第二十八話 残された言葉(後編)
自室からの出入りも禁止されてしまった。婚約式までの準備で慌ただしいはずなのに、ステラができることは自室で読書をすることだけだ。ステラは自分の様子を窺いに来たレグルスを睨め付けて、この異常な状態について文句を言った。
「レグルス……これはもはや監禁よ」
「ステラから薔薇の香りが消えるまで、あなたに近づくすべてのものを確認させて」
薔薇の香りどころか、部屋も衣服も全て白百合の香りしかしない。レグルスの言っている意味がわからず、ため息を吐く。
「薔薇の香りが何だというの」
「とにかく、あなたは今危険な状態なんだ」
レグルスはステラの肩に手を置いて、ステラに言い聞かせた。ステラはレグルスの冷たい手を、ゆっくりと自分の肩から退かす。
「わたしが狙われているというなら、あなたこそ、わたしを切り捨てるべき」
レグルスは、ステラの言葉と行動に傷ついた顔をする。気まずくなったステラは彼から視線を外して、下を向いた。視線の先では、ミラがステラの足の上に乗り掛かっていた。足を少しずらして、ミラを抱きしめるために手を伸ばす。その手をレグルスが掴んだ。
「そんなことは、二度としない」
レグルスはステラを強く見据えた。強く求められるのには、慣れていない。ステラはそれでも譲れなくて、レグルスに諦めてもらえるよう、説得することにした。
「太陽の石がなければ、長く生きられないの。婚姻の意味はないのに」
「私が何とかする。全部解決するから……」
たとえ何とかしたとしても、病気が完治することはない。生き延びたとしても、子供も産めない王妃なんて意味のない存在だ。そう言い募ろうとしたけれど、その言葉を遮るようにして、レグルスが掠れた声で愛を告げた。
レグルスの絞り出すような言葉が、ステラの心の裏側を、少しだけ傷つけた。
◇
「明日は婚約式ね」
流石に式典の準備で忙しいのだろう。普段はステラに張り付いている侍女も護衛騎士もいない。ステラはその隙に、真夜中の散策に出ることにした。
(シリウスは、アンタレスに来てくれるのかしら)
整えられた庭園も、月の光を浴びて輝く噴水もステラの中を素通りする。吹き抜ける風を浴びながら、辺りを見渡す。頭の中はシリウスのことでいっぱいだった。
「お母様……ごめんなさいね」
どちらかを選べないと悩み続けていたけれど、全てを決めた今も結局その時と気持ちは同じだった。ただ気づかないふりをしていただけ。ポリマ王女の気持ちを考える。
「神様は、何故、世界をこんなに残酷に作ったの? 悪趣味だわ」
世界を全て平等に作ったなら、こんな悲劇ばかり生まれることはなかった。ステラが神になったなら、世界をもっと豊かで平和にできる自信がある。
婚約式は、王都の中心を舞台にして行うそうだ。そう報告されても、見学にも行かせてもらえていないからイメージは湧かなかった。ただ、その準備のせいか、王宮に人は少ない。だからこそ、今まで行ったことのない場所に行ってみようと思う。ステラは、明日レグルスが即位する玉座の間に、最後に一度だけ行ってみることにした。
アンタレスの玉座の間は、上半分がステンドグラスになっていて、室内でも夜空が見える。幻想的な光に惹き寄せられるように、ステラは空を見上げた。
「こんな赤い満月なんて……吸血鬼でも、出てきそう」
「……正解だ」
「きゃあ!」
玉座には、シリウスがいた。ステラがずっと会いたかった、赤い瞳の吸血鬼。
◇
深い青の瞳を見開いた宿敵は、シリウスを見て固まっていた。裏切った相手が乗り込んできたことが、予想外だったのだろうか。そいつからする、甘ったるい百合の匂いに、気が狂いそうなほどの殺意を覚えた。
「シリウス」
「気安くその名を呼ぶな」
名前を呼ばれるだけで、目眩がする。気持ちとは裏腹に、身体は誤魔化せないほど、目の前の人間を求めていた。
「言ったはずだ。裏切ったら殺すと」
熱が声に乗って外に出た。殺すと言っているはずなのに、反対の意味を伝えているようだ。シリウスは目の前の相手を抱きしめそうになる手を、音が出るほど握りしめる。
そいつは、ステラは、シリウスの言葉で笑った。蕩けるような幸せそうな笑顔だった。その笑顔を見て、ずっと止まなかった耳鳴りが止まった。
「わたしはあなたの全てを受け入れる」
ステラは一歩、また一歩とこちらに近づいてきた。シリウスは、思わずアンタレスの玉座から立ち上がる。
「今更何を言っている」
声が震えている。ステラが、こちらに近づいてくる。それだけで、身体中が喜んでいた。
「契約したもの、あなたに全てを捧げると。あなたが殺すまで生きると」
ステラが、もう一歩、シリウスに近づいてきた。距離が近くなるにつれ、百合の匂いが掻き消え、薔薇の匂いに変わっていく。動けないでいるシリウスを抱きしめて、ステラは耳元で囁くように言った。
「あなた、わたしを殺してくれる?」
止まらなかった。首筋に牙を突き立てて、その血を啜る。甘くて、酔いそうなほど濃厚な味わいだった。飢えが満たされていく。理性も消えて、ただそれを飲み干すことだけしか、頭に残らなかった。
こんなに求めていたのか。もう、認めるしかなかった。シリウスは、ステラだけを求めていた。
「シリウス……あなたを永遠に愛するわ……」
愛している、それは呪いの言葉だ。永遠なんて、価値のないものだ。それなのに、シリウスの耳に届いた言葉は、かけがえのない、尊い、価値のあるものだった。シリウスは愛する宿敵を強く抱いた。
「ステラ……」
首から唇を離して、ステラの顔を見る。彼女の顔色は青白くなっていた。すでに心臓の鼓動もゆっくりになっている。シリウスは自分の血の気が引いていることに気づいた。急いで己の血をあげなければ。今度は、自分の血を与えるために、ステラの唇に口付けをする。ステラが数滴だけ血を飲み込んだその瞬間。
玉座の間の扉が勢いよく開いた。レグルスが息を切らしてステラに駆け寄る。
「ステラ!」
「レ……レグルス」
ステラは、シリウスから視線をレグルスに向けた。眉を寄せて、そのまま倒れる。ステラの唇から離れたシリウスの口から、血が滴り落ちた。
口を拭って倒れ込むステラを抱えようとしたシリウスの、その間をレグルスが割って入ってきた。ステラに、人間が、触れる。そいつを、シリウスは許せなかった。
「ステラに触るな!」
頭に血が上る。それはこちらの台詞だ。人間如きが、なぜシリウスのものを奪おうとする。シリウスは殺意を込めて自分の爪を鋭くした。
「お前にも言ったはずだ、『二度と俺に近づかず、呪われながら生きろ。お前に大切なやつができたら、また来る』と」
シリウスがレグルスの心臓に、爪を突き立てた。こいつを生かしておいたのが間違いだった。今すぐ殺せば、二度と自分のものを奪われることはない。右手に感じる生温かい血に、鳥肌が立った。そのまま抜き取った手を振り払い、血飛沫がステラにかからないように血を飛ばす。
一瞬、レグルスは、よろめいてステラから離れる。その隙を逃さずに、シリウスはステラを引き寄せた。しかし、失敗する。心臓を潰されたはずのレグルスが起き上がって、ステラを背に庇ったからだ。人間の手の中にあるものが、赤く光っている。
レグルスがこちらを睨みながら、ステラをそっと寝かせていた。人間は、口から出ていた血を拭うと、手に持っていたものをシリウスに投げつけてくる。咄嗟に手で受け止めた。それは黒くなっていた、シリウスの血の気配がする太陽の石だった。
「何故お前が俺の太陽の石を持っている!」
まさか、ステラからもらったのか。いや、そんなはずはない。奪い取ったに決まっている。シリウスの反応に、レグルスは嘲るように笑う。
「お前がなぜ……」
その石はステラの命を守るために渡したものだ。シリウスの声が掠れる。
「バカなやつだ……ステラに吸血鬼の血を近づかせるわけがない……その石の効力はもうない。ステラは二度と生き返らないだろう」
太陽の石を握る手が震える。二度と生き返らない、そんなはずはない。まだ間に合う、吸血鬼の血を飲ませれば、またあの青い瞳が見られるはずだ。シリウスはステラの前に立ちはだかる人間を、早く殺そうと思った。一歩前に踏み出す。レグルスはシリウスの動きを見て、倒れ込むステラを守るように手を広げた。
「ステラは裏切ってなんかないのにね……全部私がやった。屋敷を襲わせたのも、太陽の石をステラの母から預かって、兵士に渡したのも、お前の匂いがする物を全て捨てたのも」
何を言っているのか、咄嗟に理解できなかった。ステラは裏切ってなかった。やっぱり裏切ってなかった。身体の力が抜け、息を小さく吐こうとして、呼吸が止まった。
(なら、俺は、何をした?)
頭が割れるように痛くなった。口から漏れるのは意味のない音だけだ。唇が震える。視界が揺らぐ。それでも目はステラを探していた。倒れた彼女の姿さえ、憎い人間に庇われて、よく見えない。
「な……」
「吸血鬼は、自分の能力を過信して、周りを見ることをしない、ステラがどれだけお前を……」
レグルスが吐き捨てるように言った。
「ステラはお前の血では、もう生き返らないよ。ロイヤル・ルビーも……意味がない。血の力で病の進行を止め過ぎて、そもそも効果が薄くなっていた……」
どういう意味だ。効果が薄くなっているなんて、聞いたことがない。そもそもシリウスはステラに、これまで一度しか血を与えていない。なら、ステラはシリウス以外の吸血鬼の血も飲んだということだろうか。
直接飲ませるとステラの身体に危険があるなら、太陽の石を常に持たせればいい。そうすれば、その間は生きられる。シリウスは、もう一歩近づいて、レグルスを退かそうとした。しかし、レグルスはシリウスの手を掴んで抵抗する。
「お前を殺して、アンタレスにあるすべての石を使えばいい……永遠に石を使えばステラは生きられる」
「そんなもの、全て破壊した。お前にステラを絶対に渡さないために」
使い切れば二度と光らない太陽の石を、全部壊した。それが意味することを理解して、シリウスは固まった。
「なんだと……」
なら、ステラは生き返らない。シリウスの手元にある二つの太陽の石では、すぐに尽きる。
ステラはもう、生きていけないということだ。レグルスを退かそうとした手に力が入らず、そのまま滑り落ちた。レグルスは掴まれた腕を払うと、ステラの身体を抱きしめる。シリウスは、視界が掠れるほど、目の奥が熱くなっていた。やめてくれ、ステラに触らないでくれ。絞り出した言葉は音になっていなかった。
「今後お前は一生太陽の下を歩くことなく、一人で生きるんだ。ロイヤル・ルビーがなければ、お前の運命は太陽に焼かれるだけだろう?」
「そんなことはどうでもいい……ステラを返してくれ」
シリウスは手を伸ばす。しかし、レグルスは見せつけるようにステラを抱きしめたまま、また一歩後ろに下がった。
「ステラは私と一緒に死ぬんだ。お前が一人で生きる間、私はステラと一緒に死んで生まれ変わっても……お前には渡さない」
レグルスは、笑った。片手で腰に差していた短剣を抜き取ると、自分の首を切った。ゆっくりとしたその動きを、シリウスは止めることができなかった。赤い血飛沫が、ステラとレグルスにかかって二人を彩る。灰色に変わる景色の中、その血の色だけが鮮明で、まるで二人が一緒に死ぬことが運命とでもいうような景色だった。
やめてくれ、シリウスは声にならない声で言った。
しかし、レグルスの身体はステラに覆い被さるように倒れた。決してステラを渡さない、おぞましい人間の強い意志を、感じた。
◇
(お前には渡さない……ステラがお前の運命だったなんて教えるものか)
レグルスは薄れる意識の中、横にいるステラのことを見つめる。一度も自分を見てくれなかった、レグルスの愛する人。
出会った時から、目が離せなかった。着飾ることをせず、ぼろぼろになりながら懸命に生きていた王女。カペラ王女の婚約者になった頃から、誰よりも美しいのに、なぜ誰も彼女の価値に気づかないのか不思議だった。
身体が弱く、数年しか生きられないと聞いた。姉のようだと思った。だから、こっそり彼女を支援してみることにした。薬を飲めるように彼女が忍び込んでいる場所に用意し、見張りに賄賂を渡し、食料も用意させた。
そうして、ステラが少しでも長く生きていければいいと思っていた。初めて声をかけた時も、支援していたことは言わないでおいた。彼女には自由に生きていて欲しかったから。それなのに、吸血鬼と出会ってしまうなんて。これでは、姉のようになってしまう。急いで手を回して、自分が全てを助けないといけないと思ったのに……。
姉ともレグルスとも違って、ステラは強かった。目先の損得に惑わされず、自分の意思を持ち、レグルスを突き放した。それなのに、レグルスの気持ちを誰よりも救ってくれた。イチイの木の下で、姉と自分を思って泣いてくれた。月明かりの下で姉を弔う姿は、永遠に忘れられないほど美しかった。
手に入れないといけない、こんなに尊い存在を、薄汚い吸血鬼に渡すわけにはいかない。たとえ、今世ではレグルスを愛することがないとしても、吸血鬼にならずにいれば、同じ来世を生きられる。
迷う理由はなかった。彼女がどうか、レグルスと一緒に死んでくれますように。そうすれば、いつかは自分の隣で生きてくれる時が来る。
この人だけは、誰にも渡さない。目の前で倒れるステラの手を握りしめ、どうか彼女が人間のまま死ねるよう、そう強く祈った。




