第二十七話 押し付けられた愛情
あの夜、連れ戻されたのに抵抗しなかったのは、レグルスをどうしても放っておけなかったからだ。彼はひとときもステラの手を離そうとしなかった。置いていかれそうになって必死に鳴いていたミラを慌てて抱きしめたときも、レグルスの手は強くステラの手を握っていた。
明日また、隙をみて抜け出そう。そう思ったのに。
翌朝一番にステラを訪ねてきたレグルスは、大輪の白百合の花束を持って朝食に誘ってきた。
「レグルス、あなた、忙しいでしょう」
「忙しいを理由に、ステラとの時間を取れないなんて絶対にないよ」
渡された花束の濃厚な甘い香りに酔いそうになった。以前は恭しく添えるだけだったエスコートの手は、今はしっかり握られている。脱走の警戒でもしているのだと思う。
「今日はステラの好きな木苺のジャムを用意させたよ。パンには胡桃を入れてもらった……こういうのが好きなんだよね? 全部、野山にある材料で作ったんだよ」
「わたしのために?」
「私はあなた以外のために時間を割かない」
明らかに昨日と態度が違う。後ろで控える侍女や護衛騎士たちが、戸惑っている空気も感じる。食堂の前に着くと、扉の前にいた侍女長が頭を下げて扉を開けた。
ガラス張りの窓からは庭園の花がよく見える。木漏れ日が、室内を柔らかく包んでいた。部屋の中にも百合が飾られていて、テーブルの上にはまるで賓客をもてなすような豪華な朝食が置かれていた。
「どうぞ」
「……ありがとう」
お礼を言っただけなのに、嬉しそうに笑う。ステラはレグルスの手を離して、椅子に座る。真向かいに座った彼は、手を上げると周りの使用人を全員退出させた。
「いきなりどうしたの、こんな」
「婚約式と同時に正式に即位するからね……今のうちに妻との時間を大切にしないと」
「妻って……」
「あなたは私の妻だよ」
彼はこのままステラと婚姻する気だろうか。昨日の夜、すでに吸血鬼を憎む気持ちは和らいだように思えたけれど、それならばステラは用無しになったようなものだ。優雅に紅茶を飲むレグルスを見据えて、ステラは意を決して言った。
「もう、わたしとこのまま婚姻する意味はなくなったと思わない?」
「……何故?」
「吸血鬼を滅ぼす以外で、あなたの役には立たないでしょう、わたしは」
レグルスはカップをソーサーに置く。かちゃりという音がして、無言が続く。ステラはレグルスを説得しようと口を開く。
「アルデバランとの婚姻なら、カペラお姉さまが……」
「自由に生きると、決めたんです」
「ええ、そうね」
「愛する人と婚姻できるのに、やめる理由はないのでは?」
静かな声だった。口調も元に戻っている。レグルスの怒りを感じて、ステラは黙り込む。香ばしいベーコンの匂いが、やけに気分を悪くする。誤魔化すように紅茶の入ったカップを持ち上げて、その香りを嗅いだ。
「ステラ、あなたが私との婚姻をやめて、どうするというのです」
「家に帰ってお母様と暮らすわ」
「お義母様は、王宮で幸せに暮らしています。それに病気も治っていないではないですか」
「そうだけど、それは……」
ステラは言い淀む。
「医者を手配して、あなたもお義母様の病気も治します。いつまでも、もらえるかわからないもので、あなたたちの命を守りたくないのです」
「レグルス、それでも」
レグルスは、首を振った。これ以上ステラの意見を聞く気はないようだ。
「なんでもする。だから、あなたは絶対に吸血鬼になってはいけない」
吸血鬼になる気はない。そう言えなかったのは、頭の中に、常にシリウスの存在があったからだった。
◇
愛する人だと言われてから、扉の前を守る護衛騎士が二人に増えた。寝室の窓から覗くと、窓の下の花壇の前にも騎士が一人常に立っている。
侍女が定期的にレグルスからの贈り物を持ってくるようになり、部屋は白い百合の甘い香りと豪華な品物で溢れかえっていた。
ステラはうんざりした気持ちで、部屋の中を見渡す。ここにステラが欲しいものは何もない。腕に抱いたミラが、ステラを慰めるように甘えてきた。ステラは白い毛並みを撫でながら、大きくため息を吐く。
「王女殿下」
「なにかしら」
「レグルス王太子殿下が、夕食を一緒にと」
「……食欲がないから、夕食はいらない」
侍女は困ったように眉を下げた。少しだけこちらの様子を窺ったあと、頭を下げて退出した。しばらくして、また扉を叩く音が聞こえた。
「お願いだから、少し放っておいて」
「ステラ、医者を呼んだから診てもらおう」
「……レグルス」
扉を開けて入ってきたのは、レグルスだった。罪悪感を覚えるほど心配そうな顔をしていたため、許可もなく入ってきたことに、文句も言えない。
「どこも悪くないわ」
「食欲が湧かないのは、体調が悪いに入るよ」
「元気なのに……」
監視がなくなれば食欲だって出るはずだ。今は息苦しいから少し食べる気をなくしただけ。それでも診察を受けないとレグルスは納得しないだろう。短い付き合いでも、それだけはわかった。
ステラは小さく息を吐くと、腕の中のミラを下ろして頷いた。レグルスは安心したように寄せていた眉を緩めて、そのまま扉の外に声をかける。
「入って」
「失礼いたします」
入ってきたのは、年嵩の男性の医者と若い女性だった。ベッドに腰掛けたステラの方まで、二人は大きなカバンを持って近づいてくる。ステラの横にいたレグルスは、一歩下がって二人に場所を譲った。
「ステラ王妃殿下……いえ、まだ王女殿下ですね。お身体に触れる診察は助手が行うので、ご安心ください」
「ええ」
医者がそう言った。ステラが返事をすると、助手はステラの腕を手に取って脈を測る。診察の様子を見る気にもなれずに、ステラはミラを探した。ミラは急に人が入ってきたことに怯えたのか、少し先のソファの下に隠れていた。白いお尻だけが震えている。可愛らしい様子に、ステラは少し笑ってしまった。
「ステラ?」
「いえ、なんでもないの」
その間にも助手は、ステラの目や、口を確認する。聴診器を持ち出して、医者とレグルスに目配せした。年嵩の医者がレグルスに声をかける。
「次は心臓の音を聞くので、衣服を少しお脱ぎいただきます。こちらで待機しましょう」
「ああ」
医者とレグルスは少し下がって、ソファに座りこちらに背を向けて書類の内容を確認し始めた。助手はステラの上着のボタンを外しだす。相変わらずミラはソファの下に隠れたままだ。
(あとで好物のリンゴをあげないと)
助手は心臓の音を聞きながら、訝しげな顔をしてステラを見た。助手はステラの心臓の病気の話を聞いてないのだろうか。少し考えたような顔をしたあと、衣服を整えて後ろの医者に声をかけに行く。
「――ということは」
「殿下、これは――」
診察はまだ続くのだろうか。だんだんと眠くなってきた。昨日はよく眠れなかったから、今日こそゆっくりしたいのに。欠伸を噛み殺して、医者とレグルスが助手と何かを話すのをぼんやりと聞いていた。
だからステラは、レグルスの表情が消えていることに気づかなかった。
◇
襲撃で、居場所がばれた。人間の死体は庭で焼いた。仲間はみんな、シリウスが屋敷を移るのを望んでいた。しかし、シリウスは移動することを拒んだ。ジンは声を低くして問い詰めた。
「シリウス、いくらお前でもここに残り続けるのは危ない」
「居場所を知っている奴を全員始末する。それで問題ないだろう」
「どこまで漏れているかわからないだろう!」
あの日からジャックを筆頭に、人狼が屋敷の外を見張っている。ジンも時間が許す限りシリウスの屋敷に滞在した。全ては王を守るためだった。
「アンタレスを滅ぼして、アルデバランも滅ぼせば終わる。移る必要はない」
「そこまでここを離れない理由は、なんだ?」
ジンは窓ばかり見ているシリウスの肩を掴んだ。
「最近おかしいぞ! なぜ、お前から人間の匂いがする!」
「気のせいだ」
「なら、なぜ! いまだかつてないほど、吸血鬼の力が増しているんだ……人間の血を飲んでいるのか?」
シリウスは答えない。手元にある太陽の石を二つ、転がしながら窓をずっと見ている。見つめる方角はアンタレスがある東だった。
「太陽の石は、四つあったはずだ。何故ここまで少なくなっている……お前を守るものだぞ。どうなっているんだ」
「ああ、太陽の石か」
やっと反応したシリウスは、太陽の石を音が出るほど握りしめた。視線は窓の外に向けたままだ。頭に浮かぶのは、黒くなった石。薄汚い人間が持っていた石。自らあいつに渡した太陽の石だった。その石を、何故か捨てられずに庭のイチイの木の下に埋めた。
「太陽の石は土に埋めたんだ」
「おい、気でも狂ったか」
「そう、俺は気が狂っている」
「……何かあったのか?」
何かあった。いや、何もなかった。取るに足らない奴に、シリウスの心の底にあった希望を粉々にされただけだ。もともと必要のなかったものを、壊された、それだけ。
「憎い相手ができた」
「人間が憎いのはずっとだろう」
「それよりも、ずっと憎い」
「人間よりも……?」
ジンは訝しげな表情で、こちらを見ないシリウスを見つめた。冷酷な人外の王、シリウス。以前よりも増した力は、より濃くなった赤い瞳や近づけばひりつくような気配でわかる。ただ、ずっとおかしい。
「……憎いなら殺せばいいだろう」
「殺すだけじゃ、到底許せない」
「なら、そいつの大切なものも全て壊せ」
「それでも、気が済まない」
夜の王は、もはや同族の行く末を考えていないようだった。ジンは一抹の不安を覚えて、もう一度シリウスの肩を掴んだ。そのままジンの方に向くように、力を入れる。
久しぶりに、人外の王は、自分が守るべき同族の方を向いた。
「シリウス、何があった?」
「殺されたんだ」
「……誰を?」
「俺の唯一の希望を殺した相手に、何としてでも報復してやる」
それは、憎しみを、怒りを、悪意を込めた言葉だった。しかし、ジンにはそれが、反対の言葉のように思えた。こちらを見たジンの主人は、もはやジンを見ていなかった。
「俺は、アンタレスに行って、同じだけあいつに絶望を与えないといけない」
「アンタレスにいるのか?」
「そうしないと、俺は、気が狂ったままだ……」
それは、もはや愛だろう。ジンは、その言葉だけは言わなかった。




