第三十話 宿敵に捧げる命
身体を誰かが抱きしめているのを感じた。頬に温かい雫が滴る。ステラは微睡みの中、自分を呼ぶ声を聞いた。
(シリウス……)
重い瞼を開ける。そこには驚愕に目を見開いたシリウスがいた。彼の瞳にはいっぱいの涙が溜まっている。
(何故、あなたは泣いているの?……泣かないで)
声を出そうとして、出ない。瞼が重くて、今にも瞳が閉じてしまう。朦朧とする意識のまま、ステラは大きく息を吸う。途端に咽せるような血の匂いを感じ、心臓が大きく脈打った。
「はっ、あ!」
経験したことのない飢えに襲われて、ステラは飛び起きた。シリウスが、ステラを落ち着かせるように抱きしめる。彼の胸に頭を預けながら、視線だけで辺りを見渡す。そこはアンタレスの玉座の間だった。ステラの近くでは、金髪の男性が倒れている。
(あれは、レグルス?)
彼は動かなかった。周りには鮮血が溢れていた。それを認識した途端、ステラはもう、それしか見えなかった。抱きしめて、自分の名前を小さく呼ぶシリウス。その腕をすり抜けて、ステラはレグルスの方に身体を向ける。意識の中には、レグルスしかいなかった。いや、レグルスの周りにある赤い血しか見えなかった。
「ステラ!」
ステラがレグルスの血しか見ていないことに気づいたのか、シリウスはステラの顔を自分の方に向かせる。無理やり唇を塞がれ、シリウスの舌が入ってくる。彼の血がステラの口の中に溢れた。
「ん……はぁ」
くらくらと酩酊する。血を飲んでいるはずなのに、その味は甘い。理解が追いつかなくて、頭を振ってシリウスの口付けを拒んだ。
「なにが、おきてるの?」
「ステラ……すまない」
身体がおかしい。皮膚がひりつく。泣きながらステラを見るシリウスの髪から煙が立ち上っていて、ステラはざあっと血の気が引いた。太陽が昇っているのだ。
「シリウス! 立ち上がって、逃げないと……」
「すまない、ステラ。俺はお前を化け物にした……」
シリウスは太陽の光からステラを守るように抱きしめた。守られるべきは、彼の方だ。慌ててシリウスの身体を引き剥がそうとして、自分の皮膚からも煙が出ていることに気づく。
「な、なに、これ」
「すまない……ステラ、きみを失いたくなくて、吸血鬼にした」
「シリウス、あなた焼けてるわ」
「どうしても、きみと離れられない……俺と一緒にいてくれ」
一緒にいてくれ、そう言いながらシリウスはステラを太陽から身を挺して守っている。ステラはたまらずに、目眩の酷い身体でシリウスを引っ張った。転がるように二人が倒れ込む。日陰に行かなくては。ステラは床に手をついて、血で滑った。目の前に、レグルスの顔があった。彼は死んでいた。
「えっ」
「ステラ!」
ステラが、レグルスの顔を触ろうとする。その手を勢いよくシリウスが握りしめた。彼の手は震えていた。ひどく冷たかった。
「レグルスがなぜ……」
「ステラ、こっちを向いてくれ」
身体が焼けている。喉もひりついていた。シリウスは混乱するステラを抱き抱えて、レグルスから引き剥がした。よろめきながら壁の方にステラを運ぶ。ステラの目は、レグルスの死体に釘付けだった。何故だかわからない。彼の流す血が、ステラの意識を奪った。
「わ、わたしは、吸血鬼になったの?」
「ステラ、俺はきみを殺してしまった」
遠くの音が聞こえる。普段なら聞こえないような些細な音まで聞こえてきた。下働きがバケツとモップを持って城内の清掃を始めているようだ。咽せるような薔薇の香りが、自分の身体からする。その瞬間、理解した。レグルスが恐れていたのは、この香りだったのだ。
「わたしは死んだのね……ええ、わたしが、殺してと言ったもの」
「違う、違うんだ!」
「あなたは……わたしから人間であることを奪ったの?」
ステラが無意識に言ってしまった言葉を聞いて、シリウスが固まった。
ステラは、どうして、と思った。ステラの視線がレグルスから動かない。少なくとも、彼の死を悼む気持ちがあるはずだ。何故死んだかも知りたいはずだ。なのにステラは彼の血を飲みたくて仕方がない。息が乱れる。苦しくて胸元を掴むと、ポケットの中に何かがあった。熱いそれは、ステラが触った瞬間砕け散った。
ポケットの中を探る。砕けたのは太陽の石だ。二つのうちの一つだけ、黒く砕け散っていた。ステラは首筋を触る。彼が牙を突き立てた場所に、傷はない。青ざめているシリウスを見た。何が起きたの、そう問いかけて、止まった。ガラスに映る自分の瞳の色が、血のように赤かったのだ。
「わたしは、紛い物の吸血鬼になったのかしら……」
紛い物の吸血鬼は人間には戻れないけれど、本物の吸血鬼にもなれないとミラが言っていた。ガラスに映る自分の赤い瞳に、そっと触れる。もう、人間には戻れない。
「ステラ……俺はきみを、愛してしまった」
「あなたが、わたしを愛したの?」
「愛しているのに吸血鬼にしてしまった」
シリウスが泣いている。孤高の王だった彼が、赤い瞳を濡らしていた。ステラは彼の肩が爛れていることに気づいて、そっと手に持った太陽の石をそこに当てる。それをシリウスは、首を振って拒否した。
「きみが人間のままでいる機会を奪ってしまった……太陽の石も、もうそれしかない」
「なぜ、わたしを吸血鬼にしたの」
「ステラ、きみが人間でなくなったとしても……一緒にいたかった……愛しているから」
彼は泣いていた。ステラに赦しを乞いながら愛を捧げている。人間でなくなるということが、どういうことなのか分かっているのだろうか。
ステラは彼の肩越しに、倒れているレグルスを見た。レグルスはずっと、吸血鬼になってはいけないと言っていた。
そうだ、吸血鬼になるということは、よく晴れた朝に、散歩ができないということだ。甘いジャムに香ばしい肉、焼きたてのパンも食べられない。愛する母親と同じ時間を過ごせない。何より、血がないと生きられない。人の死を悼む前に、その血を飲み干したくなるということだ。
吐き気がした。これは、身体の変化に心が追いついていないからだろうか。吸血鬼は、こんなにも人間の血を欲しがっていたのか。ステラは、たまらずに泣いた。
「ステラ、泣かないで。きみが吸血鬼として生きられないなら……一緒に死ぬから」
「死ぬ……?」
この人は、何を言っているの。ステラを捨てれば、ステラへの気持ちを捨てれば、彼は永遠を生きられる。人間の血を飲んで、殺して、永遠を生きれば、いいのに。
ステラは止まらない涙を拭うことをしなかった。それより彼の涙を拭いたかった。永遠を捨てると言った彼を、ステラは抱きしめた。
「あなたがわたしと一緒に死んでくれるなら」
「ステラ……」
「わたしは、あなたと永遠を生きると言うわ」
シリウスが息を呑んだ音が聞こえた。太陽の光がアンタレスの玉座を強く照らしている。もうすぐ、人がこちらに来るだろう。ガラスに反射した光が、アンタレスの王になるはずだった彼を包み込んでいた。ステラを愛して、ステラを人間でいさせようとしてくれた彼は、人間のまま亡くなってしまった。彼と共に死ぬのが、正しいことだとは理解できた。それが正解だ。
でも、ステラは己の神に約束したのだ。赤い瞳の美しい神様。彼を永遠に愛すると。永遠に愛せるならば、全てを犠牲にしても愛したい。
「満月の夜に、必ずわたしとワインを飲んでくれる? お互いが太陽に焼かれるまで……永遠に」
「約束しよう……死ぬまで永遠に」
ステラは目を閉じて、震える声で誓いを立てたシリウスを抱きしめた。
彼の命は、もう、ステラのものだった。




