第二十話 逃れられぬ必然
お姉さまと別れたあと、レグルスに促されるまま回廊を進み、行き着いたのは控えの間だった。彼女を一切顧みずに歩き出したレグルスを窺いながら、背中から刺すような視線を感じて、すでにステラは疲労困憊だった。
従者によって両開きの扉が押し開かれると、そこには貴賓をもてなすための空間が広がっていた。
ステラは眩しさに僅かに目を細める。
広い窓から入る太陽の光が、室内を明るくしていた。窓の外には、手入れの行き届いた王宮の庭園が見渡せる。風が入るたびにレースのカーテンが揺れていた。
窓際に置かれたテーブルには、銀のトレイとカップがすでに用意されており、これからここで優雅なティータイムが始まるかのようだった。
(そんな気分じゃないわよ。なんでわたしが修羅場に巻き込まれないといけないのかしら)
チラッとレグルスを盗み見る。彼は洗練された動作で、ステラを椅子に座らせてくれた。目が合うと翠の瞳を細めて、向かいの席に座る。静けさの中で、外から聞こえる鳥のさえずりだけが、ステラの気を紛らわせてくれた。
レグルスと二人きりで向かい合うことが、ステラにとっては優雅なティータイムではなく、逃げ場のない尋問みたいなものだ。
「ステラ王女殿下は甘いものはお好きですか?」
レグルスが、お茶菓子を指して聞いてきた。小さなケーキにフルーツが載っていて、見た目も鮮やかだ。この小さな一切れがいくらするのか考えただけで目眩がする。
「ええ、まあ」
「……婚約式の希望をあまり聞けなくて申し訳ありません」
唐突にレグルスが本題を切り出した。彼にも時間の余裕がないからか、決めることを早く決めてしまいたいようだ。ステラは身を乗り出して質問した。
「婚約自体取りやめては?」
「あり得ません」
「レグルス殿下に何も得がないでしょう!」
「得しかありませんよ。あなたは一刻も早く私と婚姻し、身の安全を確保すべきです」
レグルスはティーカップに口をつけて、ステラの意見を一切無視した。
「身の安全?」
「その首筋の噛み跡……すでに手遅れでしたか?」
ぎくりとした。ステラは咄嗟に手で首筋を押さえる。
「血を捧げてしまったのは、何回でしょうか。これ以上あいつに近づいたら、あなたの心も身体も……命さえも危ぶまれます」
まるで全てを知っているかのような口ぶりだった。ティーカップを机に置いたあと、彼は手をあげる。背後で従者たちが退出する音が聞こえた。
「何を……仰っているのか」
「シリウス・ヴァン・ルージュ。人外の王からもらったのでは?」
レグルスは自分の首を指す。ステラのネックレスのことを言っているのだろう。彼は何をどこまで知っているのだろうか。
「あいつらは太陽の石と呼んでいるようですね。それはロイヤル・ルビーといって、アンタレスでしか取れない最高級のルビーです。高い透明度で――不純物を混じらせることなく、吸血鬼の血がよく入る」
ステラは反応できなかった。震えた指先が、太陽の石に触れる。
「それを持つだけで、あいつらの血が人の怪我や病を抑えてくれる。効力があるうちは、大抵のことでは死なないし老いません。魅力的な石でしょう?」
「何を、知っているのですか」
「なんでもです」
レグルスは胸ポケットから、赤い石を取り出した。鮮やかな色のルビーだった。
「シリウス・ヴァン・ルージュは、あなたに何を話しましたか? 吸血鬼は人間の欲望によって滅んだとでも言ったのでしょうか……それでもあなたのことを助けると言って、その石を渡してきましたか?」
「人間が吸血鬼に酷いことをしたのは……事実です」
「逆なのです。吸血鬼が人間を弄んだのですよ。甘い言葉で、人を狂わせてその血を飲んで」
彼はルビーを太陽の光に翳した。血のように赤い色が、ゾッとするほど美しかった。
「あなたがそうしたように、私の姉も美しい吸血鬼に心を奪われていました。そう、プロキオン・ヴァン・ルージュ・クレールに」
「吸血鬼が、殿下のお姉さまを?」
「……我が国は、ルビーを渡す代わりに吸血鬼の血をもらっていた……古くから、お互い必要なものを渡していました。そんな中で、身体の弱かった姉はプロキオンがくれる万能薬の血に救われたと思ったようです」
レグルスが話す内容には、覚えがあった。ステラも、シリウスの太陽の石に救われた。
「元気に歩ける、余命宣告された身体でも生きていける……輝くような笑顔で私に喜びを伝えてきた。ある日から、姉は夜になると出かけていき、太陽の石を首にかけていました。吸血鬼を愛していると言って、自らの血を捧げていた」
レグルスは太陽の石を握りしめて、その瞬間だけ表情を消した。吸血鬼を愛した王女。その話は、ステラの心に、痛みを与えた。そして、彼の声にも、痛みが滲んでいた。
「馬鹿でしょう、利用されただけなのに。吸血鬼はその血を飲んで利用した挙句……姉を殺しました。死ぬほど愛していると言った姉を」
「愛……愛してるなんて」
レグルスが再びステラを見た時には、優しげな表情に戻っていた。
「血を飲まれたとき、得も言われぬ多幸感や動悸を感じませんでしたか? 吸血鬼に何を捧げてもいいと……獲物に餌をあげただけの生き物を、神だと思ったでしょう?」
「いえ、そんな、違います」
「彼らは人間の血を手に入れるために、その醜い真実の顔を隠すのです。錆びついた真実にあなたは、騙されている」
違う、そう思った。助けて欲しいと求めたのもステラだし、全てを捧げると対価を捧げたのも自分で選んだことだ。シリウスは、そんなステラに僅かな対価しか求めなかった。彼は、全てを捧げようとしたステラに、殺されるまで生きろと言ってくれた。
喉が渇く。唾を飲み、違うと言おうとして、止めた。ステラはわかってしまったのだ。シリウスを――
レグルスは、ひどく優しげな声色で話し続けた。
「順番が違ったら……あなたは私のことをどう思ったのでしょうか? あの吸血鬼よりも先に……この石でスピカ第三側妃殿下を救っていたら」
反応を見せないステラの目の前に、レグルスはゆっくりと太陽の石を置いた。赤い石は、ステラの石と共鳴したように強く光る。
「吸血鬼は、人間に施しなどしない。用が済めばあなたのお母様に血を与えることはないでしょう。その時がスピカ第三側妃殿下の最期になる」
「そんな……」
「私なら、愛する妻の母親のために手を尽くします。そして、あなたのお母様は夫に愛され、娘は至高の身分を得て……みんな幸せになる」
ステラは自分の首にかけてある太陽の石を触った。レグルスはそんなステラの態度に、困ったような顔をする。
「あの吸血鬼は微塵も迷わずにあなたを殺します。そして、あなたのお母様も……私の家族を惨殺した時のように。今ならそんな結末にならないように手を打てる」
「シリウスは……そんな人では、ないわ」
「人? 吸血鬼は人ではない」
太陽の石を触って話していたレグルスは、急にその手を離し胸元のハンカチで手を拭うと、笑みを消した。
「今ならまだ間に合う……あなたには、私のようになってほしくないのです」
ステラも太陽の石から手を離す。酷い耳鳴りが、ステラの鼓膜を突き刺した。
「吸血鬼は一人残らず太陽に焼かれて死ぬ……決められた運命として、吸血鬼のいない元の世界に戻すべきでしょう? だから私は姉が死んでから、吸血鬼を滅ぼすと決めました」
(ああ、彼はまだ、家族を失った惨劇の中で、吸血鬼を憎んでいるんだわ)
初めてレグルスの裏側を見た気がした。だからこそ、ステラもはっきりと言わないといけなかった。たぶん、この選択は間違っている。決められた運命があるのだとしたら、人間と吸血鬼は交わるべきではない。それでも。
「レグルス王太子殿下。順番が違うのです」
「順番……?」
「わたしとシリウスが出会わなかったら、あなたたちはわたしの世界に来ることはなかった」
レグルスが自分の知る吸血鬼の真実を教えてくれた。憎しみを抑えながら、事実だけを淡々と。皮肉なことに、だからこそ、自分の気持ちに気づいてしまった。
「シリウスがわたしを助ける前に、あなたが地獄の中にいたわたしたちを救うことは、絶対になかったわ。シリウスだから、わたしたちを救ったの……」
「そんなこと」
「いいえ、いまさらこの必然を変えることはできない。何が起きてもわたしは……シリウスを愛したはずよ」
翠の瞳が見開かれた。
「お母様を人質に取るなら、わたしは従うしかないかもしれないわ。でも、シリウスを売ることだけはしない。つまり、この婚姻にはなんの価値もありません」
ステラの声は、もう震えていなかった。レグルスは瞳を一度閉じて、ゆっくり開ける。
「吸血鬼を愛する人間の結末は決まっていますよ」
「それでもです」
レグルスは小さく息を吐くと、次の瞬間、見慣れた優しげな微笑みを作り上げた。
「婚姻の価値は……私が決めることです」




