第八話 刻まれた声
月の光もない夜は、ランプの灯りがなければ何も見ることができない。ステラは自分の周りを照らす灯りを見つめた。白いエプロンに、今朝作ったブルーベリージャムのシミがついている。
「まだかしら」
自分の声が闇に溶けた。今日に限って、正体のわからない獣の声がする。ステラはランプを強く握り直して、目を凝らして遠くを見た。
心臓がいつもより速く鼓動している。寒くなってきたからか、不気味な夜の森に緊張しているからか。片手で胸を押さえながら、大きく息を吐いた。ランプを持つ手も、小さく震えていた。
「忍び込むのに、白い服は目立つだろう」
木の幹に寄りかかり空を見上げていると、その木の上から声が降ってくる。ステラはランプを握りしめた手を緩め、それを木の上を照らすように持ち上げた。
「黒い服なんて、持ってないもの」
「これを着ろ」
足元に黒いマントが落とされる。マントを拾おうとしゃがみ込むと、シリウスが降りてきた。
黒いマントは肌触りが良く、分厚い生地でフードまでついている。ランプを足元に置いてマントを持ち上げると、薔薇の香りが空気に混ざった。
「シリウス、ありがとう」
「……早く行くぞ」
急かす割には、木の幹に寄りかかり動き出さない。ステラを待っているのだろう。彼を待たせたくはなかったので、ステラは急いでマントを広げる。
それはステラの足元まで隠すほどの大きさで、上から被ると、夜の冷たさが嘘のように消えた。
暖かい。手の震えも止まった。ステラは足元のランプを持ち上げて、シリウスの顔を見る。灯りに照らされた彼の赤い瞳は、母を助けた太陽の石のように煌めいていた。
シリウスはステラの準備ができたのを見て歩き出す。灯りがなくても周りが見えているのだろう。迷うことなく進む様子に、どちらが道案内をしているのかわからなくて、ステラは笑った。
「シリウス、大きな岩がある場所を右よ」
返事はないけれど、ステラが急がなくてもついていける速さで歩いてくれている。
「右手にある古い物置小屋の中に入って。小屋の床下に、研究所へ続く隠し通路があるの」
いつもこの通路を使って王宮に行く時は、少しだけ虚しくて、少しだけ腹立たしかった。今は、少しだけ嬉しい。目の前を歩く彼の背中は、何故かステラを安心させた。
◇
隠し通路を抜けると、研究所の裏手の茂みに出た。この先にあるのは、研究所への入り口だ。おかげで、厳重に警備された正門を通らず、研究所に辿り着いた。
ここならゴミを運び出す下働き以外通らないので、人の出入りは朝だけだ。そのはずだったのに、茂みの中から確かめると、扉の前に松明を持った兵士が一人立っていた。裏手にまで見張りがいるなんて。
「別の入り口を探すわ……シリウスは、少し待っていて」
「必要ない」
ステラの背後から裏手の扉の様子を見ていたはずのシリウスは、ステラが振り向いた時には消えていた。ステラは驚いて辺りを見回した。
「があ……っ」
「へ?」
人の呻き声が聞こえて前を向くと、松明の光が消えていた。前から砂利を踏む足音が聞こえる。ステラは立ち上がって茂みから出た。
「シリウス?」
「他に人間の気配はない。行くぞ」
ランプの灯りが、倒れた人を茂みの中に投げ捨てるシリウスを照らした。辺りから漂う鉄の匂いに、兵士がすでに事切れていることを知る。
ステラは、何か言おうとしてやめた。
彼にとって人間とは、その程度の価値なのだ。それでも、ステラは彼についていくと決めた。扉の奥へ消えていく吸血鬼の背中を、ステラは追いかけた。
「シリウス、右端の階段を上るのよ」
小声でシリウスに伝える。シリウスからの返事はないけれど、右端まで歩き出しているから、聞こえてはいるのだろう。
(ミラが捕らえられていたのは、三階の奥の部屋だったはず……)
相変わらずこちらを見ないシリウス。これから見せる真実に、彼は何を思うのだろうか。
手元が汗ばむ。ステラはランプが落ちないように、しっかりとそれを握り直した。
◇
「ここよ、ここにミラがいたの」
重厚な黒い扉の前。反応のないシリウスの前で、ステラは唾を呑み込む。先ほどの見張り以外、この建物に人はいないようだった。ランプの蝋燭が燃える音と、ステラの息の音だけが廊下に響く。
ステラは、ゆっくりと手を伸ばして扉を押す。開かない。
「どけ」
シリウスが扉の前で手を動かす。何をしたのかわからなかったけれど、次の瞬間、蝶番が軋む音と共に、扉がひとりでに開いた。
「すごい」
「この部屋に吸血鬼がいたのか?」
「ええ……ここは窓がないから、灯りをつけましょう」
ステラはシリウスがよく見えるように、ランプの火を、部屋の燭台へ移していく。少しずつ広がる灯りの中、ステラは部屋中の燭台に火を灯していった。
「シリウス?」
部屋に入った途端、シリウスの姿が見えなくなっていた。明るくなった部屋で、ステラはシリウスを探す。
「どこにいるの?」
返事はない。不安になって、部屋の奥へ足を速める。
「シリウス?」
シリウスは、奥の部屋の机の上にある書類に目を通していた。ここは研究資料をまとめていた部屋のようだ。無表情のシリウスを横目に、ステラはこの部屋の燭台にも火を移す。
「何があったの?」
彼が真剣に読んでいるものが気になり、ステラはシリウスの隣に行って、手元を覗き込む。そのまま内容を確認して絶句した。
その書類には、捕らえられた吸血鬼の不死の実験結果が書かれていた。
『腕を切り落として、数刻で再生する。その際、人間の血が必要。鳥の血では効果がないようだ』
『痛みはある。腹部を刺した時に発した呻き声がそれを証明する』
『双子の吸血鬼には意思疎通の能力がある。片方に流した情報を、もう片方も認識していた』
それは、人間に弄ばれた吸血鬼たちの声が刻まれた、悪魔のような記録だった。




