第十九話 錆びついた真実
翌朝、別館の自室で目を覚ましたステラは、鏡の前に立ち、首元の傷痕を指先でそっと撫でた。いまだに彼がつけた傷口がステラの首筋にあった。それでも昨日よりは治っているような気がする。
吸血鬼の唾液は、傷の治りを早める効果でもあるのだろうか。シリウスに舐められた指先にも、視線を落とす。いまだに、肌の奥には確かな熱が残っている。
ステラは彼の熱を確かめるように、それを自らの唇に寄せた。
指先から、昨夜の記憶が蘇る。シリウスはステラを抱き寄せて、何度も首筋にその美しい唇を落として――
顔が熱くなるのを感じて、ステラは頭を振った。
(そうよ、風邪をひいて熱でも出たのよ……)
誤魔化すように唇を噛んだステラは、首筋に残る傷の上から、シリウスから贈られた太陽の石のネックレスを重ねた。
(何を考えてるの。わたしは、シリウスのために動く。恩を返さないと)
たとえ自分が隣国の王太子であるレグルスの婚約者という立場に置かれようとも、やるべきことは変わらない。むしろ、敵の懐に入ることで、シリウスに渡せる情報はより多く、より確かなものになるはずだった。
(そして、国王陛下にも聞かないと。本当にお母様のことを幸せにするのか……ううん、あいつはきっと嘘をついている)
ステラは窓から、青く澄み渡る空を見上げた。ピーッという、空を通り抜ける鳥の声に引き寄せられるように庭の木を見下ろして、目が合った。
翠の瞳をこちらに向けている、優美な笑顔の青年。レグルス・フォン・アンタレス。
「本当に、来たの?」
彼が手を振ってステラを呼んでいた。
◇
「まだドレスを持っていてくれて、本当に嬉しいです」
(嫌味なのかしら……)
突然訪ねてきて――いや、昨日また来るとは言っていたけれど、ステラにとっては突然になる――またアルデバラン国王陛下と婚約式の打ち合わせをするなんて。
着て行く服がないと伝えようとして、そういえば三着もドレスを贈ってもらったことを思い出したのだ。
自分でお茶を淹れてレグルスをもてなし、飲んでもらっている間に自分でドレスを着る、そんなことをする王女なんてステラが初めてだと思う。
ドレスをどうにか着られても、背中の留め具が一つ留められなくて、何度も手を伸ばして、ようやく留められた。最後に鏡の前でスカートの皺を伸ばすとき、髪の毛がまだボサボサで絶望したほどだ。
(レグルス王太子殿下に手伝ってもらえばよかったかしら)
結婚前の令嬢としては問題外だけれど、むしろそれで愛想を尽かしてもらえるなら儲けものだったかもしれない。
馬車に乗り込んでからも、人の顔をにこやかにずっと見つめるレグルスに、ステラはとうとう文句を言った。
「わたしの顔を見るより、窓に映る殿下の顔を見られた方が審美眼が育ちそうですよ」
「ははっ。お褒めに与り光栄ですが……あいにく私の審美眼はステラ王女の麗しいご相貌に夢中なのです」
青い上着の裾を直しながら、いっときもステラから視線を逸らさないレグルス。そういえば、彼の青い上着と、一番着やすそうだったから選んだステラの水色のドレスは、銀色の刺繍が同じだった。星空を閉じ込めたような意匠の、裾のパールの位置まで。
本当に婚約者として扱っているのだ。ステラは彼から視線を窓に移す。馬車は王宮の本邸まで車輪を動かして進んでいた。
「サイズ、合っていましたか? お揃いで嬉しいです」
やはり揃えていたようだ。気まずい。ステラはチラッとレグルスを見た。彼の胸には昨日と違い赤いブローチはなかった。代わりに黄金の星が付けられている。
「一日で痩せたようです。おそらく衝撃的な出来事から身体が驚いて変化してくれたのでしょう」
「ふふ、それは申し訳ない。お詫びに美味しいものでもご馳走させてください」
会話に如才がない。慣れない男性からのリードに、ステラは嫌味が止まらなかった。
「お姉さまと行った方が、楽しいと思いますよ。わたしは野山に実る果物の方が好きなので」
「なら、野山を贈ります」
「……カペラお姉さまが、怒っているのでは?」
「気にしません」
(……わたしが気にするのよ)
大国の王太子とはこうも図々しいのか。ステラは痛くなる頭を窓に預けて、揺れる馬車に身を任せた。
◇
白磁の柱と磨き上げられた大理石の床。その最奥にある玉座に、温度のない青い瞳をした男が腰掛けていた。レグルスにエスコートされて入室した謁見の間は、昨日よりも冷たい空気が漂っている。
「アンタレスの国王の喪が明けたら、早急に婚姻と王太子殿下の戴冠式を執り行うそうだ。ただ……婚約式については華美な祭典をせず、アンタレス国内で至急に行わないといけない」
娘の婚姻について何の感情も乗せずに、義務的な報告事項として話し出す国王陛下を見ながら、ステラは苛立ちを噛み締めた。娘の意見など一切関係ないことは分かっていたけれど、腹が立って仕方がない。
「ステラ王女殿下、申し訳ありません。婚約式まで半月ほどの猶予しかないので、あなたにはアンタレスにすぐに来ていただきたいのです」
「半月? そんな」
公的な場所で、口調を乱したステラをアルデバランの国王は一瞥した。
「輿入れの準備はこちらで全て行う。数日のうちにレグルス王太子殿下と共に出国するように」
「あり得ません。お母様を一人にしろと?」
「スピカについては、暁の別館に移ってもらい、使用人に侍女、専属の医師もつける。心配ないだろう」
「……信じられません」
控えている家臣たちが、騒めいているのを感じながらも、ステラは今まで抱えていた不満を抑えることはできなかった。
「お母様を今更厚遇すると言っても、信じません」
「……ステラ王女殿下」
隣でレグルスが、ステラの腕をひいた。ステラはレグルスの、変わらない優しげな笑みに視線を向ける。彼は首を小さく振って、ステラのこれ以上の発言を制した。
「婚姻後、スピカ第三側妃殿下がお望みなら、アンタレスに来ていただいても構いません。何よりアンタレスの王妃の御生母を蔑ろになど……アルデバラン国王陛下がなさるはずがないのです」
「……ステラ、決まったことだ。あとはレグルス王太子殿下と、今後の予定について話し合いなさい。今日はもう下がってよい」
レグルスの言葉に、アルデバラン国王は苦虫を噛み潰したような顔をした。ステラは初めて見る国王の表情の変化に強い違和感を覚えながらも、レグルスから促され謁見の間を退出するしかなかった。
ステラはエスコートされながら部屋を出る瞬間、後ろに視線を送る。アルデバラン国王は額に手を当てて、こちらをじっと見ていた。
「カペラ第一王女殿下……」
レグルスの声で、ステラは前を向く。そこには不満を隠そうともしていないお姉さまが立っていた。
「お姉さま」
「誰がお前の姉だというの」
とてつもなく苛立っているようだ。咄嗟にレグルスの腕から手を離そうとして、レグルスの手によって押さえられた。
「アンタレスの王妃になる女性です。カペラ第一王女殿下には、相応の敬意を払っていただきたい」
「レグルス殿下……何故ですか。何年も婚約者として、わたくしはあなたの隣にいました」
「過去のことです」
「わたくしの矜持と立場をこんなにも傷付けて、このままで済むとでも?」
俯きながら控えていたお姉さまの侍女が、怯えたように主人を見上げる。姉の絞り出す声は、怒りに満ちていた。
「むしろアルデバラン王妃殿下には感謝されましたよ……国王陛下にもですが。それに……」
レグルスは興味がないと言うかのように、怒りを露わにする姉を視界から外した。そのままステラを見つめると、少し眉を寄せた。彼の手がゆっくりと、ステラの首筋を撫でる。鳥肌が立って、ステラは姉からレグルスに視線を移す。
「錆びついた真実によってこんなにも痛々しい傷をつけられた婚約者のことで、私の頭はいっぱいなのです」
彼の翠の瞳は、ステラの首筋の傷を映していた。それは温度のない、冷たい翠色だった。




