第二十六話 優しい絶望(前編)
外が騒がしい。ステラが出てこないので、騎士が侍女を呼びにいったのかもしれない。手の中にあるガラスの瓶をそっと服の内側に隠すと、ステラは立ち上がった。
(一旦、動きやすい格好にしてから脱出する方が無難ね)
ポリマ王女の遺灰を持ち出したのは、なんとなくだった。ただ、吸血鬼を愛したというだけで隠されてしまうのが、納得いかなかったのかもしれない。
衣裳室の中を見渡して、他に何かないかを確認する。視線を上げると、上部の棚の方に箱がいくつも入っていた。それを腕を伸ばして取ると、箱が崩れ落ちてきた。
「きゃ!」
落ちてきたのはワンピースに、黒いローブと使い古された革靴。なんてちょうど良いものがあるのだろう。これも早く逃げろという、神様の思し召しかもしれない。ステラはそれを急いで衣裳室の手前に隠し、皺がついたドレスの裾を直した。
「ステラ王女殿下!」
「今行くわ!」
女性の声がする。騎士が侍女を連れてきたのだ。ステラは急いで返事をすると、衣裳室から出た。
◇
貴族女性としての生活をしていなくてよかったと、今ほど思ったことはない。窓枠に足をかけて、ステラは思い切り良く裏庭に飛び出した。
二階の客間に案内されたステラは眠いからこのまま寝ると嘘をついて全員追い出した。お祝いの準備に集中したい侍女は嬉しそうにステラを放置してくれた。扉の前の護衛騎士も、眠った女性の部屋の前にずっといる必要はないと判断したのだろう。数時間のうちにどこかに消えた。
ステラはその隙に急いでポリマ王女の部屋らしき一階の奥の部屋に戻った。そこで箱の中から見つけた動きやすいワンピースと黒いローブ、革靴に着替えた。サイズがあまり変わらなかったのも運が良かったと思う。
というわけで、ステラは建物から出ることに成功したのだ。
持ち物は数個の宝石と、ローブの中で甘えてきているミラと、ポリマ王女の遺灰だけだった。
ここまでくれば裏門からこっそり逃げられる。二階の客間の窓から確認したけれど、裏門に人はいなかった。足早に庭を横切ると、ステラはそっと門扉に手をかけた。
「ああ、流石に鍵が閉まってるわね……」
ローブの内側でミラが小さく鳴いた。不安になっているのだろうか。そっと手を入れて、小さなウサギを撫でる。そうしているとローブの内ポケットに何か入っているのに気づいた。取り出してみると、それは手紙と鍵だった。
「まさか……」
ステラは鍵を月の光に当ててみた。門の鍵穴に入りそうな大きさだ。試しに門扉の錠前に鍵を差し込んでみるとかちゃりと錠が外れた。ステラはローブと革靴を見て、それから手紙を読む。感情のままに全てが書かれた、それは遺書のようなものだった。
「これは……ポリマ王女のだったのね」
ステラはぎゅっと手紙を握りしめた。封筒の中には、硬い何かが入っていた。それは、ステラが触った瞬間熱を持った。
今からポリマ王女の願いを叶えにいこうと思う。
◇
迎賓館の裏門から歩いて一時間もすると、周りの景色が変わり始めた。賑やかな雰囲気はなくなり、周りには木々が立ち並び始める。坂を登っていくと、一番高い丘に一本の木があった。赤い実をたくさん実らせた、ステラの三倍以上ある大きな木だった。
イチイの木だ。くまなく探すつもりだったけれど、導かれるように見つかった。しかも、このイチイは、アルデバランでは見かけなかった、実のなる木だった。
流石に歩き疲れた。ステラは木の下に座り込んで、ローブの中にいたミラを外に出す。ミラは嬉しそうに地面に生える草の匂いを嗅いでいた。
「なんて、綺麗な景色なの……」
丘の上から見下ろす都は、人々が灯す明かりで輝いていた。空を見上げると、もうすぐ満月になる月も、満天の星空も見える。
今、ステラは、自由だ。そして、だからこそシリウスに会いたかった。
「吸血鬼を愛すると、人間は必ず不幸になるの?」
ここまでの道のり、月明かりを頼りにポリマ王女の遺書を読んで、ステラは少し泣いてしまった。彼女の気持ちが痛いほどわかって、感情の波が押し寄せてきた。まるで未来の自分を見ているようだった。
ローブの内側では、手紙に入っていた太陽の石が、いまだに熱く光ったままだった。
ステラは大きく伸びをして、イチイの木を見上げる。赤い実が緑の葉っぱを彩っていて、葉の隙間からは月の光が滲み出ていた。
引き寄せられるように、伸ばした手で赤い実を手に取る。この実は甘くて美味しいと、本に書いてあった。興味本位で口に入れようとして、ステラは止まった。
「やめてください……それは毒なんですよ」
必死の顔をしたレグルスが、走ってこちらに来ていたから。
「なんでここが……」
「あなたは! どこまで姉と同じことをするのです! こんな場所に、そんな格好で、そんなものを食べようとして!」
レグルスがステラの方まで駆け寄り、彼女の手にあったイチイの実を奪った。彼がここまで取り乱したのは、初めてだ。
「レグルス……」
「赤くて綺麗な実でしょう。口に含んだら、甘くて癖になる。……でも種や葉は、猛毒なんです。口に入れたらいけない」
レグルスが眉を寄せて、訴えるようにステラの肩を掴む。奪ったイチイの実を投げ捨てると、ステラの唇を指でなぞってきた。彼の手は驚くほど冷たかった。
「吸血鬼そっくりでしょう。見た目が美しく、口に含めば甘い。でも、油断して全部食べると、死にます」
「でも、実は甘くて美味しいの。種まで食べなければいいのよ」
「そんな危険を冒してまで、食べる必要はないでしょう? 甘くて美味しいものなんて、腐るほどあるのに……どうして」
彼の翠の瞳が、間近にあった。縋るように、頬をそっと触ってくる。
「レグルス……人はね、本当に欲しいと思ったものがあったとき、代用品で満足できるほど無欲ではないのよ。わたしも、あなたも……ポリマ王女もね」
彼は目で見てわかるほど、大きく動揺した。まるで大切な人に拒絶された子供のような反応だった。
ステラがイチイの木の下で、ポリマ王女の服を着ていたからかもしれない。ステラは彼の手を掴んで、ゆっくりと自分の顔から離した。
「危険だから諦められるような想いしか抱けないなら、人はここまで生きていけないと思うの」
「諦められないから……死ぬんです」
「死んではいけないの?」
「なにを!」
ステラは握りしめたレグルスの手に、ポリマ王女の遺書を握らせる。そのまま少し突き放すように、レグルスの手を離した。
「何年も苦しんだあなただからこそ……そろそろ向き合うべきだわ。人を愛するということは、どういうことか」
そう言いながら、ステラはポリマ王女を想って泣きそうになった。誤魔化すように座り込んで、近くにいたミラを抱きしめる。レグルスは音もなくステラの隣に座って、ポリマ王女の手紙を読み出した。
『愛したプロキオンと共に生きようと決意したけれど、自分だけを頼りにしていた弟を置いていけなかった。
なぜ、弟を、彼を、どちらか選ばないといけないというのだろう。
人間として生きて好きな人を裏切り、吸血鬼として生きて弟を犠牲にするくらいなら、愛する人を追って人間として死のうと思う。
願わくば来世では、みんなと一緒に生き続けたい。
プロキオン、命懸けであなたを愛したわ。プロキオンがわたしの人生を変えてくれた。それなのに、あなただけを選べなくてごめんなさい。
本当に愛していたから、わたしはあなたと一緒に死ぬことを選ぶの。あなたを救えない代わりに、あなたと一緒に死ねる幸せを選んだ。自分勝手でごめんなさい。
レグルス、一緒にいられなくて本当にごめん。あなただけはこの国でわたしの救いだった。あなたがいたから、わたしは成人まで生きることができた。たった一人の家族。一緒に生まれた大好きな弟。あなたの幸せをずっと祈っている。それがわたしの運命になるのだから。
これを見つけた人へ。
この手紙と太陽の石を託します。できるならば二つをイチイの木の下に埋めて欲しい。
それが愛した彼が教えてくれた吸血鬼の弔い方なの。吸血鬼として側にいられなかったから、せめてわたしの気持ちだけは吸血鬼として弔って欲しい。
わたしの気持ちが彼に伝わることを願って。
ポリマ・ヴァン・ルージュ・クレール』
赤いイチイの実に、映えるような緑。月の光が黄金に煌めき、アンタレスの首都は夜でも輝いていた。ステラの横で、翠の瞳のアンタレスの王太子は、姉を想って一人で涙を流した。




