり観察しては、ひとりで楽しむようになっていった。

 その日も、いつもの時間にバス停の前を通ったが、男性の姿はなかった。

 仕事、お休みなのかな。

 つまんない。

 ため息をつき、交差点で自転車をとめた。

 交差点の向こう側で、信号待ちをしている男性の姿が見えた。

 やった。

 今日も、会えた。

 信号が青になると、胸を躍らせながら自転車を押して歩いた。

 男性は恵理と目を合わせることもなく、うつむきがちに歩いてくる。

 男性が近づくに連れ、恵理の鼓動も早くなる。

 すれ違いざまに男性は、恵理の自転車のかごに手をかざした。

 後ろを振り返ると、男性は足早にバス停へと向かっていった。

 自転車のかごを覗くと、一枚の名刺が入っていた。

名刺には()()という名前と、携帯電話の番号が書いてあった。

 夕飯を済ませた恵理は自分の部屋に入ると、散々悩んだ挙げ句、勇気を出して電話をかけた。

「はい、矢野です」

「あの、今朝方、名刺をもらったものです。北田と、申します」

 声は、恥ずかしいほどに上ずっていた。

「ああ、君か。かけてくれてありがとう」

 その穏やかな声を耳にしただけで、身体が熱くなった。

「ごめんね。びっくりしたでしょ」

「あ、はい」

「気味が悪かったんじゃない」

「いえ、嬉しかったです」

「それはよかった」

 矢野の笑顔を想像したら、胸が苦しくなった。

 会いたい。

 いっぱい、おしゃべりしたい。

「あの」

「ん」

「今度の日曜日、お暇ですか」

 我ながら、なんと大胆な。

 言った後で、佐織は冷汗をかいた。

「暇だよ。会おうか」

 心臓が、大きな音を立てた。

「是非、お願いします」

 誰もいないのに、恵理は深々と頭を下げた。

 電話の向こうで、矢野は朗らかに笑った。

 

 知り合いに見られたら後々面倒くさいので、待ち合わせ場所は自宅や学校からかなり遠くのところにある喫茶店にした。

 待ち合わせ時間より三十分も早く来てしまった恵理は、コップの水に手もつけずに、ずっとそわそわしていた。

 時間ぴったりに、矢野がやってきた。

 黒のTシャツに、履き古されたジーンズ。初めて見るラフな格好の矢野に、恵理の鼓動は一気にせわしなくなった。

「ごめん。待った」

「私も、今来たところです」

 だいぶ待ちましたなんて、言えるはずもない。

 対面の席に腰掛けた矢野は、テーブルの上のメニュー表を手に取った。

「おなかすいちゃったなあ。まだ早い時間だけど、しっかり食べてもいい」

「もちろんです。私も、お付き合いします」

 緊張しすぎて腹などすいていなかったが、かといってドリンクだけにするのも気が引ける。

 矢野はカレーライスとアイスコーヒーを、恵理はナポリタンとアイスティーを注文した。

「もっと、楽にしたら」

「え」

「背筋が、ピンと伸びたままだよ」

 矢野は、メニュー表を元に戻した。

「猫背なんで、恥ずかしいんです」

「女の子の猫背は、かわいいと思うけどな」

 矢野が微笑むと、恵理は息をのんだ。

 やばい。

 こんな気持ち、初めてだ。

 先に、ドリンクが運ばれてきた。矢野はストローを使わずに、グラスに直接口をつけて飲んだ。

「北田さんって、成田東でしょ」

「え、あ、はい」

「制服、懐かしくてね」

「懐かしい、って」

「俺も、成田東出身なんだよ」

「え、そうなんですか」

 矢野は、うなずいた。

「じゃあ、私の先輩ですね」

「そういうことになるね」

「やっぱり、矢野先輩、って呼んだほうがいいですか」

「やめてよ、そんなの。堅苦しい」

 苦笑した矢野は、顔の前で手を振った。

 真面目そうに見えて、結構お茶目なところもあるんだ。

 そう思った途端に、恵理の緊張はすっとほぐれた。

 食事をしながら、二人はお互いのことについて話した。

 大学卒業後にシステムエンジニアとなった矢野は、官公庁向けのソフトウェアを開発する仕事をしていた。残業するのは当たり前で、ときには土曜日や日曜日にも出勤し、サービス残業をすることもあった。忙しすぎて目が回るが、仕事にはやりがいを感じているという。

「お休みのときは、何をして過ごしているんですか」

「外に出ることは、あんまりないかな。家で本を読んだり、音楽を聴いたりしているよ」

「どんな作家の本が好きなんですか」

「そうだなあ、日本文学だと夢野久作とか三島由紀夫とか、海外文学だとカフカとかカミュあたりかな」

「私の妹、加美由、って名前なんです」

「え、すごいね。やっぱり、ご両親はそこから取ったのかな」

「いえ、単なる偶然だそうです。画数と名前の響きがよかっただけで。「異邦人」も読んだことがないって」

「そんな素敵な名前、偶然でも付けられるものかなあ」

 矢野は、首をかしげた。

 素敵、と言ってくれた。

 私の、大切な妹の名を。

 恵理は自分のこと以外に、自分の家族のことも話した。そのほとんどが、加美由の話だった。

 シャイだけど、優しくて思いやりがあること。

 リトルで、野球を頑張っていること。

 加美由のことなら、いくらでも話せそうな気がした。

「でも、リトルで野球は辞めちゃうんだ」

「はい。いろいろと思うところがあるようで」

「お姉さんとしては、続けてほしい気持ちもあるんじゃないの」

「少しはありますけど、加美由の決めたことですから」

 恵理は、ストローに口をつけた。

「本当に、妹さんのことが好きなんだね」

「え」

「妹さんの話をしているときが、一番生き生きしているから」

 矢野の指摘に、恵理は頬を赤らめた。

 日が暮れるまで、二人は話に花を咲かせた。ナポリタンは、三分の一しか減っていなかった。

 喫茶店を出た二人は、最寄りの駅まで並んで歩いた。

 駅舎が見えると、恵理の胸は強く締めつけられた。

 離れたくない。

 ずっと、一緒にいたい。

 改札口の前で、二人は足をとめた。

「じゃあ、お疲れ様」

 矢野は、手を振った。

「お疲れ様でした」

 恵理は、頭を下げた。

「帰り、気をつけてね」

 矢野は恵理に背を向けると、改札口に向かって歩を進めた。

「矢野さん」

 思いのほか、大きな声が出てしまった。

「また、会えますよね」

 祈りを込めて、恵理は尋ねた。

 足をとめた矢野は、おもむろに振り向いた。

「もちろん」

 矢野の笑顔は、にじんでよく見えなかった。

 帰宅した恵理は、リビングに入るなり、ソファにごろんと横になった。

 そっと、胸に手を当ててみる。

 まだ、ドキドキがとまらない。

 いったい、いつになったらとまってくれるの。

「恵理」

 背後から声をかけられた恵理は、ガバッと跳ね起きた。恐る恐る後ろを向くと、加美由が不思議そうな顔をしていた。

「驚かさないでよ」

 恵理は、ほっと胸をなで下ろした。

「普通に声かけただけなのに」

「気配がなかったから、びっくりしたの」

「幽霊じゃあるまいし」

 ひとつ息をはいた加美由は、台所に入って冷蔵庫を開けた。

加美由。

 素敵な名前。

 加美由の背中を見つめながら、恵理は心の中でつぶやいた。

「何か飲む」

「ジュースある」

「オレンジとブドウがあるけど」

「じゃあ、ブドウで」

 冷蔵庫の扉を閉めた加美由は、ペットボトルのブドウジュースを持ってリビングに戻った。

 食卓の椅子に座った二人は、ブドウジュースを飲みながら、他愛もないおしゃべりをした。恵理は学校であったことを、加美由はリトルであったことを中心に話した。

 恵理が学校の友達の話をしていると、加美由は急にまじまじと見つめてきた。

「何」

「今日の恵理、いつもと違う」

「違うって、何が」

「何か、綺麗」

 矢野の笑顔が、頭をよぎった。

「いつもは綺麗じゃないってこと」

「ひねくれてるなあ」

 加美由は、ため息をついた。

 恋をすると、女性は綺麗になるという。

 そっか。

 これが、恋ってやつなのか。

 

 仕事の邪魔になってはいけないと、恵理から電話をかけることはしなかった。週一回の割合で、矢野のほうから電話をかけてくれた。

「遅い時間に、ごめんね」

「全然です」

 話した内容は、ほとんど憶えていない。

 矢野の息づかいを聞き漏らすまいと、耳を澄ませた。

 通話が終わると、恵理はベッドに飛び込み、両膝を抱えた。

 会いたい。

 顔が、見たい。

 想いは、募る一方だった。

 秋が深まり、肌寒さを感じるようになった、日曜日。

 郊外の大型ショッピングモールの正面玄関前に立つ恵理は、ずっとそわそわして落ち着きがなかった。

 待ち合わせ場所、ここでよかったのかな。

 裏の入り口のほうだったりして。

 いや、もしかして、東側のほうかも。

 そんなことをつらつら考えつつ、先週に矢野が送ってきたメールを何度も読み返した。

 背後から、肩を叩かれた。振り向くと、矢野の顔が眼前にあった。

「ここで合ってるよ」

「え」

「合ってるか、不安だったんでしょ」

 矢野の息は、ほのかにタバコの匂いがした。

 その瞬間、得体の知れないものがこみ上げてきた。

「おはようございます」

「おはよう」

 矢野は、腕時計に目をやった。

「映画まで、まだ時間があるな。中をぶらぶらしようか」

「はい」

 得体の知れないものは、恵理の身体をじわじわと浸食していく。

 抑え込むようにして、恵理はそっととつばを飲み込んだ。

 日曜日とあって、モール内は家族連れでごった返していた。子供たちのはしゃいだ声が、高い天井にこだまする。

「ちょっと、寄ってもいい」

 矢野が指さすところには、CDショップのテナントがあった。

「このところサブスクばっかりで、最近はCDを買うこともなくなっちゃったから、懐かしくて」

「いいですね。私も、久しぶりです」

「じゃあ、行こう」

 うなずいた恵理は、矢野の後に続いてCDショップに入った。

 流行りの邦楽は入り口の片隅にほんの少し積まれていただけで、棚にはインディーズや洋楽のCDがずらりと並べられていた。棚の奥には、しばらく買い手がつかなかったのか、ほこりをかぶったLPレコードが置いてあった。

「北田さんは普段、どんな音楽を聴くの」

 CDを品定めしながら、矢野が尋ねた。

「今流行りの曲も聴きますし、むかしの曲もよく聴きます。ジャンルにこだわりはなくて、何でも」

「俺は、ロックばかりだなあ」

「ロックも聴きますよ」

「例えば」

「ありきたりですけど、ジョイ・ディヴィジョンとか、ニルヴァーナとか、リンキン・パークとか」

「これ、聴いたことある」

 矢野は、黄色と青のジャケットのCDを恵理に見せた。

「無いです」

「フレーミング・リップスの、ソフト・ブリティンってアルバム」

「あ、名前だけは聞いたことがあります」

「ロックというよりはサイケデリックなんだけど、メロディがすごく良くてさ。聴いていると、まるで夢の中にいるような気分になるんだ」

 矢野は、目を輝かせた。

 なんてロマンチックな表現。

 思わず、吹き出しそうになった。

「今度、サブスクで聴いてみます」

「プレーゼントするよ、これ」

「え、お金がもったいないですよ」

「デート記念で。俺からのプレーゼント」

 心臓が、大きな音を立てた。

 これって、やっぱり、デートなんだ。

 私がそう思っているだけじゃ、なかったんだ。

 レジで会計をする矢野の背中を見つめながら、恵理は笑みをこぼした。

 CDショップを後にした二人は、モールの一番奥にある映画館に向かった。受付でチケットとジュースを購入し、五番の館に入った。

 館内は、休日であるにもかかわらず、閑散としていた。

 二人は最後尾の列の真ん中に、並んで座った。

 観る映画を選んだのは、恵理だった。

 いきなり恋愛ものは恥ずかしいし、ミステリーものは集中できなさそうだし、アクションものはうるさくて気が散りそうだし、アニメは周りにちびっ子がいっぱいいて騒がしそうだし。

 選んだのは、動物のドキュメンタリーものだった。

 観客が少ないのはいいことだが、封切り直後でこれだけ閑散としているということは、よほどつまらない映画なのだろうか。

 退屈すぎて、矢野さん、寝ちゃうかもしれない。

 祈るような気持ちで、スクリーンに目をやった。

 予想に反して、映画の内容はとても充実していた。クジラのジャンプ、シャチのオットセイ狩り、長い首を使ったキリンの喧嘩など、テレビでも観たことがある光景が続いたが、大きなスクリーンで観ると迫力が違った。

 映画が中盤にさしかかったところで、ジュースを飲もうと手を伸ばしたら、矢野の手と軽く触れた。

「すみません」

 手を引っ込めた恵理がとなりを向くと、矢野の顔が間近にあった。

「あ」

 息つく間もなく、矢野は唇を重ねてきた。

 タバコの、匂い。

 矢野さんの、匂い。

 唇をそっと離した矢野は、顔をしかめた。

「ごめん、つい」

 不思議と、心は落ち着いていた。

「卑怯です」

「え」

「卑怯ですよ、いきなり。ファーストキスだったんですよ」

「本当に、ごめん」

 矢野は、うつむいた。

「反省しているのなら、私のお願い、聞いてもらえませんか」

「お願いって」

「もう一回、しよ」

 今度は、恵理のほうから唇を重ねた。

 映画の後半など、観ていない。

 無我夢中で、矢野の匂いを取り込んだ。

 映画が終わり、ショッピングモールを出た二人は、駐車場に停めてあった矢野の車に乗り込んだ。

 道すがら、二人は目も合わさず、言葉も交わさなかった。エンジンの音だけが、静かな車内に響いてくる。

「家、成田だよね」

「はい」

「近くまで、送るよ」

 うつむいたまま、恵理は首を横に振った。

「じゃあ、どこで降ろしたらいい」

「矢野さんの、おうちで」

 踏切で強めにブレーキを踏んだ矢野は、助手席の恵理のほうを向いた。

「何を言ってるの」

「二度も、言わせないでください」

 恵理は、声を震わせた。

 大きなため息をついた後で、矢野は頭をかいた。

「してしまったことは、本当に申し訳ないと思ってる。魔が差したとしか、言いようがない。でも、君はまだ高校生だ。自分を、安売りしちゃいけない」

 恵理は、となりを向いた。

「あのことは忘れて、今日はもう帰ったほうがいい。俺も帰って、頭を冷やすよ」

「忘れるわけ、ないじゃん」

「え」

「好きな人とのファーストキスなんて、忘れられるわけないじゃん」

 恵理の目には、溢れんばかりの涙がたまっていた。

「どうして、そういうこと言うの」

 目尻からこぼれた涙は、恵理の頬を伝った。

 電車が通過し、遮断機が上がった。

 ブレーキから足を離した矢野は、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

「北田さん」

 恵理は、手の甲で涙を拭った。

「君は、とても魅力的な女性だよ。こんな俺なんかには、もったいないくらいの」

 横を向くと、矢野は微笑んでいた。

「バス停の前を通る君のことを、本を読むふりをして目で追っていた。朝、君の顔を見ることが、何よりの楽しみになった。つらい仕事も、君のことを思い返したら、乗り越えられた」

 私と、一緒だ。

「君がもし高校三年生だったら、もうすぐ会えなくなるかもしれない。そう思って、あのとき名刺を渡したんだ。君のことを、繋ぎとめたい一心で」

 矢野は、ハンドルを右に切った。

「君の言うとおり、俺は卑怯な男だ。君の気持ちなんかちっとも考えないで、己の欲のために行動してしまった。君の輝かしい将来に、傷跡を残すようなことを」

 矢野の表情は、愁いを帯びていた。

「いまなら、まだ間に合う」

「矢野さん」

「忘れられないのなら、無理に忘れなくてもいい。胸に抱きつつ、これから別々の道に進んでいこう」

 恵理は、首を横に振った。

「君の幸せを、陰ながら祈っているよ」

 矢野の笑顔は、激しくゆがんでいた。

 帰宅するなり、恵理は階段を駆け上がった。部屋に入ってドアの鍵を閉めるやいなや、ベッドにうつ伏せになった。

 指で、そっと唇に触れる。

 矢野の唇の感触が、まざまざとよみがえってきた。

 別々の道って、なんだよそれ。

 自分からキスしたくせに。

 散々泣いたのに、また涙が溢れてくる。

 私がまだ高校生だから、怖じ気づいちゃったのかな。

 それとも、もともと私とは、単なる遊びでしかなかったのかな。

 大人って、本当に卑怯だ。

 深く息をはき、枕に顔を埋めた。

 

 それからというもの、駅前のバス停で、矢野を見かけることはなくなった。

 いつもの一本前のバスの時間や一本後の時間に前を通っても、そこに矢野の姿はなかった。

 わざわざ遠回りして、会社に行っているのかな。

 私と会わないように、って。

 思い人のいないバス停は、恵理の目にはただの風景の一コマでしかなかった。

 矢野からは、電話もメールも来なくなった。

 声が聞きたくてたまらなくなり、何度も電話をかけようとしたが、迷惑をかけてはならない、と寸前でこらえた。

 悩みに悩んだ末に、矢野の携帯電話の番号とメールアドレスを削除した。

 震える指でボタンを押した後で、ベッドの上で膝を抱えた。

 矢野からプレゼントされたCDだけは、どうしても処分することができなかった。処分したところで、結局サブスクでダウンロードしてしまうだろうから。

 これくらいは、いいよね。

 大切な、思い出だもん。

 棚の上に飾ってあるCDを見やりながら、静かに微笑んだ。

 気持ちを切り替えた恵理は、来る大学受験に向けて勉強にいそしんだ。高校三年生になると、塾にも通うようになった。恋愛を封印し、ひたすら勉学に時間を費やした。

 一度だけ、塾の帰りに、偶然にも矢野を見かけたことがあった。

 スーツ姿で、右手には黒い大きな鞄を持っていた。話しかけようかどうしようかと迷っているうちに、矢野は足早に雑踏の中へ消えてしまった。

 その横顔は、どことなくやつれているように見えた。

 第一志望の大学に合格し、あとは卒業を待つだけとなった。

 合格を知った瞬間、真っ先に思い浮かんだのは、矢野の笑顔だった。

 卒業したら、会ってもいいよね。

 まだ好きです、って言ったら、びっくりするだろうな。

 壁のカレンダーを見つめながら、ほくそ笑んだ。

 卒業式の日の夜、恵理のスマホに、未登録の番号から電話がかかってきた。直感的に、矢野の番号だと思った。

 思いが通じるって、あるんだ。

 はやる気持ちを抑えながら電話に出たが、聞こえてきたのは女性の声だった。

「北田、恵理さんですか」

「そうですけど、どちら様ですか」

「矢野の妻です」

 心臓が、奇妙な音を立てた。

 つま。

 妻って、言った。

「矢野は、死にました」

 身体の中で、何かが砕ける音がした。

 しにました。

 し、に、ま、し、た。

「あなたの、せいです」

 あなたのせいです。

 わ、た、し、の、せ、い、で、す。

「絶対に、許さない」

 そこで、通話は切れた。

 聞こえなくなったスマホを握りしめたまま、しばらくのあいだ立ち尽くした。

既婚者であることを隠して、矢野は恵理と会っていた。

 恵理と親密になればなるほど、罪悪感に苛まれていった。

このままでは、いけない。

 一線を越える前に、別れを告げた。

 だが、矢野の中で、恵理への想いはどんどん膨らんでいった。

 それに呼応するかのように、システム開発の主任としての仕事量は、雪だるま式に増えていった。

 月の残業時間は百八十時間を超え、帰宅することもできずに、そのまま会社に泊まる日も珍しくなかった。

 卒業式の、一週間前。

 その日も残業で深夜に帰宅した矢野は、クローゼットを開け、電気コードを巻いて首を吊った。

 翌朝、妻に発見されたときには、すでに事切れていた。

 遺書はなかったが、世間的には仕事を苦にしての自殺だと言われた。

 卒業式の日。

 遺品を整理していた妻は、矢野のスマホに、送信されずに保存されていたメールを見つけた。

 メールには、恵理への溢れんばかりの想いが綴られていた。

 その瞬間、会社に向くはずだった妻の矛先は、恵理に向けられた。

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