第二十六話 優しい絶望(後編)
人が静かに泣く姿が、ここまで胸を締め付けられることを初めて知った。大切な人が自分のためと言って、自分を置いて死ぬ。ステラはミラに落ちた雫を見て、堪えきれずに自分が泣いていることに気づいた。
「大切な……姉でした」
「ええ、大切な弟だったのね、あなたは」
ステラはそう声をかけた。その瞬間、身体ごと引き寄せられ、レグルスに抱き締められた。彼の身体は、もう冷たくなかった。
「どうか、お願いです。このままで……」
「ええ、このまま側にいるわ」
レグルスはステラを抱きしめたまま、話し出す。感情を整理するように、ゆっくりと。
「姉は目の前で、灰になりました。その時はじめて吸血鬼になっていたことを知った。姉も知らないようだった」
「プロキオンが、ポリマ王女に血を飲ませていたのね」
「……あいつは、姉を吸血鬼にして連れ去ろうとでもしたのでしょう。そして、私は姉が側を離れることを嫌がった」
「レグルス……」
レグルスが泣いている。ステラはレグルスの背中に手を回して、とんとんと優しく叩いた。繰り返すうちに彼は身体の力を抜いていた。
「最後に姉はここに逃げて、私に連れ戻されました……今のあなたのように。私が連れ戻さなければ、姉は幸せだったのかな」
彼は続ける。
「私が、連れ戻さなければ、姉は太陽に焼かれて死ななかった……太陽の下に連れ出されるプロキオンを助けようとして、一緒に死ぬなんて」
「そんな……」
「姉が吸血鬼だと知れ渡ってからは、みんな私の王位継承に問題が出るのを恐れて、運命を分け合った王女の存在を消した。私が姉を二度も殺したんだ」
レグルスは大きく息を吐く。ポリマ王女の弟を思った選択が、レグルスを絶望へと誘っている。もし、ステラが吸血鬼になれば、母は絶望するだろうか。大切な人を苦しめてしまうことを想像して、背筋がぞっとした。
「レグルス」
「ステラ……私は間違っていたのかな」
レグルスは、声を押し殺して、ずっと泣き続けた。ステラもレグルスとポリマ王女を想って涙を流した。誰かを愛する行為が、こんな悲劇を起こしたことが許せなかった。
「ポリマ王女を一緒に弔っていい?」
レグルスは答えない。ステラは、レグルスの手に、ポリマ王女の遺灰が入った瓶を握らせる。
「あなたのお姉さまは、愛する家族に弔って欲しいはずよ」
「弔い方が、わからない」
「イチイの木の下に遺灰を埋めて、血を捧げるんだそうよ。ポリマ王女の手紙と、一緒に入っていた太陽の石も埋めてあげましょう」
レグルスは少し躊躇したあと、ステラがローブの内側から取り出して差し出した太陽の石を、そのまま素手で握った。ステラは汚れるのも構わずに、木の下の土を素手で掘る。
「ステラ」
レグルスはステラの手を止めると、腰に差していた短剣で代わりに掘った。しばらく土を掘る音が続いていた。
「これはプロキオンの遺灰も入っているんだ。どれが姉さんのか、わからなくて……」
「一緒に弔ってあげましょう」
「私はプロキオンに……血なんて捧げないよ」
「あなたはお姉さまにたくさん涙を捧げたわ」
驚いた顔をして、レグルスはステラを見た。ステラは口元を緩めながら続けた。
「お姉さまにとって、自分のための涙ほど嬉しいものはないと思うの」
「……自分を不幸にした弟でも?」
レグルスは遺灰を月に翳しながら、その中にある姉の姿を見ているようだった。
「レグルス、違うわ。ポリマ王女が、幸せかどうかは、レグルスが幸せになるかで決まるのよ」
「ああ、そうだね」
レグルスは遺灰と手紙を入れ、少し迷ったあと、太陽の石も掘った穴に入れた。ステラはレグルスと一緒に土を被せる。
全て埋め終わった後、レグルスは笑った。初めて見る彼の本当の笑顔は、月の光に溶け込むように輝いていた。
「私も……自由に生きないと」
◇
気が狂いそうだった。シリウスは裏切られたあの日から、一度も正気ではいられなかった。
これが、渇望だということはわかっている。この渇望が人間の血を求める身体から湧き上がっているのか、裏切り者の息の根を止めたいという欲望からくるものかはわからなかった。そして、それはどうでもいいことだった。とにかくあいつに会えば解決するはずだから。
約束の夜、ステラは現れなかった。少しだけステラは来るはずだと期待していた自分を、その時殺した。もう、人間に例外はいない。
屋敷中の鏡を壊して回った。愚かな自分を直視したくなかったからだ。全ての鏡を壊し終わった後、シリウスは決めた。まずは、あいつの母親を殺そう。
真夜中の、満月に近づいている空は、その姿を隠すように雲に覆われていた。屋敷の窓から飛び出したシリウスは、油断すれば出てくる雑念を追い払うために、奥歯を噛み締め続けた。
(人間の血が、欲しいだけだ)
建物の屋根を跳躍しながら、シリウスは収まらない動悸に苦しめられていた。少しでも空を見上げると、あいつと同じ色の星が輝く。こびりついて離れない女の笑顔が、自分以外に向けられる。
「はっ」
許せるわけがない。怒りに任せて、足元を踏み抜く。どこかの屋根にひびが入り、シリウスが飛び上がった瞬間に屋根が半壊した。どこからか、耳障りな悲鳴が聞こえたが、シリウスは気にも留めなかった。耳に残るのは、あいつが言った、自らの死を願う声だけだ。
「裏切ったら殺すと、言ったはずだ……」
森の中に着いてからも、心はざわめいたままだった。イチイの木は、吸血鬼にとって安息の場所であるはずなのに。今やこの木は悪夢の象徴でしかない。
ならば、そうだ。このイチイの木の下に、あいつの遺灰を埋めてやる。そうしてこそ、この渇望が収まるはずだ。深呼吸すると、シリウスはいつもステラが歩いてくる方角に向かって、駆け上がっていった。
ステラが住んでいた屋敷の場所は、忘れられなかった。何度も送り届けた、あいつの薔薇の匂いが消えることなく残っている道だからだ。
人の気配は屋敷の外からは感じられない。勢いよく玄関の扉を開けたシリウスは、出迎えるように入り口横に立てかけられた鏡を割った。自分の顔など見たくなかった。
シリウスは一階をゆっくりと歩いて、部屋の扉を一つずつ開けた。むせるような薔薇の匂いが、自分の喉の渇きを強くしている。誤魔化すように唾を飲み込んだ。
「消えろ」
シリウスは隈なく探した。何を探しているのか、だんだんとわからなくなっていった。それでもこの場所で見つかるはずだ。
「消えてくれ」
一階には、探し物はなかった。どんどんと動悸が強くなる。目眩を感じたまま、二階に上がる。
「お願いだ」
二階にも誰もいなかった。あいつの母親さえもいない。荷物も何もない。シリウスは、手を強く握る。震えが止まらなかった。
なぜ何もない。何かあるはずだ。薔薇の匂いが、まだこんなにも残っている。引き寄せられるように、匂いの強い場所に向かった。
目が熱く、耳も熱かった。身体中を自分でコントロールできなくなっている。とにかく何かを見つけないといけなかった。
「どうして消えないんだ」
薔薇の匂いが強い部屋の前で、シリウスは頭を振った。追い払っても残るのは、どうやっても消えないのは、ステラのことだった。
気が狂ったとしか思えない。あんなに人間の血を浴びたのに、身体がその血を拒絶して、今もなおシリウスの身体はステラしか求めていない。
吐き気がした。扉を開ける行為が、ここまで自分を追い詰めるなんて、理解できない。それでも開けないといけない。ここに何かがあるはずなんだ。
シリウスはゆっくりと扉を開けた。ステラの部屋だった。部屋を見渡して、そのまま固まる。
部屋のゴミ箱に、シリウスが贈ったドレスと宝石が、わざとらしく捨てられていた。一番上にはドライフラワーにした、赤い薔薇の花。気まぐれにシリウスが用意した、一本の花だ。
シリウスは、ゴミ箱から花を拾った。無様に捨てられて、花びらも落ちている。自分のようだった。
「なんで」
シリウスはそれでも周りを見渡した。信じられるなにかを見つけないと、このまま狂ってしまう。確信があった。贈ったものが捨てられたとしても、それでも、探さないといけない。
息ができなくなっていった。今やシリウスは、強い耳鳴りと自分の動悸しか聞こえなかった。
「どこにある」
寝室に入った。整えられたベッドの横にあるサイドテーブル。白い封筒が、置いてあった。
伸ばした手は震えていた。目の前がチカチカする。シリウスは封筒を開けて、中から手紙を取り出した。
むせるような、ステラの香りだ。
『あなたを置いていくことになってしまって、本当にごめんなさい。裏切り者として扱われても仕方のないことをしたわ。あなたの優しさに、何も返せないままアンタレスに嫁ぐことになってしまった。自分では、どうすることもできなかったの。いえ、言い訳をしてはいけない。裏切ってしまったのは事実なんだから。それでもひとつだけ、あなたに伝えたくて手紙を残したの。本当にごめんなさい、愛しているわ。』
シリウスは、もう抑えることができなかった。血が沸騰するように熱い。手紙に書いてある内容が一切理解できなかった。
「裏切ったのに……愛してる?」
シリウスは足を蹴り上げた。ベッドの横のサイドテーブルが、壁を壊して向こうに消えた。
「優しいと言いながら……他の男の元に行く?」
シリウスは片手を振り払った。巻き起こった風がステラのベッドをひっくり返した。
「気が狂ったとしか思えない」
(そうだ、俺もだ)
全てを壊せば元通りになるはずだ。シリウスは手紙を握りしめると、それから無心でステラの香りがする全てを壊し尽くした。




