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秋も深まり、肌寒い日が続いていた。
ベンチ前に集合した部員たちに岩見から、今年最後の練習試合の日程が発表された。
対戦相手は大平工業。
過去に甲子園出場経験もある公立の古豪だが、近年は二、三回戦敗退が続いていた。レベル的には、今の成田東と同じくらいの相手だった。
「北田も試合に出すから、そのつもりで」
岩見に言われ、加美由は小さく返事をした。横山は苦々しい表情をしていたが、加美由の驚異的なバッティングを目の当たりにしている他の部員たちは、反論すること自体馬鹿馬鹿しいと思っていた。
「今年の総仕上げだ。内容も大事だが、必ず勝って終わるぞ」
岩見の言葉に、部員たちは大きな声で返事をした。
「やったじゃん」
佐織は、肘で加美由をつついた。
ついに試合に出られるという喜びと、本当に出られるのかという半信半疑の感情が入り交じっていた。
「ホームラン打ってよ」
「は」
「加美由なら打てるでしょ」
「簡単に言ってくれるね」
加美由は、肩をすくめた。
練習が終盤に差し掛かった頃、久しぶりに部長の安藤がやってきた。
「いや、面目ない。すっかりご無沙汰になってしまった」
安藤は岩見に軽く頭を下げてから、グラウンドで走塁練習をしている部員たちに目をやった。
「北田さんも、もうすっかり馴染んでいるみたいですね」
部員たちと一緒にベースランニングをする加美由に、安藤は目を細めた。
「安藤先生のおっしゃっていたとおりでした」
岩見は苦笑いを浮かべたが、すぐに真顔に戻った。
「ただ一つ、誤算、いや大誤算がありまして」
「大誤算」
「北田の野球センスが、ずば抜けていることです」
「センス」
「はい。守備、走塁、打撃、すべてが想像以上でした」
「なんと」
「もし、北田が公式戦に出られるのであれば、小宮の代わりに四番を打たせます」
岩見は、きっぱりと言いきった。
「それほどまで」
安藤は改めて、サードベース近くで膝に手をつき、息を整えている加美由を見た。
「次の大平工業戦で、途中から出そうと思っています」
「そうですか。いよいよデビューということですね」
「はい。ただ、北田を出すことによって、周りがどういう反応をするのか、正直読めないところもありますが」
加美由の走る姿を目で追いながら、岩見は小さく息をはいた。
「本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
岩見は帽子を脱ぎ、深々と頭を下げた。
「こちらこそ。よろしく頼むよ」
大平工業監督の戸沢は、岩見と握手をしながら、にこやかに笑った。
「おたくも大変そうだけど、うちもここ数年低迷しているからなあ。こういった練習試合を積み重ねて、何かきっかけを掴めれば、と思っているんだよ」
戸沢は、外野の芝生でキャッチボールをしている大平工の部員たちに目をやった。
「お忙しい中、試合を受けてくださって、本当にありがとうございました」
岩見は、また頭を下げた。県内の高校球界でも若手の岩見は、他校の監督には常に敬意を払わなくてはならなかった。
「とんでもない。おたくも部員が少なくて大変なのに、夏の予選で幕張中央となかなかいい試合をしていたし、小宮君という良いバッターもいるし、前から一度試合をしてみたかったんだよ」
戸沢のよいしょに、岩見はむず痒くなった。
「しかし、いつ見てもいいグラウンドですね」
大平工のグラウンドを、ぐるりと見回した。外野の天然芝の高さは綺麗に整えられていて、禿げている個所はひとつもなかった。内野も良質な土で丁寧に均されていて、イレギュラーも起きそうにないほど平らになっていた。
「うちはOBの数だけは県内でもトップクラスだからな。二十年前に甲子園に出場したときは、寄付がすごかったらしい。そのおかげでグラウンドも設備も立派になったが、最近は成績が悪いから宝の持ち腐れってよく言われるよ。OBのプレーッシャーも大きくてね」
戸沢は、頭をかいた。
「心中お察しします」
鬼軍曹時代、OBからの批判を一身に浴びていた岩見にとって、戸沢の話は他人事ではなかった。
戸沢は、ライト方向でキャッチボールをしている成田東ナインに目をやった。
「岩見君、あの子は」
戸沢の指差す方向を見ると、加美由が小宮とキャッチボールをしていた。
「北田と言います」
「女の子、だよね」
「ええ。マネジャーだったんですが、どうしても野球をしたいと言うので」
他の部員たちと変わらない距離で鋭い球を投げ込んでいる加美由に、戸沢は一瞬にして目を奪われた。
「今日、試合に出そうと思っていますが、よろしいですか」
「え、ああ。しかし、すごいな」
岩見の問い掛けは、うわの空だった。
試合に先立って、先発メンバーが発表された。
注目の五番は、横山だった。名前が呼ばれた瞬間、横山は喜色満面になり元気良く返事をした。加美由の名は無かったが、さすがに最初からスタメンで出られるとは加美由自身も思っていなかった。
「それと、主審は戸沢先生が頼んでくれた審判の方が来てくれたんだが、塁審がいないので、双方で選手を出すようになった。一、二塁の塁審は大平工の一年がやってくれるそうだ。うちは三塁の塁審を頼まれているんだが」
岩見は、部員たちの顔を見回した。
「悪いが北田、やってくれるか」
部員たちは、一斉に加美由のほうを見た。加美由は、はい、と小さく返事した。
「いいか。この前も言ったが、最後は勝って終わるぞ」
岩見の檄に、部員たちは気合いの入った声を出した。
「試合に出すって言ってたのに」
小声でぶつぶつ文句を言いながら、佐織は加美由に黒のジャンパーを手渡した。
「最初からは無理だって」
ジャンパーを受け取った加美由は、袖に腕を通した。
主審の、集合、という掛声とともに、両ベンチから選手が出てきた。ベース前に整列した両チームに、九回で延長なし等々ルール説明があったが、大平工部員たちの視線は説明する主審のとなりに立つ加美由に注がれていた。
帽子を脱いで挨拶をし、後攻の大平工ナインは守備位置に散った。
加美由はいつもの癖でベンチに戻ろうとしてしまったが、慌てて三塁に方向転換した。滅多にない加美由の天然ぶりを見て、佐織は思わず吹き出した。
「あの審判の子、超かわいくねえ」
「でも、何で女子が審判やるんだ」
「人手不足なんじゃねえの」
ベンチ前で、大平工の部員たちがざわついていた。
「お前ら、何くっちゃべってるんだ」
戸沢の一喝に、部員たちは姿勢を正し、ナインに声援を送った。戸沢は、部員たちの士気の低さを嘆いた。
「ねえ。名前何て言うの」
大平工のサードの選手が、ニヤニヤ笑いながら訊ねてきた。
「北田です」
「俺、植松。試合終わったらデートしてよ」
これから試合が始まるというのに、まったく集中していない。
古豪と言われる大平工が最近低迷している理由が、何となくわかった気がした。
「聞いてる」
植松を無視した加美由は、真っ直ぐ前を見据えた。植松は軽く舌打ちをした後で、ホームに向き直った。
大平工のエース水野は、右横手投げから繰り出すスライダー、シンカー、カーブと多彩な変化球で、打たせて取るタイプのピッチャーだった。ストレートは竹下よりも遅かったが、低めに集めるコントロールは長けていた。
岩見はそこを考慮して、早いカウントから積極的に打つよう指示していたが、それが逆に水野の術中にはまり、一回の表の成田東の攻撃は、わずか七球、すべて内野ゴロで仕留められてしまった。
少なくとも、バッテリーはやる気があるのかもしれない。
加美由は、そう思った。
一回の裏。竹下も負けじと大平工打線を十球で三者凡退にした。
二回の表。四番の小宮が打席に立った。
練習試合だから打たれてもいい。逃げることだけはするな。
試合前に戸沢にそう言われていた水野は、初球、ストレートをど真ん中に投げた。あまりにも甘い球だったので、小宮は逆に手が出ず見逃した。
ストライク、ボールと続き、カウントはワンボール・ツーストライク。
水野は決め球に一番自信のある、左打者から逃げるようなシンカーを放った。
小宮は何とか食らいつきバットの先に当てた。
打球は三塁線を襲うゴロとなった。
サードの植松がグラブを伸ばしたが、打球はグラブの先を通り過ぎた。それを見て、三塁塁審の加美由は左手を振り、フェアのジェスチャーをした。打球がレフトへ転々とするあいだに、小宮は二塁まで進んだ。成田東ベンチは盛り上がっていたが、二塁ベース上の小宮は不満そうに首をかしげていた。
守りが雑すぎる、と加美由は思った。
確かに飛んだコースは良かったが、バットの先っぽに当たった力の無い打球だった。にもかかわらず、植松は追いつくことができなかった。
捕れないまでも、せめてグラブで止めてシングルヒットまでにしておくことは可能だったのではないか。
加美由には、植松がユニフォームを汚すのを躊躇っているようにしか思えなかった。
ノーアウト二塁。いきなりのチャンスに、五番の横山は意気揚々とバッターボックスに入った。
「よっしゃあ、こいや」
気合いを入れた後で、バットを構えた。
セットポジションからの投球となった水野は、初球にカーブを外角に投げた。
「ストライク」
微妙なコースだったが、主審の手が上がった。ボールだと思って悠然と見逃した横山は思わず、えっ、と大きな声を出した。
「馬鹿が」
岩見は、苦々しく呟いた。
二球目、明らかに外した外角のスライダーに手を出してしまい、ファーストへのファウルフライに打ち取られた。
不服そうにベンチに戻ってきた横山に、岩見が吠えた。
「審判は絶対なんだよ。えっ、てなんだ」
横山は消え入るような声で、すみません、と謝った。
その後、六番、七番も凡退し、小宮は生還するどころか三塁を踏むことすらできなかった。
うつむきながら三塁ベースまで来た横山が顔を上げると、視線の先には加美由が立っていた。
「いい気味だと思っているだろ」
加美由は、小さく首を横に振った。
「次、見てろよ。大活躍して、お前の出番をなくしてやる」
横山はショートの木田からの球を受け取り、キャッチャーの大橋へ勢いよく送球した。
試合は両チーム無得点のまま、四回の表、成田東の攻撃。
ワンアウトから、三番の白石がレフト前のクリーンヒットで出塁した。岩見は四番の小宮に、そのまま打たせることにした。
大平工バッテリーは、外角に落ちるシンカーで引っ掛けさせ、併殺打を取る作戦に出た。
内角に一球、見せ球のストレートを放り、その後シンカーを外角に二球続けたが、小宮は手を出すことなく、しっかりと見極めた。
カウントはスリーボール・ノーストライクとなった。戸沢に逃げるなと言われていた水野だったが、さすがにここまで不利なカウントになってしまうと、小宮相手にど真ん中に三球続ける勇気はなく、敬遠気味に外角へ外した。
ワンアウト一、二塁、成田東にとってこの試合、最大のチャンスを迎えた。
バッターボックスに向かう横山は、前の打席のリベンジに燃えていた。
「さあ、こいや」
大きな声を出した横山は、マウンドの水野を睨みつけた。
水野は二塁ランナーの白石を目で牽制した後で、初球に大きく曲がるカーブをまたも外角に投げた。
「ストライク」
一打席目のリプレーを見ているかのようだったが、今度の横山は悠然と見送った。
二球目、水野の放った球はまた外角のカーブ。ツーストライク。見送った横山は笑みを浮かべたが、その顔は明らかに引きつっていた。
大平工バッテリーは、二回の表の横山のバッターボックスでの所作を見て、ストレートしか待っていないことをすでに見切っていた。そのため、水野が持つ一番遅い球、すなわちカーブで翻弄させる作戦に出た。バッテリーの思惑どおり、横山はあっという間に追い込まれてしまった。
三球目、水野の放った球は、カーブに目が馴れてしまった横山には到底対応できるものではなかった。内角から膝元に落ちるシンカーで、横山のバットは虚しく空を斬った。
顔をしかめた横山は、バットでヘルメットをコツンと叩いた。
「工夫が無い」
岩見は、吐き捨てるように独りごちた。
チャンスは潰えたかにみえたが、続く六番の吉岡が十球粘って、一、二塁間をしぶとく破るヒットを放った。二塁から小宮が生還し、成田東は先制点をもぎ取った。
六回が終了し、一―〇で成田東がリード。
竹下は大平工打線を散発二安打無四球に抑える、今年一番と言っていいほどのピッチングを見せていた。一方の水野も、小宮の第三打席をショートゴロに打ち取るなど、三安打に抑えていた。
七回の表、成田東の攻撃は、これまで不本意なバッティング内容が続いている、五番の横山からだった。
大平工バッテリーの変化球攻めにすっかり惑わされていた横山は、来た球を打つという、シンプルな考えに切り替えることにした。
水野は、一転してストレートを二球続けた。変化球のイメージが頭にこびりついていた横山はまったく対応できず、完全に振り遅れた。
三球目、水野の選んだ決め球はまたもストレート、外角低めに飛び込んだその球に、主審は高々と腕を上げた。
ボールと思って見逃した横山は、たまらず天を仰いで悔しさを露わにした。
「またかよ」
白石が、呻くように呟いた。度重なる主審への無礼な態度は、成田東ベンチにしらけた空気をもたらしていた。
岩見は、加美由に向かって手招きした。
「横山、北田と代われ」
「え」
「代われ、と言ってるんだ」
岩見の目は、怒りに満ち満ちていた。その迫力に圧された横山は反論する気も失せ、黙ってジャンパーを掴んだ。
「次からサードだ」
ベンチに戻ってきた加美由は、はい、と小さく返事をして、羽織っていたジャンパーを脱いだ。
立ちっぱなしで冷えた身体を温めるために、ベンチの後ろで往復ダッシュを始めた。
成田東の攻撃は、三者凡退で終了した。
岩見はベンチから出て、主審に守備の交代を告げた。
「あの、監督さん」
「はい」
「あの子、女の子、ですよね」
守備についた加美由を見て、主審は何度も瞬きした。
「練習試合ですので、ご了承いただけないでしょうか」
「しかし、大丈夫ですか」
「他の選手と同じように鍛えていますので、心配ありません。もし何かあったら、私が責任を取ります」
岩見は、力強く言いきった。主審は、戸惑いつつも交代を認めた。
成田東の攻撃がすぐに終わってしまったので、加美由は肩をつくる暇もなかった。それを察した内野陣は、竹下が投球練習中に行っている守備練習はせず、ショートの木田が加美由と短い距離でのキャッチボールの相手をした。
三塁塁審についた横山は、芝生に足を擦りつけながら何度も舌打ちしていた。
大平工ベンチは、サードの守備につく加美由を見てどよめいた。
監督の戸沢も、試合前に岩見が加美由を試合に出すと言ったのを、うわの空で聞いていたので、状況が飲み込めずに唖然としていた。
練習試合とはいえ、ロースコアの競ったゲームで、しかも女の子を出すとは。
まさか、この試合を捨てたのか。
戸沢は、ベンチで腕組みする岩見に目をやった。
主審の右手が上がり、試合が再開した。
大平工の三番水野は、サードの加美由がどうしても気になったが、気持ちを入れ直して打席に集中した。
竹下の投じた四球目、内角のストレートを水野は弾き返した。代わったところに打球が飛ぶ、とはよく言ったもので、打球は強烈なゴロとなって三塁線を襲った。
加美由は素早く反応し、グラブを伸ばした。球はグラブの先端に当たり、ファウルゾーンに転がった。それを右手で素早く掴むと、ノーステップで一塁に矢のような送球をした。
「セーフ」
一塁塁審が手を広げたが、タイミングは紙一重だった。大平工ベンチから、地鳴りのような感嘆の声が上がった。
表情にこそ出さなかったが、なぜキャッチできなかったのか、と加美由は悔いた。
アップ不足で身体が充分に温まっていなかったのだから無理もないのだが、それを言い訳にすることはしたくなかった。
「なかなか面白くなってきたんじゃないの」
四番の植松は舌なめずりをした後で、右バッターボックスに入った。
ノーアウト一塁、定石なら送りバントだが、戸沢は裏をかいてエンドランのサインを出した。
竹下が足を上げた瞬間、内野陣は同時に、走った、と声を出した。
まさかピッチャーの水野を、しかも初球から走らせると思っていなかった竹下は動揺し、真ん中に甘いストレートを放ってしまった。
植松は、待ってました、とばかりに勢いよくバットを振った。
打球はレフトを守る吉岡の頭を越え、スタンドに飛び込んだ。
逆転した大平工のベンチは、祭りのごとく盛り上がった。采配があまりにもうまくいきすぎたためか、戸沢は苦笑いを浮かべていた。
「これで、デートしてくれる」
三塁ベースを回る直前、植松はニヤリと笑いながら加美由に囁いた。
加美由は植松と目も合わさず、足元の土を均した。
甘い球とはいえ、スタンドまでもっていくパワーがあるのだから、不真面目で守備が緩慢でも四番を打たせてもらっているのだろう、と加美由は分析した。
それと同時に、水野の打球を内野安打にしてピンチをつくってしまった自分のふがいなさを嘆いた。
試合は一―二で九回の表、成田東最後の攻撃となった。
水野はエンドランでの疲れもほとんど見せず、二番木田、三番白石を内野ゴロに仕留めた。
ツーアウトとなり、打席には四番の小宮が向かった。
「お前に回すからな」
小宮は振り向いて、ネクストバッターズサークルに控える加美由に声をかけた。加美由は、黙ってうなずいた。
水野は、持てる球すべてを駆使し、抑えにかかった。小宮もファウルで粘った。
八球目、決め球のシンカーがやや真ん中高めに入った。小宮は、失投を逃さず振り抜いた。
打球は右中間を鋭く破り、小宮は悠々と二塁まで達した。
加美由は、ひとつ息をはいてから打席に向かった。
「行けえ、加美由」
ベンチから、佐織が声援を送る。強めに素振りした後で、左バッターボックスに入った。
「タイム」
大平工のキャッチャー村井が、マウンドの水野に駆け寄った。
「一塁は空いているが、勝負するか」
「何言ってんだ。当たり前だろ」
水野は、語気を強めた。
「戸沢先生も、逃げるなって言ってたじゃねえか。女に打たれてたまるかよ」
いつになく気合いの入った表情の水野に一安心した村井は、ミットで水野の肩をぽんと叩いてから戻った。
主審の手が上がる。
セットポジションに入った水野は村井のサインにうなずき、投球動作に入った。
初球は外角ギリギリに決まるシンカーだったが、加美由は見逃した。二球目、今度は内角にスライダーを放った。これも見逃し早々にツーストライクと追い込まれた。
加美由は一旦打席を外し、バットの芯のところを見つめた。肩を上下させて息をはいてから、再びバッターボックスに入った。
一球外した後の四球目、水野は決め球に外角に落ちるシンカーを放った。加美由はそれをフルスイングした。球はかろうじてバットに当たり、ファウルとなって三塁側スタンドに飛び込んだ。
五球目、外角のシンカーを、加美由はまたもフルスイングした。バットの先っぽに当たった球は、三塁側のファウルゾーンに力なく転がった。
バットを振った後で、加美由は足元をふらつかせた。
「おかしい」
岩見が呟いた。
「あんなに振り回す北田は、練習でも見たことがない」
木田が唸った。
「まるで、ホームランでも狙ってるみたいだ」
白石の一言に、佐織は血の気が引いた。
まさか。
六球目、七球目もファウル。加美由はなおもフルスイングを続け、次第に肩で息をするようになった。
何なんだ、こいつ。
水野は、フルスイングを続ける加美由に、恐怖すら感じていた。
八球目、九球目、普段の加美由なら仕留められそうな甘い球だったが、フルスイングのためにことごとくファウルになった。
私のせいだ。
佐織の膝は、小刻みに震えていた。
十球目、水野は、外角低めにシンカーを投げ込んだ。その球はストライクゾーンからボールゾーンへ鋭く曲がった。
度重なるフルスイングにより疲れがピークに達していた加美由だったが、渾身の力でバットを振った。そのスイングは完全なアッパースイングで、野球の基本からは大きく逸脱しているものだった。
高く上がった打球に、大平工のライトは少し下がってから両手を広げて捕球体勢をとったが、すぐに諦めた。
打球は、そのままスタンドの場外に消えていった。
グラウンドは、一瞬にして静寂に包まれた。
しばらくして、一塁塁審の右腕がゆっくり弧を描いた。
加美由は、そっとバットを地面に置き、一塁へ走り出した。
「お前、何者だ」
三塁ベースを踏む直前、植松が虚ろな目をして言った。加美由は何も答えずに、植松の前を通り過ぎた。三塁塁審の横山は、ライトスタンドを見たまま固まっていた。
ホームベースを踏んだ瞬間、成田東ベンチからは割れんばかりの歓声が上がった。
バットを拾ってベンチに戻ってきた加美由は、岩見に呼びとめられた。
「どういうことだ」
ヘルメットを脱ぎ、バットを戻した。
「なぜ、あんな一発狙いをした」
岩見が訊ねると、加美由は頭を下げた。
「すみません。でも、約束なんで」
「約束」
加美由の視線の先には、ベンチの奥でスコアブックを胸に抱えて泣きじゃくる佐織の姿があった。
「佐織」
顔を上げると、眼前に加美由が右手を挙げて立っていた。
「佐織も」
加美由に促されると、佐織は恐る恐る右手を挙げた。
佐織の手のひらと、加美由の手のひらが合わさると、パシン、という心地の良い音が響いた。
「約束、守ったでしょ」
加美由は、涙でぐしょぐしょになった佐織の顔を覗きこんだ。
「馬鹿」




