第三話 命を賭けた交渉
夜に冷えた風がステラの頬を撫でた。木々が揺れて、音を奏でる。シリウスはこちらを見たまま、動かない。
「……ねえ、あなたにお願いがあるの」
「人間なんかのお願いを聞くわけがない」
「ミラは言っていたわ。吸血鬼には動物よりも人間の血が必要だって」
「人間は信用できない。だからそんなおぞましい奴らの血なんか……」
ステラはシリウスの冷め切った瞳の中に、わずかな動揺を見つけた。吸血鬼は人間を嫌っていて、人間がいないと生きられない自分たちを恨んでいる。ミラはかつてそう言っていた。それは種族に共通する認識らしい。
「わたしの血を飲んで。殺してもいい。信じてもらえないなら手足を切り落として、食糧にして」
「……なんだと?」
「あなたが王宮に入り込みたいなら手伝う。なんでもするわ。わたしの全てをあなたにあげてもいい」
冷たい風がもう一度吹いた。寒さからか、これからシリウスにする願いへの緊張か、ステラは身体を震わせた。
「だから、お願い。わたしのお母様の病気を治して。純血の吸血鬼の血は万病に効くって、だから……」
シリウスは答えない。冷めた瞳はそのままだ。ステラの頬を涙が伝う。感情が抑えられなくて、唇が震える。誤魔化すように、両手で顔を隠した。
落ち葉を踏む足音が聞こえてきた。
「なんでも、するって?」
目の前に気配を感じて、ステラは涙を拭いながら前を見た。思った以上に近くに、赤い瞳の吸血鬼がいた。腕の中で、白いウサギが震えた。
「俺はお前の住む王国を滅ぼす。それでも?」
ステラは答えられなかった。心臓の音が鼓膜を震わせる。それが腕の中のウサギのものか、ステラ自身のものかわからなかった。
頭の中に母親の顔が浮かぶ。病弱な娘しか産めなかったせいで、国王から存在を捨て置かれた母親。ステラがいるせいで、王宮から出られなくなった母親。そして、ステラと母を虐げ続けた親族たち。彼らの支配する王国。だけど、罪のない人たちも生きている、自分の祖国。
「……いいわ。ただし、お母様には手を出さないで」
ステラは涙を拭った。呼吸を小さく整えて、まっすぐシリウスを見る。シリウスはその時はじめて目を細め、口元を上げた。
「いい覚悟だ」
シリウスはステラを自らの方に引き寄せると、片手を振り上げた。背後から、突然、こちらに駆け寄ってくる足音が聞こえる。
瞬間、風が斬られる音がした。葉が風とともに舞っている。
「ぐぅっ……」
「きゃっ」
人が潰れるような音がして、ステラの背筋が凍った。大きく跳ねる心臓を落ち着かせるために、無意識のうちにシリウスの胸に顔を寄せる。薔薇の香りがした。
(あ、温かい……)
ステラはこんな状況でも、シリウスに確かな体温があり、鼓動がしっかりと脈打っていることに、不思議と安心した。彼もちゃんと、生きている。
突然生温かい雨がステラの頬を伝う。――いや、血だ。むせるような鉄の匂いに、ステラはゆっくりと後ろを振り向いた。
いつの間にか背後にいた兵士が一人、首を失っていた。
「うそ……」
「見張り、だ。警備が厳しくなっているな……」
目の前に、美しい吸血鬼の顔があった。人を一人簡単に殺したその手は、ステラの頬についた血を拭ってそのまま払った。
シリウスは胸元からハンカチを出すと、手を拭う。一連の流れるような動作があまりにも気品に溢れ、ステラはついさっき人が死んだことを忘れてしまっていた。
「手を」
反応しないステラを気にした様子もなく、シリウスはステラの手を取った。その手のひらに、ステラの親指ほどの大きさのルビーが載せられた。
「ここに、俺の血を入れている。これを助けたい奴に持たせろ」
「ルビー?」
「太陽の石は、吸血鬼の血を入れられる」
「これが……」
ステラは、太陽の石を握った。それは熱を持ったように熱かった。命の温度だ。これで、母親が助かる。
「忘れるなよ。母親の命と引き換えに、お前は、俺に全てを捧げるんだ。これは――契約だ」
赤い瞳の吸血鬼は、射抜くようにステラを見た。
これでもう、後戻りはできない。ステラは固く目を瞑って、ゆっくり開いた。後ろは、もう、見なかった。
この日ステラは、王国と自分の命を引き換えにして、母親の命を守ることを選んだ。




