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加美由  作者: 白崎由宇
10/26

9

 加美由の持っているバットを見て、先に打つ木田は呆れた。

「もっといいバット、他にあっただろ」

「これが一番しっくりくるんだよね」

 松脂がベットリ付いたそのバットは、加美由が夜間の素振りで使っていたものだった。破れていたグリップのゴムは、新品のゴムに巻き直してあった。

 すでに百球以上投げていた竹下だったが、木田に対してもキレのいいストレートを次々と投げ込んでいた。日々の鍛錬のお陰で、竹下はようやく一試合を投げ切る体力を身につけることができた。木田もその勢いのあるストレートにつまって、ボテボテの内野ゴロを連発した。

 最後に、加美由の出番が回ってきた。グラウンドは、ピリッとした空気に包まれた。

 加美由はバットを軽く二回振った後で、左バッターボックスに入った。

「お願いします」

 加美由はヘルメットのつばに手を添えて、竹下と大橋に頭を下げた。

「右投げ左打ちか」

 セカンドを守る白石が、ぽつりと呟いた。

「竹下、遠慮するな。思い切って投げろ。すべてストレートで十球だ」

 岩見の言葉に、竹下はうなずいた。昨日の練習で、加美由の華麗な守備を目の当たりにした竹下は、手を抜いたら絶対に打たれる、と思っていた。

 加美由はひとつ息をはき、気持ちを落ち着かせた。足元の土を均し、軸となる左足にグッと力を入れ、静かにバットを構えた。

 竹下が振りかぶる。左足を高く上げ踏み出し、右腕を振り下ろした。

 球は外角低めに決まった。竹下の球は加美由が想定していたよりも、勢いのあるものだった。

 女相手に、何マジになってんだよ。

 サードを守る横山は、冷ややかに笑った。

 二球目、先ほどとほぼ同じコースにストレートがきた。加美由は反応しバットを振ったが、当てることはできず、球は大橋のミットに収まった。

 部員たちは、加美由のそのスイングの鋭さに目を見張った。

「タイミングは合っている」

 岩見は、唸った。

 その後は、ファウルが続いた。すべて後方で、打球がなかなか前に飛ばない。

「おい。暇だぞ。ゴロでもいいから転がせよ」

 横山が、グラブをメガホンにして茶化した。

「あんにゃろう」

 ベンチの佐織は、横山のことをキッと睨んだ。加美由は横山の挑発などまったく意に介さず、バットの芯のところをじっと見つめた。

 残り二球。竹下の投げた球は、外角のやや高めにいった。加美由はそれを上から叩きつけるようにして、バットを振った。

 打球は、鋭く一、二塁間を襲った。白石が打球に反応したときには、もうすでにライトに抜けていた。

 女の打球じゃねえぞ。

 白石は、血の気が引く思いがした。

 竹下も、完璧に打ち返されたことに動揺した。

 あんな甘い球、打って当然。

 強がる横山だったが、その足は忙しなく動いていた。

「ラスト一球」

 岩見の声で気持ちを入れ直した竹下は、投球動作に入った。

 またも外角、今度は低めのボール気味の球を、加美由はバットでうまく拾った。

 糸を引くようなライナーが、センターを守っていた小宮のグラブに吸い込まれると、グラウンドに鈍い音がとどろいた。

「いってえ」

 小宮はグラブを外し、左手をブルブル振って痛みを散らした。

 やっぱ、すげえや。

 小宮は、痛む左手を見つめた。

「ありがとうございました」

 加美由はマウンドの竹下に一礼してから、バッターボックスを出た。竹下はセンターのほうを見て、茫然と立ち尽くしたままだった。

「ナイス、ナイス」

 ベンチに戻ると、佐織が手を叩いてはしゃいでいた。となりでは、岩見が目を丸くしている。

「昨日、自信無いって言ってたくせに」

 ヘルメットをベンチに置いた加美由の横腹を恵理は肘で軽く突いたが、加美由は浮かない顔をしていた。

「どうしたの」

 不思議がる佐織をよそに、加美由はベンチに座ってタオルで汗を拭いている竹下の元へ向かった。

「竹下先輩」

 竹下はタオルを顔から外し、振り向いた。

「ぶつけてもいいんで、内角にも投げてください」

 加美由の唐突な要求に、竹下は愕然とした。

 内角に投げることを躊躇し、十球ともすべて外角に放った。いくらコントロールに自信のある竹下でも、内角に投げるのは勇気がいった。もし手元が狂って、加美由の顔にでもぶつけてしまったら、と思うと、とても攻める気にはなれなかった。

「あ、ああ」

 竹下は、そう答えるのが精一杯だった。

 額から、汗がしたたり落ちた。

 練習後の部室は、加美由の話題でもちきりだった。

「信じられねえよな」

「マジですごいんですけど」

「何者だよ」

 ユニフォームから制服に着替えつつ、部員たちのおしゃべりはとまらない。

「岩見先生は、最初から知っていたのか」

「いや、あのリアクションからして、知らなかったんじゃねえの」

「小宮は知ってたっぽいな」

「あ、そういえば」

「どうなんだ」

 白石に訊かれ、椅子に座って靴下を履いていた小宮は顔を上げた。

「僕が知っているのは、あいつが朝倉リトルで四番を打っていた、ってことだけです」

 小宮の言葉に、ざわついていた部室がしんとなった。

「でも、それに気づいたのは昨日だし、これまで何をやっていたのか、どうしてここでマネジャーをやっていたのかは知りません」

 左手を見つめながら、小宮は立ち上がった。加美由が放った強烈なライナーの感触を、思い返していた。

「リトルのときの北田って、どうだった」

 大橋が訊ねる。

「そりゃあもう、すごいってもんじゃなかったですよ。五年生でこんなちっちゃいのに、バックスクリーンにライナーでホームランぶちかましたし。言い方は悪いけど、化け物かと思いました」

「化け物」

 白石が呟いた。

「あ、思い出した」

 言葉を発した木田に、部員たちは視線を向けた。

「西川が言ってたんですけど、北田って中学のときは陸上部だったらしいんです」

「で」

「ということはですよ、あいつ、ブランクが少なくとも四年くらいはあるということになりますよね」

 部員たちのあいだに、どよめきが起こった。

「それで、あれだけ動けるのか」

「何て奴だ」

 部室はまた騒がしくなった。

 着替え終わった横山は立ち上がり、バックを肩にかけた。

「お疲れした」

 ぶっきらぼうに言うと、さっさと部室から出てった。

「何か、あいつ機嫌悪そうだな」

「北田がサード守っているのが気にくわないんだろ」

「ポジションが一緒なら、嫌でも比較されるしなあ」

 部室の喧騒は、当分止みそうになかった。

「ねえ。竹下先輩に何て言ったの」

 帰り道、自転車を押しながら、佐織は加美由に訊いた。

「ぶつけてくださいって」

「へ」

「だって、私に遠慮してるから」

 加美由は、小さく息をはいた。

「外角ばかりだったからね、あれだけ何球も続けたら、誰でも打てるよ」

「普通の女の子には無理だと思うんですけど」

「でも、球自体は本気だったから、嬉しかったな」

 加美由は、感慨深げに呟いた。

「久しぶりのバッティングは、どうだった」

「まだまだ」

「あれで」

「スピードにはすぐ馴れたけど、身体の反応がしっくりこなかった。竹下先輩が外角のストレートしか投げなかったから、後半打てたようなもの。もし内外角に散らされたら打てなかったよ、きっと」

「ふうん」

「結構、時間はかかるかもね」

 ネガティブなことを言っている割には、加美由の声色は明るかった。

「あ、そうだ。ファミレスのクーポン、今日までだった」

 佐織は、バッグの中から黄色いクーポン券を取り出した。

「たまには食べにいかない。おごるよ」

「ごめん。今日は快気祝いなんだ」

「快気祝いってことは、恵理さん」

「うん。昨日退院した」

「本当。よかったあ」

 佐織は、胸をなで下ろした。

「佐織も来ない。恵理も喜ぶよ」

 加美由の誘いに、佐織は少し考えてから、首を横に振った。

「今日は家族水入らずで楽しんで。私は、また今度」

「そう」

 佐織の家の玄関前で、二人は手を振り合った。

「じゃあ、また明日」

「うん」

 自転車を押す加美由の背中が、徐々に遠ざかっていく。

「ねえ、加美由」

 佐織が声をかけると、加美由は足をとめ、おもむろに振り向いた。

「恵理さんの病気って」

 そこまで言って、佐織はハッとなった。

 訊いてはいけないことを訊いてしまった、という自責の念に駆られた。

「ごめん」

 加美由は、小さく首を横に振った。

 玄関のドアを開けるやいなや、奥から笑い声が聞こえてきた。リビングに入ると、台所で恵理と都子が、二人並んで調理をしていた。

「快気祝いって、病人をもてなすんじゃなかったっけ」

「どうせ暇でしょ。少しくらい手伝ったってバチは当たらないわよ」

 二人のやりとりに、加美由は懐かしさを覚えた。

 食卓には加美由の好きなしょうが焼きや、ちらし寿司、かつおのたたき、サラダなどが、所狭しと並べられていた。どれも量が多く、北田家一の大食漢である加美由でも食べきれるかどうか不安になるほどだった。

「ちょっと作りすぎたかしら」

「まあ、加美由が何とかしてくれるでしょう」

 二人の視線が同時に加美由に向いた。

 変なプレーッシャーかけないでよ。

 加美由は、ため息をついた。

 調理が終わって食卓に着いても、都子と恵理は食事そっちのけでおしゃべりに夢中だった。加美由はしかたなく、大量の料理と格闘するために、ひとり黙々と箸を進めた。濃いめの味付けのしょうが焼きは、空腹の胃袋に沁み渡った。

「こらこら、お父さんの分も残しておいてよね」

 加美由の箸の速さに気づいた都子は、慌てて注意した。口にちらし寿司を詰め込んだまま加美由がうなずくと、恵理は目を細めた。

「ビール飲む」

 腰を上げた都子は、恵理に声をかけた。

「ううん。先生から、しばらくアルコールは控えなさいって」

「そう。じゃあオレンジジュースでいい」

「うん」

 都子は冷蔵庫からペットボトルのオレンジジュースを手に取ると、二つのグラスに注いだ。

「今日は、加美由のお祝いでもあるわけだ」

「え」

「加美由が野球を始めたお祝い。乾杯しよ」

 恵理はグラスを持ち、加美由の前に差し出した。加美由も若干戸惑いつつグラスを差し出し、軽く合わせた。キン、と心地良い音が響く。

 オレンジジュースをグラスの半分まで飲んだ後で、恵理はとなりの都子に訊ねた。

「こうやって快気祝いしてもらってるのって、何回目かな」

「そんなの、数えてないよ」

「そうだよね。数えてられないよね。こんないちいち面倒くさいこと」

 明らかに、恵理の声色が変わった。

「入院費だってばかにならないし、大学も単位足りなくて留年しちゃったし、本当に金のかかる娘だよね、私って」

 自虐的な言葉がとまらない。

「私なんか産まないほうがよかった、って思ってるでしょ」

 都子は恵理の頬を、平手で思いっきり叩いた。

 恵理は椅子から転げ落ち、尻餅をついた。

 グラスが倒れ、残っていたオレンジジュースが床にこぼれ落ちた。

「もう一回、言ってみな」

 恵理を見下ろす都子の表情は、これまで加美由が見たことのないほど怒りに満ちていた。顔は紅潮し、両肩は上下に激しく揺れている。

 頬に手を添えた恵理の双眸から、涙が溢れた。

 床にうずくまった恵理は咳きこみながら嗚咽し、激しく泣き出した。

 加美由は、ただ見ていることしかできなかった。

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