第二十二話 翠の瞳の復讐者
母親の寝顔をこっそりと確認するのはステラの日課だった。大丈夫、まだ生きている、まだ独りにはならない。何度言い聞かせたかわからない。
『神様お願い、ずっと一緒にいさせて』
子供の頃から、母親のベッドの横に座り込みながら祈る。それはステラが、母親が病気になる度にする行為だった。
「お願い、お母様。わたしと一緒にいて……」
深く眠る母親は血色のよい頬で、苦しむことも咳き込むこともない。ステラがずっと神様に祈った願いが叶った。叶えてくれたのは赤い瞳の冷酷な吸血鬼だった。
ステラは母の頭を撫でる。胸に手を当てて心臓の鼓動を確認した。母は生きている。それなのに、頭から翠の瞳の復讐者の言葉が離れない。
『吸血鬼は、人間に施しなどしない。用が済めばあなたのお母様に血を与えることはないでしょう。その時がスピカ第三側妃殿下の最期になる』
シリウスは約束をしてくれた。母とステラは見逃してくれると。それならば、母親を説得して一緒に逃げればいい。一抹の不安を抱えながら、ステラは母の胸に顔を埋めて少しだけ泣いた。
◇
焼きたてのパンに、木苺のジャムを塗る。パンの香ばしい匂いに、具沢山のスープの湯気。ステラは一生懸命用意した朝食の味見をして頷いた。いい出来栄えだ。
温かい朝食を食堂まで運びながら、あと四日以内に母親を説得する計画を立てていた。
「あら、お母様もう起きてるのかしら」
食堂から人の話し声と、いい匂いがしてステラは歩みを止める。部屋の外まで漂う楽しげな雰囲気に、室内をそっと覗く。そこでは先日の侍女と母が弾んだ声で話していた。
テーブルにはローズマリーを添えてベーコンを巻いて焼いた雉肉とチーズとクラッカー、コーンスープに焼きたてのパン。ジャムにも色とりどりのフルーツが使われていた。侍女はワインを母親に注いでいる。手元のワゴンを廊下に置いたまま、ステラは慌てて母親に駆け寄った。
「お母様!」
何が入っているか、わかったものではない。ステラは乱暴に母親からワイングラスを奪った。
「ステラ! いきなりどうしたの。あなたへのお祝いを持ってきてくださったのに失礼でしょう」
「お祝い……?」
「陛下が、あなたのお父様が、婚姻と成人のお祝いに料理とたくさんの品物を贈ってくださったのよ」
視線の先には贈り物の一部が置いてあった。きらびやかな星の紋様の蝋燭立てに、繊細なレースのテーブルクロス。ステラは頭に血が上る感覚を覚えて、グラスを勢いよくテーブルに置いた。
仮面のような顔でこちらを見据えている侍女に、ステラは近くにあったワインボトルを押し付けた。
「あなたは何をお母様に飲ませようとしてるの!」
「ステラ、どうしたの!」
「今更何をしに来たというの! 帰って! 全部持って帰って!」
「ステラ、やめなさい!」
初めて聞いた母親の怒った声にステラの心臓が大きく跳ねた。母は侍女に申し訳なさそうな顔をして謝っている。ステラのことは一切見ない。
「お母……」
「王女殿下は婚姻を前に、気が昂っていらっしゃるようですね。今日はもう失礼いたします」
「ごめんなさいね。陛下にもお礼をよく伝えてください。暁の別館に移る日を楽しみにしていると」
「畏まりました」
二人はステラを空気のように扱った。まるでその場にいないかのように、ステラには挨拶もせずに退出する侍女。廊下に置かれていたステラが作った朝食は、侍女によって奥へと追いやられている。そのまま扉が閉まる音がして、ステラの母親への献身は向こう側に消えた。
目の前に広がる豪華な料理と、小さくため息を吐いてワインを飲み出した母親。不思議と涙は出なかった。けれどうるさいくらいの耳鳴りと、割れるような頭痛が治まることはなかった。
◇
荷物を運び込む大きな物音でステラは目を覚ます。
あの後、母親はステラの様子を駄々を捏ねる子供のように扱い、ろくに話も聞かずに出ていってしまった。自分で作った冷めた朝食を片付けながら、治まらない頭痛に少し横になったのだ。
「なんの、音?」
今は昼過ぎだろうか。皺になったワンピースの裾を直してベッドから起きあがり、窓の外を確認した。森に続く門扉の外には三台の大きな馬車が停まっている。
ステラは急いで部屋を出て、階段を駆け降りる。踊り場には、嬉しそうに荷物を片付けている母がいた。
「お母様?」
「ああ、ステラ! 陛下が、本日にでも暁の別館に移らせてくれるっておっしゃってね」
業者に指示を出しながら、母はこちらを見ずに話し出した。持っていく荷物は、最近増えていた新しく高価なものばかりだった。
「お母様! 陛下がお母様を大切にするとは思えないの!」
「何を言っているの。これから大切にしてくださるのよ、私のこともあなたのことも」
「お母様、わたしと逃げましょう。こんなのおかしいわ」
「何を言っているの、私たちはこんなに幸せなのにどこに逃げるというの」
母はステラの話を聞かない。移動の準備で忙しいのだろう。母はステラを見ない。予定された幸せな明日を見るのに忙しいのだ。そこにステラはいない。
もう、全てを話そう。国王陛下はステラと母を利用して、何かをするつもりだと。あなたの愛した人は、あなたを助けた吸血鬼に酷いことをしていると。
ステラは母親の腕を掴んでこちらを向かせた。
「きゃ、どうしたの」
「お母様、陛下はわたしたちを利用するつもりよ。わたしたちを助けてくれたのは……」
「これから助けるのは私です」
開け放たれた玄関の扉から、優しげな声が響いた。革靴の足音がコツコツと、それだけがステラに近づいてきている。
ステラはゆっくりと後ろを振り向く。そこには新緑のように柔らかく煌めく瞳の彼がいた。吸血鬼を一人残らず殺すと宣言した、翠の瞳の復讐者だ。




