第二十九話 傲慢な祈り
吸血鬼にとって神とは、終わらない時間を与えた存在だ。それだけでなく、不死と引き換えに、太陽の下で生きる自由を奪った。神は吸血鬼を救う存在ではない。シリウスに永遠の苦しみを与えた存在だった。
人間は神に祈るらしい。愚かだと思った。神は人間に限りある命と、傲慢な価値観を植え付けた存在だ。そんな相手を信じて何を祈る。聞き届けてくれるわけがない。
偶像に祈る人間を、冷めた目で眺めたこともある。叶うわけがないではないか。そう、わかっている。それでも……。
灰色の世界に、真っ赤な血の色が呪いのように浮かび上がる。シリウスは力が抜けたように、座り込んだ。目の前には、限りある命を終わらせた宿敵の亡骸があった。
シリウスは震えが止まらない手を伸ばして、ステラに覆い被さるレグルスを退かした。音を立てて崩れ落ちる人間には目もくれず、シリウスはステラを抱き起こす。呼吸は、ない。心臓も止まっている。
シリウスが、殺した。裏切られたと思ったから、手に入らないならば、その血を飲み干してやろうと。せめて彼女の血だけは、自分のものにしようとして、殺した。なんておぞましい吸血鬼なんだ。
「ステラ……を、俺が殺した……」
彼女の顔にも服にも、レグルスの赤い血がかかっていた。シリウスはまだ震える手で、ステラの顔についた血を拭った。何度も拭った。彼女には、一滴たりともあいつの血がついてはいけない。自分から彼女を奪った人間の血を見て、気が狂いそうになった。あいつは、ステラと一緒に死ねる。シリウスとは違って、一緒に生まれ変われる。
シリウスの手にはレグルスの血がこびりついた。それさえ気にならなかった。レグルスの血を一刻も早く、ステラから消したかった。自分はどうなってもいいから、彼女を奪わないで欲しかった。
ステラの頬に、雫が、落ちた。
一滴、二滴。シリウスは血のついた手で、己の顔を触る。目の奥が熱い。溢れ出ているのは、涙だ。今、シリウスは泣いていた。今、シリウスは涙を止める方法を知らなかった。
「はっ……」
なんだこれは。何故、ステラは動かない。涙で濡れたステラの頬を、シリウスは取り出したハンカチで拭いた。なんの反応もない。また、ステラの頬に雫が滴る。
堪らなくなって、シリウスはステラを抱きしめた。薔薇の香りがしない。まだ温かい身体に、もう彼女の魂が宿っていない。
冷や汗で背中が冷たくなっていた。自分の心音が大きく鼓膜を揺らす。だめだ、このままではだめだ。シリウスは己の舌を噛んで血を出し、動かなくなったステラに口付けした。
赤い血が、ステラの唇から溢れて流れ落ちる。床に、一滴垂れた赤い血を見て、シリウスは息を止めた。だめだ、このままでは、だめだ。助けてくれ。掠れた声だけが、無意識に漏れた。
「誰か……」
(誰でもいい。なんでもいい。神でも、いい。助けてくれ)
心音がうるさい。消えたはずの頭痛と目眩が一気に襲ってきた。シリウスはステラを強く抱きしめながら、止まらない涙で彼女の服を濡らした。
「ステラを返してくれ、お願いだ……」
誰に言っているのか、もはやわからなかった。いや、助けてくれるなら誰でもよかった。神が吸血鬼に永遠の命を与えるなら、それをステラに与えてくれ。服の内側にしまっていた、自分を守るための太陽の石に触れる。
意味がないとわかっていても、諦めきれない。たとえ二個の石をすぐに使い果たしたとしても、もう一度だけ、ステラに会いたかった。会って言わないといけない言葉があった。
彼女は、シリウスを待っていてくれたんだ。信じきれなかったシリウスを、永遠に愛すると言ってくれた。
本当は気づいていた。彼女と出会ってから、見上げる夜空の美しさを理解できた。一緒に飲んだワインが、血を飲むよりシリウスに満足感を与えた。彼女が自分に向けて笑う、それだけで感じたこともない高揚感を覚えた。
初めて出会ったとき、何故、また会いに行こうとしたか。彼女の、自分を犠牲にした献身と芯の強さに心を動かされたからだ。
『わたしの血を飲んで。殺してもいい。信じてもらえないなら手足を切り落として、食糧にして』
泣きながら、訴えてきた。その青空のような瞳や夜空に煌めく星のような髪から、目が離せなかった。必死になって、他人を守ろうとする姿を見て、なんて美しい存在なんだと思ったからだ。
「ステラ、お前は俺のものだろう。だから……」
取り出した二つの太陽の石は、赤く、熱く、光っていた。
何故、限られた時間を、大切にできなかったんだ。彼女が永遠を生きないと知っていながら、何故その時間を大切にできなかった。気づかないふりをして、判断を先延ばしにした。太陽の石を握りしめて、シリウスはステラの額に唇を寄せた。
「ステラ、お願いだ……許して」
ステラからの反応はない。シリウスは何度も、ステラの名前を呼んだ。服の中から、手紙を出す。憎くて、それでも破り捨てられなかった、ステラからの手紙。
シリウスは『愛しているわ』と書かれた文字を、そっと指でなぞった。
(お前の命が尽きるときは、俺も一緒に死ぬから)
天井のガラスが、夜明けの白い光を迎え入れていた。血のように赤かった満月はとうに沈み、ステラを包むように淡い明かりが空から降り注ぐ。遠くから人々が起き出す音が聞こえ出した。
もうすぐ、吸血鬼を殺す太陽が昇る。
シリウスは太陽から己を守る石を、ステラの胸の上に置いた。自分が焼かれて死のうが、一瞬だけでもいいから、ステラに会いたかった。ただ、会って、手紙の答えを伝えたかった。太陽の石は赤く光る。
「誰でもいいから、神でもいいから、お願いだ」
シリウスは生まれて初めて、天にいる無慈悲な神に祈った。自分の永遠を全部やるから、ステラに時間をくれ。信じてもいなかった神に、この世で一番、傲慢な願いを叶えてもらうため。
白い光がシリウスの髪に触れる。炙られるような痛みが、少しずつ強くなっていった。足元から煙が立ち昇る。それでも、今、太陽に焼かれてもいい。ステラから離れるくらいなら、いっそ今すぐ焼き殺してくれ。
シリウスは太陽にその身を差し出しながら、決してステラから離れようとはしなかった。




