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加美由  作者: 白崎由宇
16/26

15

 試合会場は幕張中央高校からほど近い、真新しい市営球場だった。両翼九十九メートル、バックスクリーンまで百二十二メートルの大型の球場で、滅多にホームランが出ないことでも有名だった。

「ようこそ」

 幕張中央監督の相馬は、岩見に握手を求めた。

「本日はお招きいただき、ありがとうございます」

 県高校球界の重鎮に、岩見は恐縮しきりだった。

「最近の活躍は、山根から聞いているよ。一時は活動休止だったんだろ。それがここまで強くなったっていうのは、すごいことだよ」

 相馬の褒め言葉に、岩見はむず痒くなった。

「滅相もないです」

「謙遜しなくていいよ」

「ありがとうございます」

 相馬は、岩見の肩を叩いた。

「ところで、噂の女の子は来ているのかな」

「はい。あそこに」

 岩見は、ウォーミングアップでランニングしている部員たちのほうを指差した。

「ああ、あの一番後ろで走っている眼鏡の子か」

「そうです」

「そんなに上背もないし、華奢だなあ。ユニフォームを着ていなかったら、本当にどこにでもいる普通の女の子のようだ」

「ああ見えて、パワーもセンスもチーム一です」

「ほお」

 腕組みをした相馬は、小さく唸った。

 しばらく二人は、成田東の部員たちのウォーミングアップを眺めていた。

 ランニングが終わり、部員たちが輪になってストレッチを始めたとき、相馬がおもむろに口を開いた。

「岩見君」

「はい」

「今日の試合、うちのスタメンはすべてレギュラーだ。松原も、最後まで投げさせる」

「はあ」

「それがどういうことか、わかるよね」

 相馬の言葉に、岩見は愕然とした。

 要するに相馬は、加美由をスタメンで出せ、と言っているのだった。

 岩見は加美由のことを、パワーもセンスもチーム一、と紹介した。チーム一の選手を控えにすることは、スタメンをすべてレギュラーで固める幕張中央に、すなわち相馬の顔に泥を塗ることになる。

 幕張中央ほどの強豪校が、格下の成田東相手に試合を申し込んできた本当の理由がわかった。成田東が強くなったからではなく、他校と同じで、結局は加美由が目的だったのだ。

 幕張中央との試合が決まって、浮かれていた自分が情けなくなった。

 シートノックの直前、岩見からスタメンが発表されると、部員たちはどよめいた。

 加美由が五番サードで先発出場。代わりに横山がスタメンから外された。

「どうしてですか」

 怒りに満ちた表情で、横山は訊ねた。

「この試合に勝つためだ」

 岩見は、静かに答えた。

「俺が出たら、勝てないってことですか」

「お前より、北田のほうが松原を打てる確率が高い。勝つ確率を少しでも上げるためだ」

 横山は、怒りを通り越して笑い出した。

「なにがおかしい」

「そりゃおかしいですよ。だって、仮に北田が打って勝ったとしても、北田は本番に出られないんですよ。それじゃ勝ったって全然意味ないじゃ」

「黙れ」

 岩見の一喝に、ベンチは凍りついた。

「勝つことに意味のない試合なんてねえんだよ」

 岩見も苦しかったが、横山の反論についむきになってしまった。自分はまだまだ未熟だ、と痛切に感じた。

 グラブを足元に叩きつけた横山は、ベンチに踏ん反り返って座った。

「これからシートノックだぞ。何で座ってる」

 白石が、訊ねる。

「どうぞ勝手にやってください。僕はベンチを温めて、みなさんのご多幸をお祈りしておりますよ」

 横山は、引きつった笑いを浮かべながら言い放った。

「白石、放っておけ。準備しろ」

 岩見が促すと、部員たちは戸惑いながらも守備位置に散っていった。

 一番戸惑っていたのは、当の加美由だった。

 まさかスタメンで出られるとは夢にも思っておらず、心の準備がまったくできていなかった。なおかつ、横山の怒りの態度を見て、スタメンで出られるという喜びは霧散していた。

 シートノックが始まり、サードに打球が飛ぶ。何でもない平凡なゴロを、加美由は弾いてしまった。次の球は捕ったが、ファーストの三輪が取れないほどの暴投を放ってしまった。

 そりゃあ、無理もないよな。

 セカンドでその様子を見ていた白石は、小さく息をはいた。

 試合前の挨拶を終え、後攻の成田東ナインは守備位置についた。

「集合」

 先発の竹下の投球練習が終わったところで、白石は内野陣をマウンドに集めた。

「見てみろ」

 白石が頭上を指差すと、そこには澄み切った真っ青な空が広がっていた。

「いい天気だなあ。こんな中で、あの幕張中央と試合ができるなんて、俺たち幸せ者だよな」

 わざとらしい白石の言葉に、内野陣は堪らず吹き出した。

「滅多にない機会だぞ。せっかくだから楽しもうぜ」

 加美由は、胸のつかえが取れた気がした。

「よっしゃ。いっちょやってやろうぜ」

 ショートの木田がグラブで加美由の肩を軽く叩くと、加美由はうなずいた。

 ツーアウト後、幕張中央の三番が放った打球は、強烈なゴロとなって三遊間を襲った。加美由は横っ飛びしてそれをキャッチし、素早く一塁へ放った。今度の送球は逸れることなく、ファーストの三輪の胸元にきっちりと収まった。幕張中央のベンチから、どよめきが起こる。

「ナイス、北田」

 ベンチに戻る際に白石が声をかけると、加美由は伏し目がちに白石とグラブを合わせた。

 助かったよ。

 岩見は、白石の見事なリーダーシップに舌を巻いた。

 マウンドには、幕張中央不動のエース、松原が上った。

「また太ってる」

 佐織は、松原の腹周りを見て呟いた。

 ベルトの上の贅肉は更に盛り上がり、ユニフォームははちきれんばかりになっていた。相撲部屋にいても不思議ではないほど、貫禄のある体躯だった。

「絶対、投げるとき、おなか邪魔だよね」

 佐織は、となりに座る加美由に囁いた。

「でも、アンダースローみたいに極端に身体を曲げないから、そんなには邪魔にならないんじゃない」

 松原は右のオーバースローで、足をあまり高く上げずに、すり足気味に踏み出していた。

 長身から投げ下ろす角度のついたストレートが、キャッチャーミットに唸りを上げて吸い込まれていく。

 一番の木田がバッターボックスに入った。近くで見ると、松原の大きさがよくわかる。知らず知らずのうちに、足が小刻みに震えていた。

 プレーボールの声がかかる。松原は振りかぶり、左足を踏み出し、右腕を勢いよく振り下ろした。

 木田はど真ん中のストレートを見逃した後で、首をひねった。

 続く二球目のストレートも、真ん中やや低めに決まった。一球外してからの四球目、外角低めにきたストレートを、木田は打ち返した。強いゴロだったが、セカンドの真正面に転がり、楽々とアウトになった。

 打ち取られたことよりも、木田が松原のストレートを難なく打ち返したことに、成田東ベンチは騒然としていた。

「どうした」

 しきりに首をひねる木田に、二番の長谷部が訊ねた。

「そんなに速くない」

「え」

「打てるぞ。しっかり球を見ていけ」

 木田の言葉に半信半疑だった長谷部だったが、初球のストレートを見て納得した。

 二球目もストレート。長谷部の打った球はショートの右へ勢いよく転がったが、ショートは難なくキャッチし、一塁へ矢のような送球をした。

 三番の白石も、三球目のストレートをジャストミートしたが、打球はセンター真正面のライナーとなった。

 三者凡退に変わりはなかったが、三人は確実に松原の球を芯で捕えていた。

 白石は、昨夏の大会の豪腕ぶりとの違いに、驚きを隠せないでいた。

 格下だからなめられているのか、それとも、本当に太りすぎて力が衰えてしまったのか。

 実は、そのどちらでもなかった。松原はこの試合を、自分の課題克服のための最終確認をする、絶好の機会と捉えていた。

 これまでの松原のピッチングスタイルは、剛速球で相手バッターを力でねじ伏せるというものだった。

 元来コントロールに難のある松原なので、一試合平均の球数は百三十球と多めだった。しかも、一回から九回、一番から九番まで全力で投げる傾向があり、無駄な体力を消耗してしまっていた。終盤にはストレートの威力も衰え、痛打される場面が多かった。ライバルである船橋商業にあと一歩及ばず、甲子園出場を逃し続けていたのは、そこが大きな要因であった。

 三年生となった松原は、これまでの投球を見直した。甲子園出場のため、監督の相馬とともに、ピッチングスタイルの変更に着手した。打者のレベルに応じて力を抜くところは抜き、コントロールを重視して打たせて取り、少ない球数でアウトカウントを増やすことを心がけ、ピンチや強打者と対戦するときだけ全力で投げた。

 元々あまり器用なタイプではない松原は、力の抜き加減を誤って痛打されることも多かった。いっそピッチングスタイルを元に戻そうか、と悩んだ時期もあったが、それでも途中で放り出すこともなく、辛抱強く取り組んだ。

 夏の大会を目前にして、ようやく理想のピッチングスタイルが完成されつつあった。一回の裏のピッチングも、いい当たりをされてはいたが、ほとんどキャッチャーの構えたところに球が行っていたので、松原自身は手応えを掴んでいた。

 二回の表、竹下はヒットでランナーを一人出すものの、無失点で切り抜けた。試合前に岩見から、山根をリリーフでスタンバイさせるから初回から飛ばせ、と指示されていたので、竹下は強力な幕張中央打線に臆することなく投げ込んだ。

 二回の裏、成田東の攻撃。四番の小宮がバッターボックスに入った。

 松原の投じた初球は、外角低めのカーブだった。二球目、内角高めのストレート。小宮が引っ張った打球は強烈なライナーとなって、ライトのファウルゾーンに消えた。

 幕張中央のエースが、こんなものなのか。

 小宮は、松原の威力のないストレートに拍子抜けした。

 三、四球目と外角に外し、カウントはツーボール・ツーストライク。

 勝負の五球目。小宮は、松原の左足が少し高く上がったように見えた。

 球は唸りを上げ、キャッチャーミットへ轟音とともに吸い込まれた。小宮はまったく反応することができずに、見送ってしまった。

 松原が初めて投げた全力のストレートの威力に、成田東ベンチは静まり返った。

  加美由は、ひとつ小さく息をはいた後で、ゆっくりと左バッターボックスに向かった。

 やっぱり、すごい。

 でも、相手が小宮君だから松原さんも本気で投げたのであって、私ごときに本気で投げてくるはずもない。

 いつもならバッターボックスに入る前になると、相手ベンチから野次が飛んでくるのだが、幕張中央ベンチは野次をいっさい飛ばさず、一様に真剣な表情で加美由を見ていた。 

 加美由がバッターボックスに足を踏み入れると、幕張中央のキャッチャーの橋本(はしもと)が、おもむろに腰を上げた。

「外野、特にライト。もうちょっと下がれ」

 予想外の行動に、成田東ベンチも加美由も唖然とした。外野陣は橋本の指示通りに、後ろに下がっていった。

 主審の手が上がる。松原は橋本のサインにうなずき、ゆっくり振りかぶった。小宮のときよりも更に左足を高く上げ、右腕を勢いよく振り下ろした。

 真ん中低めに決まったその球は、加美由がこれまで見たことのない、すさまじいものだった。

 全身の血がたぎるように、身体が熱くなった。

 手足の震えが止まらなくなり、呼吸が荒くなった。

 二球目。先ほどとほぼ同じコースに、同じ威力のストレートが決まった。加美由はまったくバットを動かさず、すぐに追い込まれた。

 三球目。松原はまたも全力で投げ込んだ。球は内角の高め、加美由が得意とするコースに入ってきた。

 加美由はバットを振ったが、球はバットの下をかいくぐり、轟音とともにミットに収まった。

 バッターボックスの中で、加美由は放心した。

「北田」

 ネクストの吉岡が声をかけると、加美由はフラフラとベンチに戻っていった。

 二人の真剣勝負に、部員たちも呆気にとられていた。

「全部本気だったな」

 小宮が声をかけたが、加美由はぽかんとしていた。

「加美由」

 佐織の声で、加美由は我に返った。

「どうしたの」

 目を向けると、佐織は怯えたような顔をしていた。

「何が」

「だって」

 佐織が言いかけたとき、吉岡が凡退しチェンジとなった。加美由はグラブを手に取り、三塁へ向かった。

 幕張中央の加美由への対応を見て、岩見は、相馬が加美由のスタメンを希望した意図をようやく理解することができた。

 今までの他校は、男子に交じって女子が野球をする、というもの珍しさから、加美由が試合に出るのを希望していたが、松原のさらなる成長を促すためにも、相馬は純粋に強打者としての加美由との対決を望んでいた。

 相馬も、加美由の練習試合での活躍ぶりは噂では耳にしていたものの、ずっと半信半疑だったが、OBの山根兄から成田東の弟を通じてもたらされた加美由の情報を耳にしたことで決心した。山根兄はプライベートでも決して冗談を言うタイプではないので、情報の信憑性は高かった。

 試合の三日前。相馬は部員たちを集めた。

「今度の試合で、向こうは例の女の子を出してくるはずだ。だが、その子は県下いや関東でも屈指のバッターだと言ってもいい。本気で抑えにいけ」

 相馬の言葉は、あまりにも衝撃的だった。野球の上手な女の子がいる、程度にしか思っていなかった部員たちは、思わず顔を見合わせた。

「そんなにすごいバッターなんですか」

 恐る恐る橋本が訊いた。

「山根からの情報だ。間違いない」

 あの山根先輩が、冗談を言うはずがない。

 部員たちは皆、その一言で納得した。

「松原、わかっているだろうな」

「もちろんっす。そんなバッターと戦えるのは滅多にないこと。腕がなりますよ」

 松原は、不敵な笑みを浮かべた。

 吉岡を打ち取った松原は、大股でベンチに戻った。

「ナイスピッチ」

 部員たちが、次々に声をかける。

「どうだった、北田との勝負は」

 相馬が訊ねると、タオルで汗を拭っていた松原は大きく息をはいた。

「いやあ。めちゃくちゃ怖かったっす」

「怖かった」

「最後の球。スタンドに持っていかれるかと思いました」

 松原の言葉に、部員たちは息をのんだ。

「先生の言うとおり、半端ないバッターです。やばいっす。ワクワクしてきました」

 松原は、タオルを強く握った。

 五回の裏、先頭の加美由がバッターボックスへ向かった。

 二人の対決を前にして、両ベンチは静まり返っていた。

 幕張中央の外野陣は、再び後ろに下がった。

 松原が振りかぶる。足を上げ踏み出し、腕を振る。加美由が足を上げ踏み出す。バットを振る。剛速球は橋本のミットを鳴らした。

 二球目。加美由がバットを振ると、球はバットをかすり、バックネットに飛び込んだ。

「当たった」

 ベンチで、木田が叫んだ。

 さすがにストレートだけだと、タイミングが合ってきている。

 橋本は三球目にカーブのサインを出したが、松原は首を横に振った。

 わかったよ。

 しかたなくストレートのサインを出すと、松原はにやりと笑って大きくうなずいた。

 ゆっくりと振りかぶり、足を更に高く上げ、前に倒れ込むようにして腕を振った。

 加美由のバットは、再び空を斬った。

 左手に鈍い痛みを感じた橋本は、顔をしかめた。

 松原とは中学からバッテリーを組んできたが、今まで受けた中でもっとも速く、もっとも重い球だった。

 まだこんな力があるのか。

 橋本は松原の底知れぬパワーに舌を巻き、三振した加美由がどんな表情をしているか気になって顔を上げた。

「う」

 橋本は、思わず唸った。

 眼鏡の奥の両目は見開き、右の口角が上がり、唇は震えていた。

 後続を打ち取りベンチに戻った松原は、橋本の顔が青ざめているのに気がついた。

「腹でも痛えのか」

 橋本は、松原の腕を掴んだ。

「お前、どうやらあの子を本気にさせちまったらしい」

「へ」

「俺たち、もう逃げられねえぞ。変化球のサインなんか出さない。あの子にはすべてストレートだ」

「当然だろ」

 松原はニカッと笑った。

 視線の先には、サードの守備につく加美由の姿があった。

 三度目の対決は、七回の裏におとずれた。

 先頭の白石がサードへのボテボテの内野安打で出塁し、小宮がきっちりと送りバントを決めて、ワンアウト二塁。セットポジションの松原と対戦するのは、初めてだった。

 橋本はサインも出さずに、ミットを真ん中に構えた。球の威力はセットポジションでもまったく衰えず、轟音をとどろかせてミットに飛び込んだ。

 二球目は真ん中高め、見逃せば明らかなボールだったが、加美由は上から思いっきりひっぱたいた。

 打球は強烈なライナーとなり、ライトのポールを襲った。

「うわあ、惜しい」

 ネクストバッターズサークルの吉岡が、頭を抱えた。あともう一、二メートル内側だったら、完全なホームランだった。

 幕張中央ベンチはその打球の鋭さに、時間がとまったかのように沈黙した。

 マウンドの松原も、ライトポールを見ながら茫然としていた。

 こいつ、化け物か。

 振り返った松原は、バッターボックスの加美由を睨みつけた。

 球の当たった個所を見つめる加美由の表情は、前の打席とはうってかわって、とても落ち着いていた。それが逆に、橋本には空恐ろしく感じられた。

 松原は昂ぶった感情を抑えようと、大きく深呼吸をした。

 松原が、セットポジションに入る。橋本が、ミットを構える。松原が足を上げ、腕を振り下ろす。球はど真ん中に行った。

 加美由が、バットを振る。

 やられた。

 橋本は、思わず目を瞑った。

 だが、目を開けると、球はミットの中に収まっていた。

 橋本の左手に、また激痛が走った。

「よっしゃあ」

 空振りに仕留めたとわかった松原と橋本はこぶしを突き上げたが、直後に加美由の咆哮がこだますると、二人は固まった。

 グラウンドは、再び森閑となった。

 橋本が恐る恐る目をやると、加美由はまた異様な笑みを浮かべていた。

 幼馴染の佐織でさえ、加美由があんなにも感情むき出しで叫ぶところなど、未だかつて見たことがなかった。

 嘘だ。

 あんなの、加美由じゃない。

 ペンを持つ右手の震えが、とまらなかった。

 試合は八回の表まで終了し、幕張中央が二―〇とリードしていた。

 竹下もよく投げたが、六回の表に堪えきれず、二本のタイムリーを浴びた。直後にリリーフした山根が無失点で抑えていたが、今日の松原の出来からして、二点差はとてつもなく大きく感じられた。

 八回の裏、松原は突如制球を乱し、二つの四球を与えた。なんとか後続を打ち取ったものの、ベンチに戻った松原はしきりに首を捻っていた。

「わざとらしいなあ」

 相馬の指摘に、松原はドキッとした。

「何がですか」

「これで次の回、北田に打順が回ってくるもんなあ」

 部員たちは、一斉に松原のほうを見た。

「違いますよ。俺がコントロール悪いのは、先生もよく知ってるじゃないですか。本当にたまたまですって」

 両手を思いっきり振って松原は否定したが、部員たちは冷ややかな視線を浴びせた。

「遊びじゃねえんだぞ。まったく」

 ため息交じりに言った相馬の表情は、どことなく穏やかだった。

 想像を遥かに超える加美由の力。

 それに呼応するかのように、松原が自分の潜在能力を引き出していく。

 この機会を与えてくれた岩見に、相馬は心の底から感謝した。

 九回の表も、山根が無失点で抑えた。

 二―〇のまま、九回の裏、成田東の最後の攻撃が始まった。

 先頭の白石は、三球目のカーブを叩いた。いい当たりだったが、打球はレフトのほぼ正面だった。

 続く小宮は、松原のストレートに食らいつき、ファウルで粘った。

 八球目、松原の投じたストレートは唸りを上げた。小宮はまったく手がでず、見逃し三振に倒れた。

 なぜバットが出なかったのか。

 悔しさのあまり、小宮は自分の腿をこぶしで叩いた。

「頼む」

 小宮に声をかけられた加美由は小さくうなずき、バッターボックスに入った。

 松原さんとは、これが最後の勝負。

 終わってほしくない。

 ずっと、勝負をしていたい。

 深呼吸をしてから、加美由はバットを構えた。

 松原が、ゆっくりと振りかぶる。左足は今までで一番の高さまで挙がった。

 左足を思いきり前へ踏み出すと、着地したところから土埃が舞った。

 球が指から離れた瞬間、松原は右腕が抜けて飛んでいきそうな感覚に襲われた。

 こんな感覚は、野球をやってきて初めてのことだった。

 幕張中央の内外野は打球を目で追うことすらできず、一歩も動けなかった。

 バックスクリーンのスコアボードから、鈍い金属音が聞こえた。

 加美由はバットを足元に置いて、一塁へ向かって走り出した。

 松原は、マウンドに立ちつくしたまま、微動だにしなかった。

 加美由がホームインすると、松原は肩を揺らして豪快に笑った。

 この日の最速、今までの野球人生で最高の球を、完璧に打ち返された。

 悔しいという感情は、いっさい湧かなかった。

 あまりにも完璧だったので、逆に可笑しくて堪らなくなった。

 キャッチャーの橋本も、同じことを思っていた。

 あの球は、間違いなく過去最高の球だった。

 それを、あそこまで持って行くなんて。

 マウンドでゲラゲラ笑う松原を見て、橋本は堪らず吹き出した。

「ありがとうございました」

 加美由は、橋本に頭を下げた。

 その笑顔は、今までに見せた恐怖すら感じる異様なものとは正反対の、とろけそうなくらいに柔らかなものだった。

 二―一、幕張中央の勝利で試合は終了した。

 ホームベースを挟んで整列し、挨拶をした後で、松原は加美由に握手を求めた。

「やられたよ。あんたはすごい」

 松原の大きくごつい手が、加美由の小さな手を包む。

「松原さんの球も、本当にすごかったです」

「だろ。一応三振三つ取ったんだから、俺の勝ちでいいよな」

「はい」

 加美由がうなずくと、松原は苦笑した。

「たぶんもう勝負することはないと思うけど、野球は絶対続けてくれよな」

 松原は、名残惜しそうに手を離した。

「夏の大会、頑張ってください」

 加美由が言うと、松原は白い歯をこぼした。

 本当に悔しくないのは、本気で投げた完璧な球を完璧に打たれたときだけだよ。

 遠ざかる松原の背中を見て、加美由は恵理の言葉を思い出した。

 打って、打って、打ちまくれ。

 そうすればきっと、本気で投げてくれるピッチャーに出会えるはず。

 本当だね、恵理。

 加美由は、心の中でつぶやいた。

 ベンチに戻ると、佐織が怯えた目で加美由を見ていた。

「佐織」

 加美由が声をかけた途端、佐織の両目からポロポロと涙がこぼれた。

「何でまた泣いてるの」

 戸惑う加美由に、佐織は嗚咽しながら捲し立てた。

「だって、加美由がいつもと違っていて怖い顔してたり、ワーって叫んだりして、私の知っている加美由がどこかに行っちゃった気がして、怖くて」

 加美由は、息をのんだ。

 自分をそこまで変えてしまう野球の力に、改めて畏敬の念を抱いた。

「どこにも行かないよ。ずっと佐織のそばにいるから」

 加美由が頭を撫でると、佐織の嗚咽は少しずつ収まっていった。


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