16
翌日の放課後、職員室に横山の姿があった。
「辞めさせてもらいます」
「理由は」
岩見は、表情ひとつ変えずに尋ねた。
「昨日の試合が、納得いかなかったからです」
横山は、語気を強めた。
「夏の大会直前だっていうのに、大会に出られない北田を使って試合して。何の意味があったのか、俺は未だに理解に苦しんでいます。こんな状態で大会に出されたって、やってやろうって気が起きませんよ」
「お前、大会に出られると思ってたのか」
「は」
「昨日のお前の態度で、俺はお前をレギュラーから外すと決めた。あれは、監督である俺への侮辱行為だ」
横山の顔が、みるみる赤くなる。
「あれでベンチの雰囲気がどれだけ悪くなったか、お前はわからないのか。白石が機転を利かせなかったら、あの試合、一方的になっていてもおかしくなかった」
岩見は視線を横山から外し、机上のパソコン画面に向けた。
「大事な夏の大会で、同じことされたらかなわん。サードは一年の近藤か望月を出す。辞めるなら、好きにすればいい」
「ああ、辞めてやるよ」
激高した横山は、持っていたカバンを机にぶつけながら、大股で職員室から出ていった。周りにいた教師たちは、二人のやり取りを見てオロオロしていた。
岩見は、辞めていった部員たちの顔を思い出しながら、指折り数えた。
こうなったら、退部者の日本記録でもつくってやるか。
岩見は、自虐的に笑った。
横山退部のニュースは、その日のうちに部員たちに伝わった。加美由は、横山が練習を無断で休んだ時点で嫌な予感がしていた。
「どうしたの」
渋い顔をしている加美由に、恵理が声をかけた。加美由は、ソファで本を読んでいた恵理のとなりに座った。
「横山君が、野球部辞めちゃった」
恵理は、本を膝の上に置いた。
「きっと、私のせいだ」
松原との対決で熱くなり過ぎて、試合前の横山と岩見のやり取りは、すっかり忘れていた。
「いったい、何があったの」
加美由は恵理に、昨日の試合前にあった出来事を話した。
「そうなんだ」
話を聞き終えた恵理は、タバコを一本取り出して火をつけた。
「私が試合に出て横山君が出られなかったから、すごい不満だったんだと思う。だから辞めたんだよ」
「そうかな」
恵理が言うと、うつむいていた加美由は顔を上げた。
「せっかく今まで頑張ってきたのに、夏の大会ももうすぐなのに、たったそれだけの理由で辞められるものかな」
恵理は、テーブルの上にある灰皿を、自分の近くまで寄せた。
「きっとね、横山君は辞めたくなかったと思うの。今頃、絶対後悔してるはず」
「え」
「横山君と岩見先生って性格似てるでしょ、きっと」
確かに、二人とも気が短くて、頑固なところはそっくりだった。
「だから二人とも感情的になって、横山君も岩見先生も、引くに引けなくなっちゃったんじゃないかな」
窓の外を見つめながら、恵理はタバコを燻らせた。
「横山君に、戻ってきてほしい」
加美由は、うなずいた。
「どうして」
「どうしてって、サード守れるの横山君しかいないし。仮に他の一年生を守らせても、サードの練習なんかほとんどやってないから、夏の大会に急に出しても内野の連係が絶対おかしくなる」
「じゃあ決まりだ」
恵理は、灰皿の上でタバコをもみ消した。
「何が」
「決まってるじゃない。横山君を呼び戻すの」
加美由は、何度も瞬きした。
「どうやって」
「簡単だよ。加美由が横山君と一対一で話す。それだけ」
「へ」
「会ってちゃんと話をして、戻ってきてほしいって言うの。ライバルから言われたら、気持ちもグラッとくるよ」
恵理は、いたずらっぽく笑った。
一対一で、話す。
あの、横山君と。
想像しただけで、背中に嫌な汗をかいた。
「頑張れ。未来の成田東は、君の双肩にかかっているぞ」
恵理は加美由の右肩を、大袈裟に叩いた。
深いため息をついた後で、加美由はテーブルの上の皿にある梨に手を伸ばした。
翌日。昼休みの校舎裏に、小宮と横山の姿があった。
「何だよ、話って」
「決まってるだろ。戻って来い」
「何を今更」
「お前だって、こんな形で辞めるのは不本意だろ」
「岩見が俺をいらねえって言ったんだよ。いらねえ奴がいてもしようがねえだろうが」
横山が声を荒げると、小宮は頭をかいた。
「あのなあ、岩見先生が本気でそう言ったと思うか」
「思うね」
「まだ、このあいだの試合で外されたの、根に持っているのか」
図星を指された横山は、舌打ちをした。
「あれは、しかたがなかったんだよ」
「は」
「後で山根から聞いた話だが、あの試合で岩見先生は相馬監督に、北田をスタメンで出すように、ってだいぶ圧力をかけられていたらしい」
「何だと」
「岩見先生は、県の高校球界じゃ下っ端のほうだ。大御所の申し出を断るのは、到底無理な話だろ」
横山は、唇をかみしめた。
「本当は岩見先生だって、今までどおりお前をスタメンで出して、終盤に代打で北田を出すつもりだったはずだ。それが、圧力をかけられて変更せざるを得なかった」
「だったら、最初からそう言えばよかったのによ」
「じゃあお前は、向こうの監督から北田をスタメンで出すように言われたから、お前は出さない、って馬鹿正直に言われたら、はいそうですか、って納得したか」
納得できるはずもない、と横山は思った。
「当然お前が反発するのは目に見えていたから、岩見先生はなるべくお前を刺激しないように嘘をついたんだ。でも岩見先生はあのとおり不器用だからうまい嘘がつけなくて、結局お前を刺激するはめになっちまった」
横山は、息をのんだ。
「お前もお前だ。ガキみてえにふて腐れやがってよ。岩見先生はお前に気を遣っていたのに、あんな態度されたらそりゃあ頭にくるわ」
ひとつ息をはいてから、小宮は続けた。
「岩見先生もああいう性格だから、お前を素直に許せなかったんだろうけど、お前が辞めて一番つらい思いをしているのは、間違いなく岩見先生だぞ」
職員室での岩見とのやり取りが、脳裏をよぎった。
「すぐに戻れ、とは言わない。大会までまだ時間がある。じっくり考えて結論を出せ。岩見先生には、俺と白石先輩でよく言っておくから」
小宮は背を向け、校舎の玄関に向かって歩き出した。
小宮の背中が見えなくなると、横山は足元の小石を思いっきり蹴り上げた。
ゲームセンターで時間を潰してから帰宅した横山は、大きな音をたてて階段を上り、二階の自分の部屋に入った。カバンを机の上に投げつけ、制服のままベッドに大の字になった。
深いため息をついた後で、枕元にあった硬球を掴んだ。
球を天井に向けて軽く投げると、球は天井スレスレで引力に負け、手元に戻ってきた。
今更、どの面下げて。
手の中の球を、じっと見つめた。
ベッドの上でまどろんでいると、階段を上る足音が聞こえてきた。
「お客さんよ」
ドアの向こうから、母親の声がする。時刻は、午後八時を回っていた。
俺に客だと。
こんな遅い時間に、一体誰だ。
ドアを開けると、母親がニヤニヤしながら立っていた。
「あんたも隅に置けないねえ。いつの間にあんな可愛い彼女ができたの」
「あん」
「何か大事な話があるみたいよ。早く下りてらっしゃい」
母親は、軽やかに階段を下りていった。
彼女なんかいねえし。
階段を下り、玄関に向かった横山は絶句した。
制服姿の加美由が、うつむいて立っていた。
「ちょっと買い物してくるね。積もる話もあるでしょうから、ごゆっくり」
母親は加美由に微笑みかけてから、鼻歌交じりに玄関を出ていった。
目の前に加美由がいる、という現実を受け入れられず、横山は瞬きを繰り返した。一方の加美由はというと、うつむいて黙ったままだった。
「何の用だ」
加美由は唇を小さく動かしたが、声にならなかった。
「まあ、上がれや」
横山は、顎で上がるよう促した。
加美由はそろりと靴を脱ぐと、恐る恐る玄関の段差を越えた。
氷の入ったグラスに烏龍茶を注ぎ、リビングの食卓の椅子に座っている加美由の前に置いた。
「ありがと」
加美由は、蚊の鳴くような声でお礼を言った。
目の前の加美由に、野球をやっているときの圧倒的な迫力はまったく感じられなかった。肩をすぼめて、ひたすら小さくなっている。グラスに手をつけようともせず、ただ黙ってうつむいている。グラスの中の氷が溶け、カランと鳴った。
沈黙に耐えきれなくなった横山は、グラスの烏龍茶を一気に飲み干してから、口を開いた。
「よく俺の家がわかったな」
「野球部の、名簿を見て」
加美由の声は、震えていた。
「で、何の用だ」
加美由は、唇をかんだ。
「どうせ、小宮にでも言われて来たんだろ」
加美由は、首を横に振った。
「じゃあ、誰に言われた。白石先輩か、木田か」
「恵理」
「エリ」
頭をフル回転させたが、思い当たる人物は出てこなかった。
「恵理は、私の姉で」
思わず、ずっこけそうになった。
「何でお前の姉貴が、俺のこと知ってるんだよ。会ったこともねえのに」
「恵理は、横山君が野球部を辞めたことを絶対後悔してる、って言ってた」
背筋が寒くなった。
「何なんだ、お前の姉貴は。超能力者か」
「そうかも」
ようやく顔を上げた加美由は少しだけ微笑んだが、すぐに神妙な面持ちになった。
「横山君」
「あ」
「ごめんね」
「何でお前が謝るんだよ」
「だって、私が試合に出たせいで、代わりに横山君が出られなくなっちゃって、その、あの」
横山は、苛立たしげに頭をかいた。
「だから、スタメンを決めたのは岩見だろ。お前が謝ることじゃねえよ」
「私も、何でスタメンだったのか、今でもよくわからなくて」
大人の事情を知らない加美由が不思議に思うのは、当然のことだった。
「とにかく、辞めたのはあくまでも俺と岩見の問題だ。お前は関係ねえ」
「やっぱり、もう戻ってこないの」
加美由が潤んだ瞳で見つめると、横山はドキッとした。
「俺に、戻ってきてほしいのか」
加美由は、うなずいた。
「お前だって本当は、俺がいなくなって清々してるんだろうが」
加美由は、首を横に振った。
「横山君がいなかったら、チームは大会で戦えない。他の人じゃ無理」
「じゃあ、何でお前は、いつも俺の邪魔をする」
「え」
「おとなしくマネジャーだけやってりゃよかったのによ。突然野球やり始めて、しかもサードってか。俺は野球やり始めたときから、サードしか守ったことがねえんだよ。だから、サードにはむちゃくちゃこだわりがあるんだ。それを邪魔しやがって。はっきり言って、むかつくんだよ」
横山がまくし立てると、加美由の頭は稲穂のように垂れていった。
荒くなった呼吸を整えてから、横山は口を開いた。
「わかった。野球部に戻ってやる」
加美由は、弾かれたように顔を上げた。
「ただし、条件がある」
「条件」
「お前が、野球部を辞めることだ」
言った後で横山は、しまった、と思った。
感情的になって、とんでもないことを口走ってしまった。
「それだけ」
「は」
「本当に、それだけでいいの」
加美由の言葉に、横山は唖然とした。
「わかった」
加美由は、腰を上げた。
「待てよ」
横山も、慌てて腰を上げた。
「未練はねえのか」
加美由は、うなずいた。
「幕張中央の試合で、松原さんのすごい球をいっぱい見られて、とても幸せだった。もう、あんなすごい球はお目にかかれないと思う。最後にホームランも打てたし、思い残すことはないよ。横山君が戻ってきてくれるなら、喜んで辞めるつもり」
本気だ。
こいつ、本気で言ってる。
横山は、ごくりとつばを飲み込んだ。
「明日、岩見先生に言ってくるね」
加美由は、足元に置いてあった学生カバンを掴んだ。
「馬鹿、冗談だよ冗談」
「え」
「本気で言うわけねえだろ。お前に辞められたら、それこそチームが崩壊しちまう。それに、お前が辞めて俺が戻ったら、めちゃくちゃ変な空気になるだろうが」
「嬉しい」
「は」
「チームのこと、考えてくれているんだね」
加美由は、微笑んだ。
その笑顔は、横山の胸に強く突き刺さった。
「もうそろそろ親が帰ってくる。お前ももう帰れ」
「うん」
リビングを出て、玄関を降りた加美由は、ドアノブに手をかけた。
「横山君」
「何だよ」
「待ってるからね」
笑みを向けた加美由はドアを開け、出て行った。
加美由の足音が、徐々に遠ざかっていく。
横山は、野球部の仲間の顔を思い返した。
まったく、どいつもこいつも。
天井を見上げ、指で目頭を押さえた。
目頭から、生ぬるい涙が湧いてきた。




