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練習に参加してから、二週間が経った。
加美由は、もうすでに違和感なく練習に溶け込んでいた。
最初は戸惑っていた部員たちだったが、加美由の野球への真摯な取り組み、その謙虚な姿勢に感化された者も多く、岩見が危惧していたほどの混乱はなかった。改めて安藤の、人を見る確かな目に驚かされた。
加美由も、練習に参加できる喜びで満ち溢れていた。その一方で、思っていた以上にブランクを感じることがあり、歯痒い思いもしていた。
守備に関してはそれほど衰えを感じなかったが、バッティングは理想とは程遠い内容が続いた。
練習では十球に一球はヒット性の当たりを飛ばしていたのだが、凡打のほとんどがボテボテの内野ゴロだった。竹下の球はおろか、ピッチングマシーンの球にも詰まってしまう場面も多く見られた。初めは驚きの連続だった部員たちも、加美由の打撃が下降線を辿るのを見て、半ば安堵に近い気持ちを抱くようになっていた。
今日もピッチングマシーン相手に凡打を繰り返した加美由は、次を打つ横山と目が合った。
「お嬢さん、調子悪そうだねえ」
バットを右肩に担ぎながら、ニヤニヤ笑っている。
「俺が、バッティングの真髄ってものを見せてやるよ」
得意げな横山を一瞥した後で、加美由はベンチに戻っていった。
「けっ、能面女が」
加美由の背中に向かって吐き捨てるように言った横山は、意気揚々とバッターボックスに入った。
「さあ、こいや」
物言わぬピッチングマシーンに向かって、横山は大声で叫んだ。
ベンチに戻った加美由は守備につくためにバッティンググローブを外し、自分のグラブを手に取った。
背後で乾いた金属音がこだまして振り向くと、横山の打球がちょうどレフトスタンドに飛び込んだところだった。横山は右のこぶしを突き上げ、喜びを爆発させた。
「はあ、すごいや」
ベンチに座って球を磨きながら、佐織は力なく笑った。
「嫌な奴だけど、言うだけのことはあるわ」
事実、最近の横山は絶好調で、バッティング練習では必ず一本は柵越えを放っていた。
岩見のマンツーマンの指導により、悪癖のポップフライも減少し、流し打ちなど器用な打撃もできるようになっていた。
当初は横山に対して放任主義を通した岩見だったが、夏の大会直後に横山から直接指導してほしいと強く要望された。岩見は不器用そうな横山に指導して、逆に混乱させてスランプに陥ってしまうのではないかと躊躇ったが、意外に飲み込みが良く、岩見の予想を上回る成長を見せていた。
チームとしては、小宮の後ろを打つ五番バッターの育成が急務だったが、横山は現時点で筆頭候補となっていた。
「加美由も、負けてられないね」
「そうだね。だいぶ差をつけられているからなあ。佐織に」
「へ」
唖然とする佐織をよそに、加美由はグラウンドへと駆けていった。
「調子いいじゃねえか」
岩見が声をかけると、ベンチに戻ってきた横山は胸を張った。
「先生のご指導の賜物です」
「お世辞はいい。お前が努力したからだ」
「へへ。どうも」
照れた横山は、グラブを手に取った。三塁のほうに目をやると、加美由がベースの前の土を足で均していた。
「先生。あのお嬢にも指導してやってくださいよ」
「お嬢」
横山は、加美由を指差した。
「ああ、北田か」
「最近、全然打球が飛ばないし。まあ、女ですからね。所詮」
横山の背後で、佐織が恨みのこもった目を向けていた。
「あいつに教えることは、何もないな」
岩見は、ポリポリとこめかみをかいた。
「でしょうね」
横山は鼻で笑い、グラウンドへ出ていこうとしたが、次の岩見の一言で足がとまった。
「直すところがねえ」
「あんにゃろう、また嫌味言ってたよ」
自分の守備の時間が終わってベンチに戻ってきた加美由に、佐織は顎でサードを守る横山を指した。
「何て言ってたか、知ってる」
「いいよ。言わせておけば」
素っ気なく言った加美由は、グラブをベンチに置いた。
「くやしくないの」
「全然」
淡々とスパイクからアップシューズに履き替える加美由を見て、佐織は小さく息をはいた。
「私はくやしいな。加美由が好き勝手言われるの」
「ありがとう。でも今はね、他の人のことは考えられないの。自分のことで精一杯だから」
身体も野球に慣れてきて、スイングも理想に近いものができるようになった。技術的な部分でのブランクは克服しているはずなのに、どうしても打球が飛ばない。引っ掛けたり、詰まったりの繰り返し。なぜ打てないのか、冷静に自己分析できる加美由でも、未だに答えを導き出せずにいた。
同時に、加美由は佐織への申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。佐織の頑張りは、加美由の想像を遥かに超えていた。マネジャーが二人から一人となり、仕事量も二倍になったにもかかわらず、佐織はそつなくこなすようになっていた。練習に参加した当初は、佐織の負担が大きすぎると思い、時間を見ては手伝ったりもしていたが、そうすると佐織は露骨に嫌な顔をした。
「加美由は野球しなきゃだめでしょ。私の仕事を取らないで」
そこまで言われると、さすがにそれ以上手を出すことはできなかった。
佐織からすれば、加美由に野球に集中してもらいたい、という親心にも似た気持ちからだったが、加美由は佐織が過労で倒れてしまうのではと逆に心配になり、それが野球への集中の妨げとなってしまっていた。
だが、加美由の心配は杞憂に終わった。佐織の上達ぶりは目を見張るものがあった。しかも、黙々とこなす加美由に対して、佐織はいつも明るく元気にこなしているので、部員たちにマネジャー業の大変さがいまいち伝わっていなかった。
もっと、佐織のすごさを認めてあげてもいいのに。
加美由は、常々不満に思っていた。
そんな佐織のおかげで野球に打ち込めるようになったのに、思うような結果を出せていない自分が歯がゆかった。
ごめんね、佐織。
心の中で、何度も佐織に謝っていた。
スパイクを袋に入れ、バックの中にしまおうとしたとき、バッティンググローブが一つ無くなっていることに気がついた。
「これ、もう一個どこかに落ちてなかった」
片方のバッティンググローブを手に取り、佐織の目の前に掲げた。
「その黒いやつ。えっと」
周囲を見回した佐織は、ネクストバッターズサークルの辺りを指差した。
「あそこにあるの、そうじゃない」
「え、どこ」
「ほら、あそこ」
佐織の指さす方向を見たが、加美由にはそれらしき物は見えなかった。佐織はやれやれといった表情でそこまで歩いて行き、拾って戻ってきた。
「ね」
加美由の前に差し出されたそれは、土埃で汚れていたが、紛れもなく自分のバッティンググローブだった。
「大事な物なんだから、ちゃんとしまっておかないと。まったく」
苦笑する佐織の顔を見た加美由は、いきなり佐織の両手をがっちりと握った。
「え、何」
「本当に、本当に、どうもありがとう」
加美由の目は、いつになく爛々と輝いていた。
「どういたしまして」
たかがバッティンググローブを拾っただけなのに、何でこんなに感謝されるのかしら。
佐織は、戸惑うばかりだった。
翌日の練習。加美由が黒いフレームの眼鏡をかけてきたのを見て、部員たちは一様に驚いた。
「目、悪いのか」
白石が訊ねる。
「はい。ちょっと」
中学に入った頃から、加美由の視力は急激に落ち始めた。軽い乱視にもなり、時々物がブレて見えるようにもなった。
眼科の医師からは、矯正のために眼鏡かコンタクトレンズの使用を勧められた。都子や恵理からはコンタクトレンズにしたら、と言われたが、眼の中に異物を入れるというのがどうも苦手で、結局眼鏡を選択した。
ただ、日常生活では眼鏡無しでもあまり支障がなかったので、授業中や本を読むときなど、細かい文字に触れる際にだけ眼鏡をかけるようにしていた。
バッティングで、完璧に捕えたと思った球がことごとく凡打になった最大の原因は視力だと加美由は確信した。バットの芯に確実に当たっているはずなのに、どれも球の上っ面ばかりで微妙にずれていた。
乱視によるブレがそうさせるのだと、加美由は昨日、佐織のおかげで気がついた。
「これで、いよいよ本領発揮ってか」
横山が冷笑するも、加美由はただ黙っていた。
「言っておくが、今日は守備練習のみだ。アップを始めろ」
岩見の低い声が響くと、部員たちは外野のほうへ走り出した
そういうことね。
佐織は、納得した表情でうなずいた。
守備についた加美由は、岩見の左右に強い打球に対し、更に安定感のあるグラブ捌きを見せた。明らかに球がよく見えるようになり、グラブの芯で捕りやすくなった。
それほど衰えを感じていなかった守備でもこれだけ効果があるのだから、バッティングではもっと効果があるのでは。
加美由は、期待に胸を膨らませた。
またうまくなってる。
ショートから加美由の守備を見ていた木田が、唸った。同じサードを守る横山は、すぐそばで見ているにもかかわらず、その違いに気づくことなく、無邪気に声を張り上げて岩見の次の打球を待っていた。
練習が終わり、一年生たちは倉庫からトンボを取り出し、グラウンド整備を始めた。
「ああ、つまんねえ」
横山が、トンボで地面を叩いた。
「今日は守備だけだし、明日は試合形式。バッティングしてえよ」
「昨日しただろ」
木田が、呆れて言った。
「物足りねえよ。まだまだ打ちたい」
横山は、こぶしを握った。
「じゃあ今からやるか、バッティング」
小宮の一言に、一年生たちは目を丸くした。
「まだ照明が落ちるまで時間があるし、一人五球ずつくらいならできる」
「でも、先輩たちに叱られるんじゃ」
長谷部が、オドオドしながら言った。
「大丈夫だって。また整備すりゃいいだけの話だよ。どうせ一年の仕事なんだから、先輩らに文句を言われる筋合いはねえよ」
小宮はトンボを担ぐと、ベンチへ向かって歩き出した。
「さすが小宮、話がわかる」
横山も、スキップしながら小宮の後に続いた。
「でも、誰が投げるんだ」
木田が訊ねると、小宮は自分を指差した。
「竹下先輩ほどじゃないけど、ストレートのコントロールにはちょっと自信あるんだ。変化球は全然だめだけどな」
「小宮は打たねえの」
「俺はいい。みんなで打順を決めろよ。北田も入るだろ」
声をかけられた加美由は、目をしばたたかせた。
「じゃあ、俺一番」
横山は、何度も手を上げてアピールした。しかたなく他の一年生たちは、ジャンケンで打順を決めた。ジャンケンが滅法弱い加美由の打順は、当然のように最後だった。
ボールケースを持ってマウンドに上がった小宮は球を握ると、付着していた土汚れを手で軽く拭いた。
「ストレートだけ、一人五球な。横山、入れよ」
呼ばれた横山はベンチから勢いよく駆け出し、バッターボックスに入った。
「よしゃ、こいや」
横山が構えたのを確認した小宮は、ゆっくり左足を上げ、右腕を振り下ろした。
乾いた音とともに、打球はセンター前に勢いよく転がっていった。
「ナイスバッティング」
打球を目で追った小宮は、口笛を鳴らした。
その後も、横山はヒット性の当たりを連発した。
最後の五球目。明らかにホームラン狙いのスイングをしたが、打球は詰まってレフト方向へフラフラと上がった。
「あちゃあ」
打球を見て横山は舌を出したが内容には充分満足したようで、肩で風を切りながらベンチに戻っていった。
横山の後は木田、吉岡、長谷部の順番で打った。
中でも目立ったのが吉岡で、すべての打球が内野手の間をしぶとく抜くような、渋い当たりだった。長打力は無いが、コツコツとバットに当ててヒットにする技術は、小宮も一目置いていた。岩見も、横山の良きライバルとして五番の座を争ってほしい、と密かに期待していた。
長谷部が打ち終わり、加美由はいつものバットを持って左バッターボックスに入った。
「加美由、頑張って」
佐織がベンチから声援を送ると、加美由は小さくうなずいてからバットを構えた。
マウンドから見る加美由の構えはため息が出るほどに美しく、小宮はしばし見とれてしまった。まったく無駄のない均整のとれたその構えは、すでに加美由の身体に沁みついている天性のもので、真似しようとしても簡単に真似できるものではなかった。
「早く投げろよ。照明落ちちゃうぞ」
木田の声で、小宮は我に返った。足を上げ、腕を振る。球は真ん中やや高めにいった。
加美由は右足をグッと前に踏み出しバットを振ったが、打球は前に飛ばずにバックネットにガシャンと音を立てた。
眼鏡をかけて球がよく見えるようになったのは明らかだったが、ナイターで打つのはリトルでもほとんど経験がなかったので、日中とは球の見え方が全然違った。
その後の三球もすべてファウルで、フェアゾーンに打球が転がることすらなかった。
眼鏡かけて打てれば、苦労はねえさ。
ベンチ前で見ていた横山は、薄ら笑いを浮かべた。
加美由は、少しずれた眼鏡を人差し指で元に戻した。遠くで、照明があと五分で落ちることを知らせるブザーが鳴っていた。
小宮はこれまでで一番速い球を、内角高めに投げ込んだ。時間が無くて焦った分、自慢のコントロールに狂いが生じ、加美由の頭くらいの高さにいってしまった。
加美由はその球を、腕をたたんで被せるようにして上から強く叩いた。
打球は強烈なライナーとなり、そのままライトスタンドの芝生に突き刺さった。
あまりにも打球が速すぎて、一年生たちはそれを目で追うことができなかった。
横山はライトスタンドに目を向けたまま、茫然としていた。
「すごい、加美由」
佐織は、ベンチに戻ってきた加美由の両手を握ってはしゃいだ。
「怪物の、お目覚めだ」
小宮は、にやりと笑った。




