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加美由は、息を弾ませて走った。
早く恵理に報告したいという思いが、足どりを軽やかにさせていた。
玄関前で膝に手を置き、呼吸を整えた。いつもより速く走ったので息が上がってしまったが、それは心地良い疲労感だった。
玄関のドアを開けると、恵理の作ったカレーの匂いがした。
「ただいま」
返事はなく、テレビの音だけが微かに流れていた。
胸騒ぎがした加美由は、靴を無造作に脱ぎ、玄関を駆け上がった。
悪い夢だと、思いたかった。
恵理はソファの下で、ぐったりと横になっていた。
傍らには、大量の白い錠剤と、グラスが転がっていた。
グラスからは水がこぼれていて、フローリングの床を濡らしていた。
「恵理」
加美由は、恵理を抱き上げた。
何度身体をゆすっても、恵理は目を開けようしない。
「恵理、恵理」
加美由は、必死に叫び続けた。
その声は、リビングに虚しくこだまするだけだった。
気がつくと、加美由は病院の待合室の椅子に座っていた。
照明は薄暗く、フロアは閑散としていた。
となりを見ると、両親が並んで座っていた。二人とも何も語らず、ただうつむいていた。
加美由も何も話す気になれず、再びうつむいた。
静寂の中に、壁時計の針だけが、一定のリズムで音を刻んでいた。
フロアの奥のほうから、靴音が聞こえてきた。音はどんどん近くなり、加美由たちの前でとまった。
加美由が顔を上げると、恵理の主治医が険しい顔をして立っていた。
「先生」
両親が、同時に立ち上がった。加美由も、遅れて立ち上がった。
主治医はハンカチで額の汗を拭った後で、静かに語り出した。
「恵理さんはオーバードースにより、意識が戻らない状態です。自発呼吸はしていますが、それもいつまで続くかわかりません」
ひと呼吸置いた後で主治医は、
「最悪のケースも、お考えください」
と絞り出すように言った。
その瞬間、都子は膝から崩れ落ち、フロアに響き渡るような大声で泣き始めた。そこには、いつも明るく気丈にふるまっていた母の姿は無かった。
敏郎はしゃがんで、泣き続ける都子の背中をさすった。表情こそ落ち着いていたが、双眸は赤く充血していた。
加美由は、茫然と立ち尽くしていた。
悲しい、つらい、という感情は、いっさい湧かなかった。
恵理がいない、という現実を、受け入れることができずにいた。
翌朝、加美由は自分の部屋にいた。
膝を抱え、白い壁をただぼんやりと見つめていた。
病院では、敏郎が恵理に付き添っていた。加美由も付き添うことを希望したが、何かあったら連絡する、と敏郎に説得され、都子と一緒に帰宅した。
家に戻っても都子はずっと泣いていたが、翌朝になって、泣いてばかりいたら恵理に笑われる、と気丈に言って、仕事へ出かけていった。
「加美由は、無理しなくていいからね」
言われるまでもなく、学校へ行く気にはなれなかった。
都子が用意してくれた朝食にも手をつけず、部屋に引きこもっていた。
途中、何度かスマホが鳴った。そのたびに、身体が震えた。
もし敏郎からの電話だったら、それは恵理に「何か」があったことを意味していた。
着信は、すべて佐織からのものだった。安堵したが、電話に出る気にはなれず、鳴り終わるのをひたすら待っていた。
それでも、佐織からの着信は続いた。時間帯からして、授業と授業のあいだの休み時間にかけているようだった。
自分のことを心配してくれているのは痛いほどわかったが、今は誰とも話したくなかった。
午後二時を回ったとき、玄関のチャイムが鳴った。続けて二度、三度とチャイムが鳴らされた。
もう、放っておいて。
布団を、頭からかぶった。
加美由。
加美由。
階下から、聞き慣れた声がした。
意志とは反対に、足は玄関に向かっていた。
ドアの向こうには、佐織が立っていた。
生気のない加美由の顔を見た佐織は、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑顔をつくった。
「学校は」
「早退してきた」
加美由は、佐織に抱きついた。
佐織は黙って、震える加美由の背中をさすった。




