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加美由  作者: 白崎由宇
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 夏の大会まで三週間余りとなった日の放課後、部員たちはユニフォームに着替え、グラウンドに下りていった。

 ランニング、ストレッチが終わり、キャッチボールを始めるためにベンチへ戻ると、いつもより遅れて岩見がグラウンドに現れた。

「集合」

 主将の木田が号令をかけると、部員たちは岩見を中心にして集まった。

 岩見はユニフォームに着替えておらず、授業のときのワイシャツのままだった。どことなく落ち着かない様子で、しきりに腕をかいている。

「たった今、練習試合の申し入れがあった」

 そこまで言うと、岩見は押し黙ってしまった。

「相手はどこですか」

 しびれを切らした木田が尋ねると、岩見は大きく息をついた後で、おもむろに口を開いた。

「船橋商業だ」

 その言葉を聞いた瞬間、部員たちのあいだから驚嘆の声が上がった。

「嘘でしょ。何で船商がうちと」

 狼狽しながら、横山が尋ねた。

「嘘じゃない。ついさっき、船商の林先生から直々に電話があった。来週の土曜日、午後一時から。場所は、船商の球場だ」

 本当だとわかった瞬間、部員たちは喜びを爆発させた。

「やっと実力が認められたな」

「やってやろうぜ」

「船商に、ひと泡吹かせてやる」

 はしゃぐ部員たちの中で、岩見は浮かない顔をしていた。

「先生」

 小宮が、声をかけた。

「条件、ありますよね」

 部員たちは、小宮のほうを向いた。

「この大事な時期に、船商がうちとやる理由がわかりません。例年なら船商は遠征に行って、他県の甲子園常連校と試合を重ねているはずです」

 岩見は頬をかき、ますます落ち着かなくなった。

「林先生の強い要望だが」

 言葉に詰まり、軽く咳ばらいした。

「北田を、スタメンでフル出場させてほしいと」

 岩見の言葉に、その場は瞬時に静まり返った。

「どうして、ですか」

 沈黙を破ったのは、当の加美由本人だった。

 岩見は、加美由に目を向けた。

「林先生は、先月の三郷台との練習試合を見て、お前の才能に惚れ込んだそうだ」

「え」

「お前との対決は、遠征するよりも遥かに価値がある、ともおっしゃっていた」

 加美由は、瞠目した。


 その練習試合が行われたのは、三郷台高から車で十五分ほどのところにある市営球場だった。

 林は三郷台の監督に頼み、バックネット裏からこっそりと試合を観戦した。

 幕張中央監督の相馬の話が、頭から離れなかった。

 松原の剛速球をスタンドへ運んだ女子選手が、成田東にいる。

 にわかに信じられるものではなかったが、相馬も林と並び賞されるほどの名将である。そんな相馬が大先輩の林に対して、軽々しく冗談を言うとは思えなかった。

 実際にご覧になっていただければ、わかると思います。

 相馬の言葉を思い返した。

「無駄な時間になったら、承知せんぞ」

 独りごちた林は、ペットボトルのお茶に口をつけた。

 守備につくため、成田東ナインがグラウンドに散っていった。林はそれを目で追ったが、女子らしき選手は見当たらなかった。

 ふとベンチを見ると、控えの部員たちが並んで声を出していた。

 列の一番右端に立っている、頭一つ小さい、眼鏡をかけた細身の選手が目についた。

 騙されたな。

 林は苦笑した。

 ベンチ前に立つ加美由には、迫力や威圧感は皆無だった。体格は、女子にしてはがっちりしているものの、やはり男子と比べるとひ弱そうなイメージは拭えなかった。

 控えということは、加美由がいつ試合に出るかわからない。もしかしたら、出ないかもしれない。林は、一打席だけでも見たらさっさと帰ろうと思っていたので、加美由が出るまで試合を観戦しなければならなくなり、来たことを後悔し始めた。

 試合を観ているうちに林は、成田東が着実に力をつけていると感じた。

 エース山根の高速スライダーに三郷台の各打者は翻弄され続け、打線では四番の小宮を中心としたクリーンアップが、きっちりとランナーを返していた。

 三年前までは三郷台にまったく歯が立たなかった成田東だったが、今や立場は完全に逆転していた。この試合も八回まで六―〇と、成田東が優位に進めていた。

 九回の表、ようやく加美由が代打で登場した。

 バットを持ち、主審の後ろを通って、左バッターボックスにゆっくりと向かった。

 林は、些細なことも見逃すまいと、身を乗り出した。

 バッターボックスに入り、足場を丁寧に均した。バットのグリップを絞るようにして力を入れて握り、目の高さまでもってきた。バットの芯のところをじっと見つめた後で、腰を落として静かに構えた。

 構えを見た瞬間、林は身体が震えた。

 これまで数多のスラッガーを見てきたが、構えだけで恐れを感じたのは初めてだった。

 そこには、ベンチ前で並んでいたときとは別人の、風格さえ漂う本物のスラッガーの姿があった。

 甲子園で戦ったスラッガーたちの遥かに上をいく才能あるバッターが、九州でもなく、こんな近くにいたとは。

 俺も、もうろくしたものだ。

 加美由の打席の結果を見ずにグラウンドを後にした林は、その日のうちに九州への遠征を取りやめた。


 ずっと願っていたはずなのに、いざ実現しそうになると胸が苦しくなる。

 また、みんなに迷惑をかけてしまう。

 私の、せいで。

「まだ返事は保留している。お前らの意見も聞かないと決められないからな」

 岩見は、加美由のほうを向いた。

「北田は、どう思う」

 加美由は、うつむいたまま口を開いた。

「無理してやらなくても、いいと思います」

「なぜだ」

「この大事な時期に、大会に出られない私が出ても、しようがないと思います」

「そうか」

 岩見は、ため息をついた。

 しばらくのあいだ、沈黙が続いた。

「何でだよ。やろうぜ」

 沈黙を破ったのは、他でもない横山だった。

「船商とやれるなんて、滅多にないことだろ。いいじゃねえか、お前がスタメンでも」

 加美由は、顔を上げた。

「俺たちだって、お前と山本の対決を見てみたいし。なあ」

 横山が言うと、部員たちはうなずいた。

「みんな、北田がずっと努力していたのを知っている。お前には、試合に出る権利がある」

 木田が、力を込めて言った。

「この期に及んでまた遠慮するのか。もっと堂々と出たいって言えばいいのに。まあ、そこが北田のいいところでもあるけどな」

 小宮が、笑いながら言った。

「北田先輩が引っ張ってくれたおかげで、成田東はここまで強くなれたんです。北田先輩には、気持ちよく引退してもらいたいです」

 山根が、表情を変えずに言った。

「北田先輩のおかげで、打てるようになりました。僕にとって先輩は師匠です。師匠の打撃を、心ゆくまで見てみたいです」

 近藤が、加美由を見下ろしながら言った。

 加美由の胸に、熱いものがこみ上げてきた。

「では、試合をする、ということでいいな」

 岩見が言うと、部員たちは一斉にうなずいた。

「だが、ひとつ問題がある」

 岩見は、再び渋い顔をした。

「北田をサードで出すと、レギュラーの誰か一人が外れることになる」

「もちろん、俺ですよね」

 横山が、手を上げた。

「いや、お前はうちの五番だ。サード以外で出す」

「俺は、サード以外守るつもりはありません」

「何」

「俺が違うポジションについたら、そいつに迷惑がかかる。船商戦はベンチでゆっくりと観戦させてもらいます。気を遣っていただかなくても結構ですよ」

 横山は、不敵に笑った。

「お前、成長したな」

 小宮が、声をかける。

「この前がガキだっただけだよ」

 頭をかいた横山は、加美由のほうを向いた。

「いいの」

「ああ。でも打たなかったら承知しねえぞ。なんてったって俺様を差し置いて試合に出るんだからな」

「ありがとう」

 加美由は、目を潤ませた。

 一生懸命練習して自分を磨けば、きっと願いは叶うから。

 恵理の言葉が、脳裏をよぎった。

 恵理に、報告しよう。きっと喜んでくれるはず。

 早く、恵理の喜ぶ顔が見たい。


 家で留守番をしていた恵理は、台所で食事の支度をしていた。カレーの仕上がりに満足し、ガスの火をとめた。

 留年していた大学も卒業の目処が立ち、卒業後は地方銀行への就職も内定していた。

 今まで両親や加美由に迷惑をかけた分、これからはたっぷりと恩返しをしていく。そう、固く心に誓った。

 食事の支度が終わった恵理は、本棚から紺色の分厚いアルバムを手に取り、ソファに座った。テーブルの上にアルバムを広げ、ページを一枚ずつ捲った。

 アルバムには、加美由が生まれてから小学四年までの写真がおさめられていた。その半分以上は、恵理とのツーショット写真だった。

 満面の笑みでピースサインをする恵理の傍らで、加美由は強張った表情をしていた。中には笑顔をつくっていたのもあったが、その顔は明らかに引きつっていた。

 加美由はむかしから写真が大の苦手で、家族旅行でもなかなか写ろうとしなかった。二人が手をつないでいる写真が多いのも、恵理が加美由の手を引いてカメラの前に無理矢理立たせているからだった。

 明るく活発な恵理と、シャイで無口な加美由。周りからは、とても姉妹には見えない、とよく言われた。

 小学校低学年のとき、加美由は恵理になろうとした時期があった。常日頃比較されるのに嫌気がさしたのか、無理に明るくふるまったり、笑顔をつくったりしていた。

「加美由は加美由。そのままでいいんだよ」

 それに気づいた恵理が諭すと、加美由は泣きじゃくった。

 不器用で、甘えん坊な加美由が、恵理は愛しくて堪らなかった。

 そんな加美由が、野球を通じて、人間として日々成長していった。

 恵理が病気で体調を崩したときも、嫌な顔一つせずに支えてくれた。

 いつのまにか、加美由に頼って生きている自分に気がついた。

 なんて情けない姉なんだ、と加美由の前で何度も泣いた。

 恵理が側にいてくれるだけでいい。

 加美由は、そのたびに言ってくれた。

 帰宅した加美由から、学校であったこと、野球部であったことを聞くのが、恵理の毎日の楽しみであり、励みだった。

 いいことも悪いことも含めて、加美由は包み隠さず話してくれた。

 今日は、どんなことがあったのかな。

 きっと、いいことがあったんだろうな。

 恵理は、思いを巡らせた。

 リビングの電話が鳴った。アルバムを閉じた恵理は、腰を上げた。

「もしもし」

 受話器を耳に当てると、女性のか細い声が聞こえた。

「北田恵理さんは、いらっしゃいますか」

 いつか、聞いたことのある声。

「私ですが」

 家の電話に出てはだめ。

 都子から言われていたことを、忘れていた。

「死ね」


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